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「方法序説」の意味づけ (デカルト『方法序説』を読む(谷川多佳子))

2007-07-28 16:41:33 | 本と雑誌

 デカルトの思索は、「方法序説」において、「コギト・エルゴ・スム(Cogito,ergo sum)」から「(心身)二元論」に至ります。

(p109より引用) こうして、考えることが、世界のある無しにかかわらず、わたしの存在を保証する。わたしの本質は考えることであり、身体〔物体〕にはまったく依存しない。

 「二元論」には数々の反論が出されましたし、また、二元論自体においても論理的難点として「心身の結合」問題が提起されました。

 デカルト自身、エリザベト王女からの質問を機に、別々とされている精神と身体を結合させる説明を探究していました。

(p157より引用) たしかにデカルトは心身結合を、「それ自身からしか理解されえない」原初的概念としてとらえ、さらに、生活の次元に属するものとしてとらえることに気づいていたわけです。

(p169より引用) デカルト自身、二元論を立て、精神と身体とを区別しましたが、両者の結合は生きるなかでとらえられる、と語っています。・・・デカルト自身は、感覚や日常生活の豊かさを重視していたことが感じられます。

 この二元論の議論は、「機械論的自然観」にも関わります。
 (ちなみに、デカルトは、数学をモデルにした論理的思考方法と機械論を確立したといわれています)

(p136より引用) デカルトはまず、実践的な哲学と実験を重視します。・・・近代科学がオプティミスティックに始まる時代ですから、自然科学が進歩すれば人間は幸福になれるという学問の展望が述べられる。・・・
 その際の重要な主題が「自然」で、・・・「こうしてわれわれをいわば自然の主人にして所有者たらしめる」という有名な表現です。ヨーロッパ近代の自然へのかかわりを典型的に示す言葉で、フランシス・ベイコンの影響といわれています。

 人が自然を支配するのは「技術の発明」によって可能になるという技術礼讃・機械礼讃的な考え方です。

 この「機械論」が「二元論」の議論に適用されると、(「身体」はともかく)「心(精神)」も「機械」として説明できるかという命題につながります。
 この思索の流れを現代にまで敷衍すると、「心」と「脳」の問題すなわち「大脳生理学」にも至ります。

 この「二元論」や「機械論」に代表されるように、「方法序説」は、その時代においての意味以上に、その後の種々の学問にもその裾野を拡げていたといえます。

(p167より引用) 『方法序説』・・・これは小さな本ですが、そのなかで近代の学問の枠組みを考えるための基本的問題が多岐にわたって提示されています。・・・そして二十世紀、多方面多領域からのデカルト批判。それでもなぜデカルトなのか。個々の問題解決能力には難点や限界があるとしても、問題提起の豊かさ・広さ・深さにおいて、その哲学の偉大さが計られるのではないでしょうか。デカルトの問題提起は根本的であり、その射程は広大でした。

 まさに、現代に生きる(「課題解決型」ではなく)「問題提起型」の思索だったわけです。

デカルト『方法序説』を読む デカルト『方法序説』を読む
価格:¥ 2,730(税込)
発売日:2002-06

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