いつも利用している図書館の新着書リストの中で目に留まりました。数学者であり随筆家としても一流の岡潔さんの対談集です。
岡さんの著作は以前も「人間の建設」「数学する人生」を読んだことがあるのですが、いずれも私の理解力が全くついていけず文字を追うに止まった記憶があります。今回の本も、対談の相手が司馬遼太郎さん、井上靖さん、時実利彦さん、山本健吉さんとのことなので、かなり心配でした。結果はやはり“返り討ち”のようです。
ただ、とはいえ、ある程度言わんとすることが分かったように思うやり取りもありましたので、その中から関心を惹いたものをいくつか書き留めておきます。
まずは、作家井上靖さんとの対話から。
(p93より引用) 井上 いま、私たちの毎日生きている生活は、ほんとうにこわいという感じになってまいりました。ものを考えながら歩ける町、これが人間が住む都市の条件だと思うんですが…。
岡 文明とは、植物にとっては緑がいきいきとすること。人なら、やはり、植物がいきいきしていくのと同じような環境をつくっていくこと、それが真の文明です。
次に、文芸評論家山本健吉さんとの対話。こちらは「芭蕉」を語り合ったものですが、「連歌は芸術か」という議論に対しての岡さんはこう答えました。
(p169より引用) 岡 連句というものの見方が全然わかってないな。わかってないということは、芭蕉の俳句というものの見方もわかってないのでしょうな。ということは、人生というものがわかってないのでしょうな。人生は、一口にいえば夢、それがわかってない。つまり、夢を見ようじゃないかとやればいいので、くだらん夢見たら馬鹿をみますよ。
断定の連続、厳しいですね。何という自信に満ちた言葉でしょう。
もうひとつ、山本さんが芭蕉との対比でシェークスピアを持ち出したときの岡さんのコメント。
(p176より引用) 岡 芭蕉はシェークスピアどころじゃありませんよ。
山本 比較するわけではないんですけれども。
岡 比較せよというならしますが、シェークスピアの作品は横に並んでおりますよ。芭蕉の総文学は縦一列にいっております。どんどん人生を歩いております。シェークスピアは、本が羅列している。それで千万人の心というと、あの心も知っている、この心も知っているという知り方。芭蕉は大円鏡智です。たなごころをさすがごとく千万人の心を認識している。
これも強烈なインパクトがありますね。
さて、本書を読み通しての感想ですが、やはり当初の想像どおり登場している方々とのやりとりはほとんど理解できませんでした。
読み手の素養を踏まえるとこれは当然のこととして、最後に“理解できなかった極めつけのくだり”を書き留めておきましょう。「数学者岡潔」さんの言葉です。
(p182より引用) 岡 情緒を形にあらわすから数学になる。 情緒がなかったら、まるでもとがない。情緒を数学の形に変形するだけです。情緒がもとなんです。数学は一つの変形なんです。数学はまったくことばですよ。・・・つまり、数学ということばがある。数学ということばによって何を表現するかというと、詩を表現する。詩というのは、一つの内容のあらわされたもの、その詩の内容の一つ一つを情緒というのです。
情けないのですが、やはり私にはダメですね・・・。
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