菊澤氏は、「心理会計」と並んで、「不条理な失敗」の合理性を説明するもうひとつの理論として、行動経済学上の「取引コスト」の考えを紹介しています。
(p88より引用) 取引コストの存在ゆえに、「不条理」な状態が発生する。それは、全体的に見て、明らかに現状を変化させたほうが効率的であるにもかかわらず、そうするには多くの利害関係者と交渉・取引する必要があるため、その際に膨大な取引コストが発生し、個人的には変化しないほうがむしろ効率的だという状態のことである。すなわち、取引コストによって全体効率性と個別効率性にズレが生じるため、個々人は全体効率性の達成を諦めて個別効率性だけを追求するのである。
このあたりは、以下の例示が分かりやすいですね。
多くの企業が狙っているところでもあります。
(p89より引用) 限定合理的な人間の世界では、・・・既存の商品が新商品より劣っていたとしても、新商品へ移行するのに必要なコストがあまりにも高いならば、人々は移行しようとはせず、あくまで既存の商品に固執する可能性がある。・・・
取引コスト理論に従うと、こうした現象は決して非合理的な現象ではなく、まったく合理的な現象とみなされる。
この理論によると、「取引コスト」が高ければ、一度決めたことはなかなか変更に至らないことになります。方針や施策の変更は困難になってしまいます。
状況の変化に応じて、柔軟に対応変更できるようにするためには、「取引コスト」を下げるか、「取引コスト」を凌駕するプロフィットを与えなくてはなりません。
菊澤氏は、そのための方策として「損害賠償制度」を挙げます。
(p231より引用) 限定合理的な人間社会では、契約は常に不完備契約となる。それゆえ、不完備契約を絶対的なものとして強制的に守らせようとすると、取引コストは高くなり、そのために取引が起こりにくくなる。あるいは、たとえ取引されたとしても、逆に非効率な資源の配分と利用が発生する可能性があるのだ。
しかし、損害賠償制度のもとに、必要とあれば契約を破る自由を人間に与えておけば、取引コストは節約され、人間は自由に取引しようとする。つまり、損害賠償制度は、取引コストを節約する法制度であり、その法制度によって取引が活発になり、効率的な資源の配分が起こるのだ。
この考え方、すなわち「損害賠償制度」の意味づけとして、経済活動の活性化・効率化に資するものとしているのは、結構興味深いものがあります。
決めたこと(契約)を破ることは、「命令違反」と相似です。
本書では「不条理な失敗」の回避策として「(よい)命令違反」を推奨していますが、こういった「損害賠償制度」は、(命令違反を前提としたスキームである点で)「命令違反」を実行たらしめる仕掛けとも言えます。
本書において菊澤氏は、太平洋戦争における日本軍の行動を材料に、そこで生じた「不条理な失敗」を新たな切り口で分析し、その「失敗の本質」を追究していきました。
(p65より引用) このまったく非効率な戦術を選択し続けた陸軍の行動にも合理性があったということだ。つまり、ここでの失敗の本質は人間の非合理性にあるのではなく、実は人間の合理性にあるということであり、それゆえガダルカナル戦は歴史における特殊なケースではないのだ。
「人間の個人レベルの心理的な合理性」。
著者の菊澤氏が明らかにした普遍的な「失敗の本質」です。
(菊澤教授のBlogでもコメントいただき、ありがとうございます。)
「命令違反」が組織を伸ばす (光文社新書 312) 価格:¥ 798(税込) 発売日:2007-08 |