故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

梅雨空に傘を片手に散歩道

2012年06月12日 17時50分13秒 | 幕末史

今朝の4時半は曇っていて今にも雨が降りそうな感じだった。しかし、いつもの様に起きて身支度をして5時に傘を持って家を出た。北へ北へと歩き丸亀城の搦め手橋に着いたら、雨がポロポロ降ってきた。いつもならここで1周して帰るのだが、ここでUターンして帰った。

帰って、いつもより念入りに新聞を読み、朝食を食べ 何時ものように朝ドラ「梅ちゃん先生」見た。その後の午前中はアルバイトに。その頃になると本格的な雨になっていた。梅雨に入ったんだから仕方ないよ、って。早明浦ダムも貯水率が下がっているから降らないとね。

で、今日は何の日かと言うと

慶応3年(1867)の今日、坂本龍馬が長崎から兵庫へ向かう藩船夕顔丸の中で朝廷中心の政治の8か条(船中八策)を記した。

上洛中の洋上で後藤象二郎に口頭で示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ成文化したというのが定説である。

と言うことで今日はこの辺で、じゃ~またネ


讃岐地方も梅雨入りだ

2012年06月08日 17時49分43秒 | 日記

今日は傘を持って、いつもの様に5時から歩きに出た。曇っていて帰るまでに降らないか心配しながら歩いた。しかし、常の行いが良いのか帰宅寸前まで曇り空、約300m位ポロポロ降り出した。何とか傘も差さずに帰れた。

朝食後はいつもの様に朝ドラを見て、今日は図書館へ何冊かの本に目を通し、目的の「讃岐人物風景〈9〉を郷土資料より出してもらった。しかし、貸出はできないとの事。仕方なくコピーをして昼近くになったので帰宅。昼のニュースでは梅雨入り宣言したと。平年より・昨年よりも遅い梅雨入りだとか。午後は来客あり。楽しい時間を・・・。

 

今日は何の日って、幕末史とは関係ないけど

大鳴門橋開通の日だ。

昭和60年(1985)の今日、鳴門海峡を跨いで鳴門と淡路島を繋ぐ大鳴門橋が開通した。

その3年後には瀬戸大橋の開通。

と言うことで今日はこの辺で、じゃ~またネ


第二次長州征伐の開始

2012年06月07日 17時16分24秒 | 幕末史

今日も昨日と同じように暑い一日となった。

いつものように、朝の5時に歩きを始め6時40分の帰宅。

朝食後はいつの間にか朝ドラを見るようになった。「梅ちゃん先生」である。

10時前には宮脇書店へ幕末歴史ものを眺め、立ち読みだ。早々に帰宅し、今日は元職場の先輩とランチの約束があり2人で昼食、100円のコーヒーを入れて980円だった。

午後は昼寝をはさみドライブと畑仕事を、草はどんどんのびてくる。最近は毎日草抜きをしているようだ。

 

今日は何の日『第二次長州征伐の開始』

第二次長州征伐は1866年(慶応2年)に幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の4方から攻めたため、長州側では四境戦争と呼ばれる。幕府軍は各地で敗れ、将軍徳川家茂の死を名目として兵を引くこととなった。この戦いで幕府は力のなさを国内外に示すこととなった。

1865年(慶応元年)、高杉晋作らが馬関で挙兵してクーデターを起し、倒幕派政権を成立させた。高杉らは民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約を通じて新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行い連合軍に立ち向かっていった。この時の幕府の敗戦が徳川幕府滅亡をほぼ決定した。

 

てな事で、今日はこの辺で じゃ~またネ


高杉晋作が奇兵隊の結成

2012年06月06日 18時25分45秒 | 幕末史

昨日は、肌寒い位の1日だったが、今日は一変して暑い1日となった。朝の歩きでも帰るころには汗が流れてタオルで拭きながら帰宅。

午後から当てもなく車でドライブを、観音寺市に入り車を止めたとたん、じっとこっちを見ている人がいる。どこかで見たことのある男だ。「やっぱりそうか、久しぶりやのう」高校時代の同級生だ。10何年ぶりかの再会だった。友の時間があればもっと話が出来たのだが用事があるとの事。連絡先を確認して別れた。

しかし、彼も年をとったものだ。頭が真っ白であったので直ぐには分らなかった。偶然であるが旧友との再会、今後の連絡の確認が出来たのは嬉しいことだった。

 

で、今日は何の日って事で、奇兵隊の結成された日だ。文久3年(1863)の今日、高杉晋作が奇兵隊を結成した。藩の正規軍に対し、少ない兵隊を以て敵の虚をつき、神出鬼没して敵をなやまし、常に奇道を以て勝を制するをたてまえに奇兵隊と名前がつけられた。高杉晋作の発案により結成された部隊である。もはや平和な世の中に慣れてしまった武士では力にならない。身分に関係なく広く隊士を集めた。これは吉田松陰の「草莽崛起」の思想を取り入れたと思われる。

奇兵隊は、はじめ廻船問屋の白石正一郎の宅を使用したが、人数が増えるにつれて阿弥陀寺に、更に極楽寺へと本拠地が移った。

結成されてわずか3か月後、奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負い、高杉は総督を解任された。その後の、第一次長州征伐では奇兵隊も軍事力として戦った。

再び第二次長州征伐(四境戦争)が行われた、この時も奇兵隊は他の諸隊と共に戦い活躍するのである。

そして、明治維新以降、鎮台の設立に伴って奇兵隊は解散された。

では、今日はこの辺で じゃ~またネ


池田屋騒動・・・・

2012年06月05日 15時00分50秒 | 幕末史

 今日は朝から曇り空、朝5時から歩きに、今日は何処を歩こうかなと。朝早く歩いていると新発見が時々ある。車ではすぐ通りすぎてしまう所でも気が付くし、小さい看板でも立ち止まって読むことができる。最後に丸亀城を1周、ポロポロ雨が降っていたが、傘もいらない程度の雨だ。

 帰宅後に朝食だが、これが困った問題に。運動不足に歩き始めたが、朝ご飯が美味しく、ついついお代わりをしてしまい沢山食べるようになった。明日からは少しづつ減らしていこうと思っている。

で、今日は何の日か。今日は池田屋騒動があった日である。元治元年6月5日に、京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新選組が襲撃した事件である。

新選組が古高俊太郎の存在を突き止め、武器や長州藩との書簡等が発見した。土方歳三の拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものである。

新選組は長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止めた。

 池田屋で尊攘派志士を発見した近藤らは数名で突入した。20数名の尊王攘夷派志士に対し近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で踏み込んだ、残りは屋外を固めた。新選組側は最初は不利な展開だったが、土方隊の到着により有利に傾いた。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。その後会津・桑名藩の応援が到着した。土方は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。

また、長州の桂小五郎は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れた。と伝わっているが、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している。 ん~どうなんだろう??

  てな事で今日はこの辺で じゃ~またネ