内田氏も、学者としては比較的マスコミへの露出も多い方で、まさに「メディア」を仕事場にしているお一人です。自分自身にも大きな関わりがあることから、わが事として「メディア」の動向については注視し、積極的に発言しています。
昨今のこの手の議論は、インターネットに代表される新たなメディアの台頭と、新聞・テレビといった従来型メディアの衰退といったコンテクストが主流になっています。こういったステレオタイプの対比スタイルに対して、内田氏は、もっと根源的な価値判断がなされるべきだと指摘しています。
(p41より引用) メディアの価値を考量するときのぎりぎりの判断基準は「よくよく考えれば、どうでもいいこと」と「場合によっては、人の命や共同体の運命にかかわること」を見極めることだろうと思います。そういうラディカルな基準を以ってメディアの価値は論じられなければならない。どのメディアが生き残るべきで、どのメディアが退場すべきかがもっぱらビジネスベースや利便性ベースだけで論じられていることに、僕は強い危機感を持っています。
この指摘は重要です。新たなメディアであっても「どうでもいいもの」は淘汰されるでしょうし、旧来メディアでも「重要なもの」は生き残るということです。
では、「どうでもいいもの」であるメルクマールは何か、考えられる一つは、「正義」を追求するものか否かでしょう。このメディアの正義感がまた曲者です。メディア、特にテレビや新聞といった一般大衆に露出の多いメディアは、自ら「正義の味方」であることを標榜しますし、「弱者の味方」として振る舞います。
(p83より引用) メディアが一度「正義」だと推定したら、それは未来永劫「正義」でなければならないと思っている。「推定正義」が事実によって反証されたら、メディアの威信が低下すると思っている。でも、話は逆なんです。事実によって反証されたら「推定」をただちに撤回することがむしろ、メディアの中立的で冷静な判断力を保証するのです。
「推定正義」を貫くメディアの姿勢に大きな問題があるとの考えです。これも、実感として首肯できる点ですね。
さらに、こういう一種独善的なメディアの暴走は、「メディアとしての矜持」の喪失に根源があるようです。
(p93より引用) 具体的現実そのものではなく、「報道されているもの」を平気で第一次資料として取り出してくる。僕はこれがメディアの暴走の基本構造だと思います。
これもそのとおりです。メディアが、直接情報源にリーチしないのであれば、まさに存在する意味はなくなります。
一次情報の無条件な盲信に基づく情報の変形と拡散、こういったメディアの暴走の増幅が、すでにネットの世界では通常状況として起こっています。内田氏の用語を借りると、「発した言葉の最終責任を引き受ける生身の個人」が見えないのです。ネットにおける匿名情報の危うさが拡大している今こそ、顔の見える個としての責任あるメディアが復権する機会なのです。
「どうしても言っておきたいこと」を語っているかが、メディアの命脈をつなぐものだと内田氏は説いています。ここにメディアとしてのraison d'êtreがあるのです。「自分しか語らない」、すなわち「語る自分」を確固たるものとしているか、それは別にNew mediaであろうとOld mediaであろうと関係はありません。
要は「個としての主体的責任」に根源的な存在意義を認めているか否かの問題です。
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