ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
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山田ときさんを偲ぶー2 「辞令をもらって」

2016-03-19 07:46:25 | Weblog

          辞令をもらって

 昭和11年3月31日、これが私の出発の日だった。

 指定された場所にかけつけた私に、この郡担当の視学から渡されたものは、

「山形県公立小学校訓導ニ任ズ・本科正教員勤務・十四級俸給与」

「山形県村山郡長瀞尋常小学校訓導ニ補ス」

の2枚の辞令だった。

 そのころは、高等女学校をよい成績で卒業した人でさえ、ようやくのことで、銀行などの事務員にはいり、十円ぐらいの月給だった。そのとき、師範出は、初任給男43円、女40円だったので、教員志望者の数は大したものだった。この教員にするため、5年間の学校生活をつづけさせてくれた親たちの苦労はどんなものであったろう。卒業させた今のよろこびはどんなであろう。私はこの親たちの気持ちを考え、少しでも便利なところで、いくらかでもよけいに親孝行をしたいと願いながら、自分の名前の呼ばれるのを待っていたのだった。

 けれど、「長瀞」と読みあげられても、はじめて教師としていくその村が、どこにあるのかさえ、わからなかった。

 7,8人のなかまに辞令が渡されると、私たちは、視学の前に整列させられた。一場の訓示をいただくのだ。

「最初の出発が大事である。決して一年ぐらいで、便利なところに転任したいなどという欲を出さないで、じっくりと腰をすえて、その村の教育に精進してほしい。一年ぐらいでは、全体にほんとうの教育などできない。それから特に注意しなくてはならないことは、男女関係だが、聖職にあるものの夢にもそんな問題をおこすことのないように、その点だけはくれぐれも……」というのであった。そのあとの方のは、私たちには、何回目かの訓辞であった。師範の恩師たちから、舎監から、卒業式場で校長から、県の学務課から、また卒業生一同教育会館に呼ばれて視学からもというように、私たちの頭にはその文句が暗記されるほどしみこんでいた。それほど、わが国では、男女の交際は罪悪視されていたし、教育者は一種特別な人間にされていたのである。

 武田先生(高等女学校時代の恩師)は「私の教え子です。よろしくたのみます」と、かわって挨拶をしてくださった。宿を心配していただき、始業式の前日までにくることにして、職員室を辞した。

「北村山郡では、またすぐ荷造りをしなくてはならないから」と、寄宿舎から持ち帰った荷物をそのままにして、待っている父母のもとへ、やく40キロを汽車に乗った。汽車の窓から遠のいていくあの村に、「どんな子らが待っていてくれるのだろう」とふりかえりながら……。

  『路ひとすじ』〈出発・その道けわしく  1 はじめて一年――たんぽぽの子らと〉の部分より