「花伝書」は、申楽の奥義である「花」の伝承を目的としています。
(第七 別紙口伝 p82より引用) 花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。
「花」とは、観る者に心からの感動を与える元であり、その主たる要素が、おもしろさでありめずらしさということのようです。(ここでの「めずらしさ」とは奇を衒ったものとは全く別物であることはいうまでもありません)
この「花」の本質的に意味するものはもっともっと深遠なもののようなのですが、それに至る道程は王道です。
(第三 問答条々 p54より引用) この物数を究むる心、即ち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。花は心、種はわざなるべし。(この芸の種類を学び究める心がけが、花を咲かせる種である。それゆえに、花を知ろうと思うならば、まず種を知らねばならぬ。さて、「花」は心の工夫の問題、その花を咲かせるもとの種は、芸の実力というわけである。)
「花」のもとは「種」、「種」は、年来の稽古の積み上げによる芸そのものです。真面目にこつこつと稽古に精進した者すべてが「花」を悟り達人の域に達するものではないのでしょうが、基本の無い者が「花」を悟ることは有り得ないのです。
なぜなら、「花伝書」には、
(第三 問答条々 p53より引用) ただわづらはしくは心得まじきなり。まづ、七歳よりこのかた、年来の稽古の条々、ものまねの品々を、よくよく心中にあてて、分ちおぼえて、能をつくし、工夫を究めて後、この花の失せぬところをば知るべし。
とあるからです。
すなわち、花に至る道を煩わしいと思ってはならない、志したころからの地道な稽古を重ね、その中で次第に分かってくるものだと教えています。
この「花」に至る口伝は、秘伝であると同時に血縁には縛られない道の厳しさも語られています。
(第七 別紙口伝 p97より引用) この別紙の口伝・当芸において、家の大事、一代一人の相伝なり。たとへ一子たりといふとも、不器量の者には伝ふべからず。「家家にあらず、続くをもて家とす。人人にあらず、知るをもて人とす。」といへり。これ万徳了達の妙花をきはむるところなるべし。
たとえ、一人っ子であっても才能の無い者には伝えてはならぬ、継ぐ資格のあるものに「これを秘し伝ふ」のです。