本書の第二章「社会契約論と正義」の中では、「公共善」とは別の、「自分自身の利益のための社会」という観点からの正義の議論の系譜が紹介されています。その流れは、ホッブズに始まりスピノザ・ロック・ルソーと続きカントに至ります。
カントは、人類の歴史は正義が実現されるための歴史であると考えました。
(p125より引用) 当初は情念に基づいた強制のもとで社会を形成していたとしても、やがては道徳に基づいて全体的な社会を構築するようになる
自然状態から社会状態への移行です。そしてその「社会」において正義が実現されます。
(p126より引用) 人間の作りだす社会は、「普遍的な形で法を執行する社会」、すなわち正義の社会でなければならない。
とされ、さらにその論は「共和制」から「世界公民状態」へと続きます。
(p134より引用) 共和制こそが、自由を原理とする国家体制であり、これは「人民の名において、一切の国民の提携のもとに、彼らの選出議員たち(代議士たち)をつうじて、彼らの権力を処理するための人民の代議制」である。この体制に到達することが、すべての政治体制の目的である。そこでこそ、国民は自由で平等になり、完全な正義が実現されることになるだろう。
このようにしてすべての国家は共和制に到達することが望ましいのであり、この共和制の諸国家で形成される連合こそが、永久平和を実現するために出発点となるだろう。
このあたりの主張は、カントの後期の政治哲学の著作である「永遠平和のために」で具体的に展開されています。
さて、こういった一連の社会契約論者の論調に対して、「個人の徳」という観点から正義を考えたのがスコットランドのヒュームでした。
(p139より引用) 社会契約の系譜の哲学者たちは、カントのように悪人でもたがいに正義を尊重できるような社会の仕組みを考えるが、ヒュームやスミスの市民社会論の系譜の哲学者たちは、市民社会の仕組みのうちに、人々を善き者とするメカニズムがそなわっていると考える。社会そのものが、人間に正義の価値を教えるのである。
この考え方は、私にとってなかなか興味深いものがありました。
この論をもう少し具体的に辿ってみます。
(p144より引用) 社会契約の正義の理論では、契約によって所有権を保護する法律が定められ、その法律を遵守させ、侵害を処罰する政府が樹立される。しかしヒュームの理論では、所有権そのものが正義の産物であり、・・・社会における所有関係は、「自然な関係ではなく、道徳的な関係であり、正義を根底とする」のである。
「本来人間は利己的な存在である」とヒュームは考えます。そして、この「利己」が「正義」に至るというのです。
(p145より引用) 人間の本性は利己心にあり、これは正義を守るものではない。しかし人間の利己心が、人間に正義を守ることの利益を教えるのであり、その意味では人間の本性は正義を実現するようになっているのである。「自利は正義を樹立する根源的な動機である」ということになる。
「人々は社会に暮らすうちに、その本性から自然と正義を学ぶ」というこの立論は、とても独創的です。それも「利己心」がその根源であるというのは逆説的ですが、それゆえ説得力を感じます。
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