著者の桂文我氏は関西の現役の噺家で、私が好きだった桂枝雀師匠の弟子です。
その枝雀師匠から落語の歴史もきちんと勉強するよう指導され、以来、散逸していた落語史料を丹念に集め、「噺家による落語の本」として自ら著したものとのことです。
落語の起源から書き起こし、江戸・明治・大正・昭和の名人のエピソードやその時代風俗にも触れた肩の凝らない読み物になっています。
その中で紹介されたいくつかの薀蓄をご紹介しましょう。
先ずは、落語と知識人・文豪との関わりです。
一般庶民の娯楽として大道芸的なスタイルで栄えた落語ですが、江戸時代の噺家は一般大衆のみならず知識人にも高く評価されました。
享保年間(1700年代)に京都で人気を博した二代目米沢彦八はその代表です。
(p18より引用) また、一般大衆から知識人まで広く支持を得ていたようで、儒学者・村瀬栲亭もその技量を高く評価し、国学者・本居宣長も京都で勉学に励んだ頃の『在京日記』に「四條下ル所の川原に、米沢彦八出居侍る、いとにきわしき」と記しています。
また、明治期の名人初代三遊亭圓遊は、当時の文豪達にも少なからぬ影響を及ぼしたようです。
(p103より引用) 明治二十二年(1889)の初め頃、学生時代の夏目漱石(夏目金之助)と正岡子規(正岡常規)は、「寄席で落語や講談を聞くのが好き」という共通の趣味で仲良くなり、連れ立って寄席に出掛けていました。・・・
『吾輩は猫である』に出てくる、
「心臓が肋骨の下でステテコを踊り出す」
という一文は、『ステテコ踊り』をそのまま使っているのです。
三代目柳家小さんも、漱石に注目されたひとりです。
(p144より引用) 夏目漱石や志賀直哉らの支持も集め、文人の作品にも多少の影響を与えています。
特に夏目漱石の『三四郎』では、登場人物の与次郎に、
「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。実は彼と時を同じゅうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても子さんは聞けない。少し後れても同様だ」
とまで言わせています。
漱石の作品独特のユーモアは、当時の落語の名人達からの影響によるところも少なくないそうです。
その他興味深かったのは、大正期の「吉本」。
この時期に、今の吉本の芸人さんたちに対するマネジメントスタイルが生れました。
(p150より引用) 吉本が行った画期的な経営方針は、所属芸人に月給を支給したことで、それまではどの興行師も月給で芸人を丸抱えすることはなく、芸人も月給には慣れていませんでした。
「月給? そんな怪しいことで、最後に給金をもらえなんだら、どないするねん」
と、月給制を良しとしない芸人も多かったようですが、生活の安定には勝てず、最後には所属芸人の全てが月給制に納まったと言います。
この経営方針で大正11年前後から上方演芸界は吉本一色になりました・・・
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