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日本人論不要の時代へ (「日本人論」再考(船曳 建夫))

2012-08-05 09:55:44 | 本と雑誌

Geisya  第二章で紹介された志賀重昂の「日本風景論」、内村鑑三の「代表的日本人」、新渡戸稲造の「武士道」、岡倉天心の「茶の本」の4つの著作の背景にある不安。
 この成因を、著者は、日露戦争の勝利による新たな日本の意味づけに求めています。

(p123より引用) 日本が日露戦争によって、国家としての一定程度の位置を西欧諸国の中に占めることとなり、かえって自らの、アイデンティティを疑わざるを得なくなった。

 この心情は、既存の仲良しクラス(西欧諸国)の中に、新参者の「転校生」として加わった不安に似ています。
 そういった明治期の不安に対し、昭和期になると、日本を従来とは異なる立ち位置に置いた論考が著されました。「「いき」の構造」「風土」「旅愁」「近代の超克」といった著作です。

 その中のひとつ、太平洋戦争前、世界大恐慌のころに書かれた九鬼周造による「「いき」の構造」について。
 私も以前読んだときには、奇妙な内容だなと思いました。特に、種々の心情を立体図形をもって理論化する立論はとても独創的に感じたのですが、船曳氏は、本書の特徴を以下のように語っています。

(p98より引用) すなわち、「外国」に暮らすことで否応なくわき上がる日本人としてのアイデンティティの不安を、ある対象を論じる中で考えていくに際して、その外国の事象と直接比較せずに、または比較できないものを取り上げ、しかしながら、その分析には、西洋の文明で鍛えられた方法の刃をもってする、ということである。・・・日本の「色の世界」が、西洋哲学の概念と方法によって分析しうることを証明することで、日本人が孤立した存在ではなく、特殊であっても普遍的な道具で料理しうる、つまり理解が可能である人々であることを証明しようとしたのだ。

 なるほど、これは確かに首肯できる興味深い指摘です。

 さて、こういったいくつかのフェーズを経て、著者の考察は、第二次世界大戦前後の日本人論に移っていきます。
 このころになると多くの人も手に取った有名な著作が次々に登場します。ルース・ベネディクト氏の「菊と刀」、中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」、土居健郎氏の「「甘え」の構造」、さらには、エズラ・ヴォーゲル氏の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」・・・等々。日本人論が一世を風靡した時代でした。
 こういった日本人論の流行は、決してこれらの著作が指摘しているわけではない、短絡的かつステレオタイプな日本人像も表出させました。

(p231より引用) まずは、表面上の主張として近代国家の中で「西洋」との共通性を強調するのであるが、いったん固有性を語り出すと昂奮して正確さを失い、独自性を、相手の「オリエンタリスティック」な枠組みに迎合するかのように誇張をしてしまう。・・・このことは外部の人間の日本理解をしばしば妨げてきた。

 日本といえば、「サムライ」「ゲイシャ」をイメージするとの類の論です。

 さて、それでは今はというと、著者は、日本人論不要の時代になりつつあると考えています。

(p311より引用) 日本人論の最期は始まっている。それは・・・戦後の60年が、日本人論仮説で提示したような不安を感じない世代を生み出しているからだ。日本人論を必要とした日本人の、終わりが始まっている。

 日本人としての「アイデンティティ」が確立し安定化されたのか、それともそもそも「アイデンティティ」という意識自体が不要になってきたのか・・・。西洋に対する日本という不安がアジアの中の日本という新たな不安に変容しつつある兆しも感じられます。「グローカリゼーション」という止揚された思想がゴールだという単純な議論でもないでしょう。

 各国と同じく尊重すべきナショナリズムは持ちつつも、自己擁護を目的とした日本人論は不要となる日本がひとつの目指すべき方向性であり、それに向けた日本・日本人の変容のプロセスが始まったように思います。


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