永六輔さん。野沢那智さん、愛川欣也さん・・・と並んで、深夜放送の中での私の思い出の方です。
本書は、今から20年ほど前の著作です。永さんの語り口そのままが嬉しいですね。
本書の構成ですが、かなりの部分は「芸人」やその周辺をテーマにした「語録」の紹介です。とはいえ、有名人の言葉ばかりを採録したわけではありません。むしろ永さんは、圧倒的に無名の人々の言葉を数多く選び出しました。それは永さんの考えや価値観が間接的に投影されているともいえます。
それらの中からいくつか私が気になったものを書き留めておきます。
まずは、「最近の芸人」を評して。(この本での時間は、今から20年ほど前が基点であることを常に意識してください)
(p5より引用) 「むかしの芸人は芸の上手下手が人気をわけました。
ちかごろの芸人は運が良いか悪いかです」
そして、次は「最近の客」です。
(p8より引用) 「客がよくなきゃ芸人は育ちません。
芸人が育つような客は少なくなりました」
このあたりのところは、寄席や芝居小屋でもそうなのでしょうが、とりわけテレビの悪弊が際立っていますね。
(p123より引用) いま、テレビがあらゆる芸人の「送り手」になっていますが、テレビは芸人をつぶしていないでしょうか。
若い世代の芸人志向は目を見張るばかりです。・・・
有名になりたいという夢がかなって有名になっても、支える芸は何もないという現実。
そして、そのことを別に恥ずかしいと思わないという感性。
「何もできない芸人」という芸人が生まれつつあるわけです。
この点は永さんの仰るとおりですが、そういう「芸人」が存在する場があるのも現実です。メディアや視聴者が次々に「芸人」を消費している刹那の場であったとしても、すでに20年以上存続しています。
こういった場での芸人は「芸」を披露することは求められていません。というより、最近の「芸人」の「芸」は、ひな壇での気の利いた「ひと言力」になってしまったのかもしれないですね。
(p188より引用) このところ、「知識人の芸人志向」と「芸人の知識人志向」が流行のようであり、さらに「若者の芸人志向」も強くなっている。
みんなが人生を演じはじめたとすると、その疲れがどこに出てくるか、不安である。
また、全く別の切り口ですが、旧来型の「芸」に関してこういった声があることも永さんは紹介しています。
(p48より引用) 「街角で紙芝居をやると道交法、
広場で紙芝居をやると公園法。
紙芝居を取り締まる法律は揃ってますが、
守ってくれる法律はありません」
街場の芸はどこで生き続けることができるのでしょうか。それは、市井の人々に受け入れられ続けていた流行歌や演芸の世界においても同じです。大いに気になるところです。
(p155より引用) 今後、ひとつの歌が、ひとつの笑いが、人生の味わいを深くしたり、感動したり、刺激されたりというかたちで、芸と芸能の世界が展開していくかどうか。
そうして、芸人がどう生きるべきか。
さて、本書のあとがきに、こういう一節がありました。
(p189より引用) 芸人は自分の人生とは別に、芸人としての人生があり、その虚構のなかで生きていくことが多い。
さらにいえば、人びとの記憶のなかで生きている存在なのだ。
前段は当てはまらないかもしれませんが、後段はまさに永さんご自身がそうなってしまわれたのですね。
芸人 (岩波新書) | |
永 六輔 | |
岩波書店 |