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初心 in 花伝書

2005-11-23 14:33:27 | 本と雑誌

 「初心忘するべからず」という詞は世阿弥が編んだ「花伝書(風姿花伝)」が出典とされています。

 ことわざ辞典によると、
 「何事も、それを始めようとした時の謙虚さや真剣さを忘れてはならない、ということ。初心=ならいはじめたときの素朴な気持ち、の意。」
とかと解説されていて、「初心にかえれ」「初めて事に当たる新鮮な感動を忘れるな」といったコンテクストで登場します。

 が、「花伝書」における「初心」とはちょっとニュアンスが異なるようです。

 「花伝書」では、まず、「二十四五歳のころ」を「初心」といっています。いわゆる物事のやりはじめを意味しているのではありません。

(第一 年来稽古条々 p19より引用) このころ、一期の芸能のさだまる初めなり

(第一 年来稽古条々 p21より引用) 初心と申すは、このころのことなり。・・・わが位のほどほどよくよく心得ぬれば、そのほどの花は一期に失せず。位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するなり。よくよく心得べし。 (初心と言うのはこの時期のことだ。・・・自分の芸の実力の程度を十分に承知していれば、その実力の程度の花は一生涯無くならない。自己の実力以上に上手とうぬぼれると、元来持っていた実力から生まれる花も無くなってしまう。この点にくれぐれも注意するがよい。)

とあるように、「事に慣れ,上達し始め,何か自信が出てきたときの自己満足や慢心を戒める」という意味のようです。

 世阿弥は、上手になりはじめた頃が最も危険な時期だと見ているのです。
 若盛りの一時的なよさが珍重されて、まわりから誉めそやされるままに「時分の花」を「真実の花」と見誤ること、その結果、折角、咲き誇りかけた花を枯らせてしまうことを戒めています。この時期にこそ慢心せず稽古に一層精進することにより、「誠の花」を咲かせる道に至ると説いています。
 これが、花伝書にいう「初心忘るべからず」という心です。

 あと、花伝書には、もう一箇所、ストレートに「初心忘るべからず」と記しているところがあります。

(第七 別紙口伝 p90より引用) しかれば、芸能の位上れば、過ぎし風体をしすてしすて忘るること、ひたすら、花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折る枝の花のごとし。種あらば、年々時々のころに、などか逢はざらん。ただかへすがへす、初心を忘るべからず。 (そうしてみると、芸能のくらいが上ると、過去の風体をすっかりやり捨てて忘れてしまうのは、ただもう花の種を失うことだ。その時々に咲いている花だけで、種が無いということになると、手折った花の枝のようなものだ。種があれば、年々またその時節にはかならず咲きあおう。そこでくれぐれも初心を忘れてはならぬ。)

 ここでは、「初心」のころの慢心の戒めではなく、年季を積んでの役者に対して、「年々去来の花を忘れてはならぬ」と教えています。これはまた、ひとかどのレベルに達した人に対する「慢心の戒め」です。

 観阿弥(世阿弥の父)のような達人は、初心の時からこのかたの芸能の様々を花の種として身に残しておいて、それを必要に応じて取り出して演ずることができたと言います。

コメント (2)
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