「兵法家伝書」「五輪書」「武士道」などを読んでみると、やはり「禅」についてちょっとかじりたくなります。
著者の鈴木大拙(すずきだいせつ 1870~1966)氏は、本名、貞太郎、石川県金沢市に生まれの仏教哲学者です。学生時代に鎌倉円覚寺の今北洪川師らについて参禅し大拙の道号を受けました。
この本の原書(英文)は、1935-36年、英米の諸大学での鈴木大拙氏の講演を骨子としてまとめられたものです。本書において鈴木氏は、日本の諸美術・武士道の発展、儒教、茶道の興隆、芭蕉を中心とした俳句といったものを通して「禅」の精神を探っていきます。
冒頭、「禅と日本文化」に関して、こう記されています。
(p1より引用) いまさらいうまでもないが、日本人の道徳的または修養的ないし精神的生活に関し、公明にかつ理解をもって、書いている内外権威者の多くは、禅宗が日本人の性格を築きあげる上にきわめて重要な役割を勤めたという点で、意見をひとしくしている。
「禅」は、禅宗において悟りに至る方法です。「禅」の原則は「不立文字」だと言います。
(p7より引用) 禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)というのである。
この点において、禅は科学、または科学的の名によって行なわれる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。体験的なるものはまったく個人に属し、その人の経験を背景としなくては意義を持たぬ。科学は系統化を意味し、禅はまさにその反対である。言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合は妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない、実体こそ、禅において最も高く評価されるものなのである。
「禅」は、文字(言葉)による科学的論証ではなく、「直覚的知識」を重んじます。
その点において、鈴木氏は、結果として「禅」を「近代科学精神に対峙するもの」として位置づけます。すなわち、真理がどんなものであろうと、まず身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬことが肝要なのだ、と考えるのです。
「直覚的知識」に基づく「禅」の教え、その根本義が「一即多、多即一」です。
(p32より引用) 『一即多、多即一』という句は、まず「一」と「多」という二概念に分析して、両者の間に「即」をおくのではない。ここでは分別を働かしてはならぬ。それはそのまま受取って、そこに腰を落ちつけねばならぬ。これがここで必要ないっさいである。
この「禅」における「直覚」が、剣術・茶道・俳諧といった日本の文化・芸術の底流をなしているのです。
(p21より引用) 非均衡性・非対称性・「一角」性・貧乏性・単純性・さび・わび・孤絶性・その他、日本のおよび文化の最も著しい特性となる同種の観念は、みなすべて「多即一、一即多」という禅の真理を中心から認識するところに発する。
(p147より引用) 剣士・茶人そのほかの各種芸道の師匠たちが了解したいろいろな専門的な諸直覚は、要するに、一つの大きな体験の各特殊な応用にすぎないとは、事実、日本人一般からかたく信じられているところである。
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