沢木氏のユーラシア大陸の旅も後半に入ります。
4冊目の「シルクロード」の巻になると、強烈な印象を受けた香港やインドの経験が、次第に沢木氏の感性をよくも悪しくも旅慣れしたスライム的なものに変容させていきました。
(p20より引用) 長く旅を続けているうちにすべてのことが曖昧になってきてしまうのだ。黒か白か、善か悪かがわからなくなってくる。何かはっきりしたことを言える自信がなくなってくる。なぜ物乞いを否定できるのか、なぜ不潔であることが悪いのか、わからなくなってくる。憎悪や嫌悪すら希薄になってくる。
旅の中にいると、それまで当たり前のことと思っていた「意識の軸」の基礎が揺らいできます。既存の常識や価値観が相対化されてくるようです。
5冊目の「トルコ・ギリシャ・地中海」の巻では、沢木氏はついにアジアからヨーロッパへと渡ります。
ヨーロッパの息吹は、まずイスタンブールで感じることになります。イスタンブールは有名な名所史跡が数多くあり、見所には事欠きません。が、沢木氏はやはり街の姿、そこに住む人々が面白いと思うのです。
(p116より引用) しかし、やはり私には街が面白かった。街での人間の営みが面白かった。
このあたりから、沢木氏は、今まで経てきた自分の旅を振り返るようになります。
(p130より引用) 旅は私に二つのものを与えてくれたような気がする。ひとつは、自分がどのような状況でも生き抜いていけるのだという自信であり、もうひとつは、それとは裏腹の、危険に対する鈍感さのようなものである。だが、それは結局コインの表と裏のようなものだったかもしれない。「自信」が「鈍感さ」を生んだのだ。
そして、「旅」を「人生」になぞらえつつ、少しずつこの旅の終わりを思い始めるのです。
(p198より引用) 旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。人の一生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があり、老年期があるように。長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても新鮮で、どんな些細なことでも心を震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。そのかわりに、辿ってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる。年を取ってくるとしきりに昔のことが思い出されてくるという。私もまたギリシャを旅しながらしきりに過ぎてきた土地のことが思い出されてならなかった。
いよいよ最後の6冊目「南ヨーロッパ・ロンドン」。著者の旅はフランスに入ります。
モナコからニース行きのローカルバスに乗って、地中海の美しい海を目にしたときの著者の声は、「これはひどいじゃないですか」でした。
(p80より引用) これまでにも美しい海岸はいくつも見てきた。しかし、このように人工的でありながら、このように完璧な美しさを持っている海岸は見たことがなかった。・・・私は誰にともなく、これはひどいじゃないですか、と呟きつづけていた。
私にも記憶に残る美しい海があります。八重山諸島の竹富島・西表島の海です。
これ以上の透明はないというような緑青の水。30年ほど前にその海を見て以来、私はこちら(本土)で海水浴に行ったことがありません。あの澄んだ海と比べてしまうと、到底泳ぐ気が起こらなくなったのです。
さて、文庫本では6冊に及ぶ沢木氏の旅も、最終目的地ロンドンに至りました。ただ、沢木氏の目は、さらにアイスランドに・・・?
深夜特急〈6〉南ヨーロッパ・ロンドン (新潮文庫) 価格:¥ 460(税込) 発売日:1994-05 |
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