黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

桐生閑心院新田へ御目見え桐生謀反を調べ新田書状の事・その2(大事の時節到来)

2024-09-03 20:07:37 | 桐生老談記の世界

今朝、ひめちゃんは久しぶりに、諏訪神社西の沼を横目に、山上城の西側を歩いてきました。

沼には、大きなアオサギが悠然といました

ひめちゃんとおかあさんの視線に気づいたのか、弾丸のように飛び立ち、近くの大木(もしかしたら桑の大木)のてっぺんへ

山上城堀切の方に行こうとしましたけど、伸びきった草に阻まれて、断念

西側のたんぼ道を歩いて、山上城には寄らずに帰りました

 

5年前(2019年)の今頃の、ひめちゃんと獅子丸の朝散歩です

お昼には、時折お芋ご飯が出ました。

ご飯を炊くときにサツマイモ一緒に入れて炊いた、ほんのり甘いご飯です。

みんな大好きでした

 

七海ママと小次郎パパも、元気にお散歩しています

パパは、ママがいくつになってもラブラブでした

 

 

 

 

桐生閑心院新田へ御目見え桐生謀反を調べ新田書状の事・その2(大事の時節到来)

 

翌年元亀三年十月三日、紀伊守が取り成しを以て、此の僧新田殿へ御目見仕り、時に新田殿仰せられけるは、此度び桐生殿を亡ぼし本望に候らわば、菩提寺に取り立て遣わさるべき由、御約束ありて期待年月を送り給う。

頃は天正元年(癸酉みずのととり、1573)三月上旬に、岩間、野口方より紀伊守へ書状を送り、其の文言兼ねて大事の時節到来、とても大谷勘ヶ由、谷右京は連判を致し宛て、風間将監、荒巻式部、須藤帯刀、佐下橋治郎此の四人は連判は仕らず候えども、兼ねてから書面にて申しかわし候上は子細これなく、薗田、岩下、須永、森下などは譜代の家なれば、去る天文十三年春、細川滅亡の時に、津布子常陸之介が讒言に依って、夫より半地になされこれに依って右家に恨み多し。

 



あらすじです。

翌年の元亀三年(1572)十月三日に、藤生紀伊守のとりなしで、この関心院の僧は新田殿(由良成繁)にお目見えしました。
このときに成繁は、桐生殿を亡ぼしたならば、関心院を菩提寺に取り立てることを約束しました。

それから半年後の天正元年(1573)三月上旬に、内通役の岩間・野口から、藤生紀伊守に書状が届きました。


「大事の時節到来が到来しました。大谷勘ヶ由(かげゆ)、谷右京は連判状にサインし、風間将監、荒巻式部、須藤帯刀、佐下橋(さげはし)治郎の4人は連判状にさいんはしていませんけど、かねてから書面で内通の約束がしてありますので大丈夫です。薗田、岩下、須永、森下は桐生家譜代の家ですけど、さる天文十三年(1544)に細川内膳を亡ぼしたときに、津布子常陸之介の讒言によってその時から領地を半分にされて、とても恨んでます。

 

 


関心院の僧は名前がでてきませんね。
どうしてでしょう
まあ、とにかく桐生氏滅亡後、桐生で由良氏の菩提寺になったのは鳳仙寺(ほうせんじ)です


鳳仙寺には、由良成繁の墓があります。





元亀3年(1572)10月3日に、関心院の僧は将来由良氏の菩提寺になるうれしい約束をもらいます。

半年後の天正元年(1573)に、いよいよ大事の時節到来と連絡がはいり、桐生家家臣で由良に味方する人々の情報がもたらされます。

天文十三年(1544)に細川内膳を亡ぼしたときに、津布子常陸之介の讒言により領地を半分にされて恨み持っている桐生家譜代の人の名もあります。


『桐生老談記』では、細川内膳(ほそかわないぜん)の話はまだ出ていません。

もう少し後に出てきます
時代的には30年も前の話なのですけど

 

 

初稿  2019.08.07  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.09.03

 

(つづく)

 

追伸   どこにも注釈書もなく解説書もない『桐生老談記』です。

     2019年の3月から2020年の5月にかけて、少しずつ素人なりになんとか読み切ったのです

     しばらくの間、『桐生老談記』続きます

     懐かしい黒柴家族の写真と共に、よろしくお付き合いくださいませ

 

 

 

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