ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

田宮輝夫さんの文章

2011-12-15 15:41:30 | Weblog
 3回にわって掲載した田宮さんの文章について、読んでくれた榎本さんから次のような感想がよせられました。
 誤記の指摘もあったので、そのまま載せさせていただくことにしました。

 あらためて読みました。読み応えのある文章ですね。私も昔読んだんですが、このように読み直してみると、忘れていることが甦ってきます。やはり、このように載せて、多くの人に読んでもらう必要がありますね。
 スキャナでなく、また書き写していると言うことにも、敬意を表します。
 
 いくつか、間違いに気がついたので、お伝えしておきます。
 前書きの所、6行目 「かれていた」⇒「書かれた」 一の9行目「綴方のこと」⇒「綴方の仕事」 「にほんのほころ」⇒「日本のほこり」ではないか。
 以上です。ありがとうございました。


 榎本さんからのメールのあとで、書棚から『現代つづりかたの伝統と創造』をだして、田宮輝夫さんが引用した「まえがき」の部分をよんでみました。すると田宮さんが引用した後の文章を読んで、以前に読んだ時とはとはちがった、おどろきを感じました。

 つぎに、この本を、わたくしは「たたかい」のありかたをもとめて書く。そして、この「たたかい」というのは、真実な医学者や医療技術者たちが、人間・子どもの体内をおかす細菌や悪性細胞・物質・悪薬などと「たたかう」というのに類似した「たたかい」のことである。発達していく子ども・青年たちの身体と精神の内部に、環境・資本のがわから、自然発生的に、政策・行政のがわから、意図的に、あるいは潜入し、あるいは浸透させられていく複雑な毒素、これとたたかいながら、かれらの発達可能性を、本然のまま、うつくしく、さわやかに開花させてやるというたたかい=奮闘のことである。それを「つづりかた」のしごとをとおして一歩一歩すすめていく。

 こう書かれています。
「まえがき」の冒頭では、「ここで『現代』というのは、1959年の『児童の権利宣言』から20年たった1979年、そのとき国連が決定した『国際児童年』のとし以降のことである。また、わたくしたちの日本作文の会がつくられ、そのあと戦後生活綴方運動が27年もの歴史をへたあとのことをさす。」とも書かれています。

1979年「以降」というと今も、その範囲に入ると考えられます。 何か、今の時代を、予言して書かれているような気がしてくるのです。重なる部分を感じます。
 この本も、改めてよまねばという気持ちになってくるのです。

日本作文の会と国分一太郎さん-3

2011-12-12 11:21:20 | Weblog
 日本作文の会と国分一太郎さん―③


              田宮 輝夫(追悼特集 国分一太郎・その人と業績『作文と教育』1985年5月号より)

60年代になって、生活綴方を全体の教育、国語科のなかにきちんと位置づけようとしたとき、また、その後も、国分さんはしきりと、「さびしがることはない」ということをいわれつづけてこられました。ようやく日本の民間教育諸団体のなかで、国語科教育の目標や全体構造についての考えかたがかたまったなかでのことでした。
 日本語による言語活動のもつ意味、とりわけ綴りかたのしごとでは、子ども自身の表現意欲、書く題材、テーマをもとに自己のものとなった日本語をつかって、子どもの内部からわきおこってくるものを表現創造させるしごとです。この表現創造活動をさせることによって、自然や社会、人間や文化についての認識を正しく、たしかなものにしていきながら、子どもたちが自己の感情や意思をいっそうゆたかなものにしていくからです。子どもたちが、事物のすがたうごき、自己の心とむすびつけながらことばをえらぶことによって、日本語のよき使い手になっていくものです。ここに日本語による表現創造活動の意味深さがあります。この、日本語による表現創造活動が、子どもたちの発達、人格の形成にはたす大きな意味をもっと意識的に、自覚的にもたなければだめだ、というのが、国分さんの、「さびしがることはない」ということばになっていったものです。
 この、日本語による表現創造活動の大きな意味を考えると、戦後、何度か改訂された学習指導要領について、そのつど、きびしい批判の目をむけてこられたのも、この仕事のもつ大きな意味を、実用主義・形式主義・技術主義的な、国語科教育におしとどめてきたものへのするどい指摘でした。文部省とその周辺の人びとが、国語科教育の本質をあいまいにしてきたのに対し、戦後、いちはやく日本の国語科教育の全体像をあきらかにし、日本語そのものを日本の子どものものにしていくための言語の教育と、よみかた、つづりかたを中心とする言語活動の教育を、おおきな二本立てのものにしていくという、日本の国語科教育の創造と充実のための全体構造をゆるぎないものにしたことも、わたくしたちは国分さんのおしごとからまなびとらなければならないと思っています。生活つづり方研究の指導者であったと同時に、戦後の日本における自主的、民主的な国語科教育創造のためにもすぐれた指導者でもありました。日本語の国語科教育全体の研究と実践に及ぼした国分さんのかずかずの業績については、ここでいちいちとりあげることはできませんが、戦後の日本の国語科教育のありかたを考えるとき、国分さんのおしごとを抜きにしては語れないというだけにとどめておきます。

   二

 残された時間で、国分さんの人がらについていくつかもうしあげておきます。
 さきほども、ご自分の意見を頭から決しておしつけることはしなかったといいましたが、それは、日本の父母や教師たちを信じきっていたからだといえるでしょう。日教組の全国教研集会などでも、国語教育のありかたや、つづり方の指導について、国分さんたちとかなりへだたった意見がでても、それをきちんとうけとめ、まとめの発言のときもそういう意見を全体討論のなかで正しく位置づけて発言されることがたびたびでした。そのあと、宿舎に帰って、そのはなしになると、ここは日本作文の会の研究会でもないし、民間教育の競い合う場ではないからといってわらっておられました。そのかわり、大衆的研究集会のなかへ、サークルのセクトをもちこむような発言を耳にすると、たいへんきびしい指摘をなさることが何回かありました。
 それぞれの地域で研究、実践しているひとりひとりの動向をたいへんこまかくつかんでおられ、どこそこのだれは、こういうよい研究をしているとか、新しいくふうをともなった実践があったりすると、それを機関誌に反映させ、全体のものにしていくようにしなければだめだというように、いつも、日本作文の会の充実と発展という立場からわたくしたちを導いてくださいました。
戦前のことをふりかえっておられたのでしょうか。日本作文の会の組織と財政問題などについても、いつも心をくだいておりました。何も財政的な基盤のない日本作文の会にとっては、機関誌『作文と教育』や、会刊行物の売れゆきがいつも気になっておりました。戦後三十余年のあいだ、日本作文の会の名による教師むけ、子どもむけの単行本をたいへんな数を出してきました。日本の他の民間教育研究団体のなかで、その団体名を編者や著者にしている単行本を日本作文の会ほど多く出しているところはありません。会の研究成果を世に問うていこうということといっしょに、みんなの力でひとつのしごとをつみあげていこうという作風が日本作文の会につくられていったからです。その作風をつくってきたのも、国分さんをはじめとする人びとの長いあいだのむすびつきによるものです。人と人とのむすびつきをいつも、本当に大切にしてこられました。人びととの連帯ということを身をもって実践されてきた国分さんでした。
 だれそれに心配ごとがあったり、悩みごとがあったりすると、そのことをいつも気にかけていて声をかけてくれました。人の心の痛みが本当にわかる人でした。どれほど多くの人びとが、国分さんのそういう人間的なやさしさになぐさめられ、はげまされたか知れません。多くの人びとが国分さんのお世話によってご自分の著書をもつようになった事実を何べんもきいております。みんなでいっしょになってしごとをしようという一方で、みんなでひとりの人間をもりたてていこうという、文字どおり、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」という生き方をつらぬかれた国分さんから、わたしたちは語りつくせぬ多くのことを学ばせていただきました。
 どうか安らかにおねむりください。国分一太郎さん。

日本作文の会と国分一太郎さん-2

2011-12-11 09:19:21 | Weblog
  日本作文の会と国分一太郎さんー②
      田宮輝夫(追悼特集 国分一太郎・その人と業績・『作文と教育1985年5月号より』)



 その後60年代になり、教育の現代化・科学科化がさけばれ、生活綴方的教育方法ということばが多くの誤解を生み、生活綴方に対する批判が民間教育団体のうちからでてくるようになります。「生活綴方的教育方法」と、「生活綴方のしごと」という用語が混同して使われるようになったとき、この問題に明解な整理をこころみたのも、ひとりひとりの子どもの人間的成長をなによりも大切にしてきたあかしでありました。全体としてのしごとのしぶりと考えかた、部分としてのしごとの考えかたの両面をいつも結合しながら教育というしごとを見つめてきた国分さんの思いが一貫してつらぬかれてきた証拠です。
 思いや姿勢だけではだめだ。実際にどういうしごとをつみかさねっていくことで、ひとりひとりの子どもが一人前の人間になるかを具体的にあきらかにしなければだめだ、というのが国分さんの口ぐせでした。戦後、民主主義教育として芽をふきだしてきたものが、教育の反動化ということばによって象徴される動きのなかで、つぎつぎとその芽をむしりとられていくのをみた国分さんは、綴方のしごとのしぶりとその内容をいっそうこまかくみつめなおそうとしていきます。文部省がつぎつぎとうちだしてくる、一見、新しいよそおいをこらしてはいるものの、生活に根ざした表現を軽視したり、敵視するなかで、生活綴方のしごとの意味がいっそう重みをましてくることになります。こういうなかで、生活の事実に根ざした表現が、子どもが人間的発達をしていくうえでどういう意味をもつかが、いっそうきめこまかくあきらかにされていく必要に迫られてきます。
 しかし、特定のすぐれた教師の力量によるのではなく、日本のすべての教師たちが、日本のすべての子どもたちの人間的発達を保障していくためのしごととしての生活綴方の仕事の内容と、その手順、しごとのしぶりをいっそうきめこまかく明らかにしていくことが、日本の子どもと教育に責任を負いきることなのだと、しきりに強調するようになっていきます。この、国分さんの思いは、『新しい綴方教室』からまっすぐみちびきだされたものです。この根底には、国分さんのことばをかりれば、つぎのような確信がみなぎってのことです。

「1929年のはるか昔から追求されてきたその遺産をうけつぎながらも、独自の目標と、現代にふさわしい方法の新しい創造をめざしてすすんでいく。他の教科や教科外活動の指導の内容がわるいから、それを生活綴方の教育で、うめあわせていくような時代では、いまはない。わたくしたちは、各教科や教科外の指導をも、りっぱなものにしていく努力をしながら、つづりかたの指導を独自の意義をもつものとして探求していく。
 また、いまは『生活綴方の考え・精神』をもって、『教育全円の改革をめざす』というような運動の時代では、けっしてない。教育全体の人間的科学的ありかたを追求しつつ、それによりそう生活つづりかたのありかたを、こまかく、ていねいにさがしもとめていく。真に日本人民の側にたつ教育運動家と、実践者、研究家たちの力量は、すでにそこまでたかまってきているのである。」『現代のつづりかたの伝統と創造』まえがき)

 国分さんが、時の権力者たちへのはげしいいかりをもやしつづけてこられたのは、民族のあとつぎとしての日本の子どもたちへの未来にかけるのぞみと、それをはげましつづけている日本の教師たちへの深い信頼と期待があったからでしょう。その信頼と期待が、国分さんのおしごとをいっそうちみつなものにしていくことになります。
 60年代以降、日本作文の会は『生活綴方の本質』をはじめ『生活綴方教育=正しい作文指導における“指導段階の定式”』、『作文教育の日々の授業』など、戦後生活綴方指導の具体的なすがたをあきらかにしてきました。また、その基本的な考えかたとして、『70年代と生活綴方』『生活綴方で子どもをとらえるとはどういうことか』、『80年代をむかえ、なにをどうかかせるか』、『今日のこども・青年の特徴をあきらかにし、人間的発達にとって生活綴方の教育にはどういう意味があるのか、その指導とはなにか』など、日本作文の会常任委員会の名でつぎつぎとつづりかたの研究と実践の方向見解を公表してきました。
 これらの見解を公表するまでには、常任委員会は何度もくりかえし討論をかさねてきました。そのときには、常任委員会内部ではげしい議論をたたかわせ、気まずい思いをあとに残すようなこともありました。これらの討議の過程でも、国分さんははじめからご自分の考えをおしつけようとは決してしませんでした。みんなの言い分をじっくりときいておられてとりいれるべき見解は進んでとりいれながら、わたしたちに不十分があればそれを指摘しながら共同討議に加わってきました。そして、いつも、わたくしたち常任委員の理論的支えでありました。前後生活綴方運動のなかで生み出されてきた理論的整理、実践的方向をみちびいてこられたのも国分さんの指導があってのことでした。わたくしたちの指導者である、国分一太郎さんを失ったいま、戦後三十余年のあとをなぞらえながら、これからの生活綴方、日本作文の会の発展と充実ということを思うとき、身のひきしまる思いがいたします。

 60年代になって、生活綴方を全体の教育、国語科のなかにきちんと位置づけようとしたとき、また、その後も、国分さんはしきりと、「さびしがることはない」ということをいわれつづけてこられました。(つづく)


 参考『新しい綴方教室』(国分一太郎著 新評論)…「日本の古本屋」で検索して購入するとよい。  
   『現代つづりかたの伝統と創造』(国分一太郎著 百合出版) まだ手に入る。百合出版へ、綴方理論研究会へ


日本作文の会と国分一太郎さん―1

2011-12-09 06:34:40 | Weblog
 「入門期の作文指導」についてまとめていたとき、『作文と教育』の「作文の時間」に連載していたことを思いだしました。1985年4月から、1,2年生を担当して書いたものでした。5月号をよもうとして、ページを開いていくと、そこに、なんと、「国分一太郎・その人の業績」という追悼特集がくまれていました。
 前にも、読んだはずだったのですが、なつかしさもこみあげて、よみはじめてしまいました。こんなことではいつまでたっても、「入門期の作文指導」については、まとめられないかも知れませんが。
 そこに、まずかれていたのは、今は故人となってしまいましたが、日本作文の会常任委員長の田宮輝夫さんが、1985年3月29日、東京信濃町の「千日谷会堂」で、「国分一太郎さんを偲ぶ集い」であいさつされたものでした。

追悼特集
「国分一太郎・その人と業績」(『作文と教育』1985年5月号)より

    日本作文の会と国分一太郎さん
                        田宮 輝夫
  一
 
 日本作文の会を代表して、「日本作文の会と国分一太郎さんの業績」について報告します。しかし、時間の制約もありますので、戦後における生活綴方運動のなかで国分さんがなされたお仕事のすべてにわたって語ることは到底できません。いくつかの点に限定して報告することにいたします。
 1950年、「日本綴方の会」が結成され、翌51年、「日本作文の会」と名称を改めてからことしで35年めになります。戦後、生活綴り方運動の発展にとって、『山びこ学校』『山芋』とともに、国分さんの『新しい綴方教室』が、多くの日本の教師たちをはげまし、導いてくれたかについては、いまさらくどくどのべる必要はありません。「綴方、このよきもの」ということばとともに、多くの人びとの魂をとらえたものでした。それは、この本のあとがきで国分さんがなぜ「作文教室」といわずに「綴方教室」といったかについて、こうのべています。

 「“綴方”にこめられてきた、教師や子どもたちの知性と,情熱が、“綴方”を、日本のほころと考えていてくれた世間のひとびとの気持ちが、こういわせずにはおかないのである。この本には、教師や両親のだれもが、手をつけられる最低のしごとのしかた、指導のしかただけが、おもにかかれている。最高の理想はかかれていない。これをのりこえるしごとは、綴方の復興と前進をこころざす、日本のわかいひとたち、創意性にとんだひとたち、年おいても、教育的愛情と誠実さを失わないひとたちが、かならずなしとげてくれるものと期待するからである。
 またこの本には綴方のことをかたりながら、その底に、われわれ民族のあとつぎになるひとたちへの教育のありかたについても、なにかとかきいれたつもりである。そこまでよんでくださるひとびとが多ければ、まことにありがたいことだとおもう。」

 この国分さんのことばにこめられている、若い教師たちへの熱い期待と、民族のあとつぎとしての、日本の子どもと、その教育のありかたについての思いは、30余年たった今日まで、すこしも変わることがなかったといってもよいでしょう。
「綴方、このよきもの」のなかで、なぜ綴方を大切にするかについて、つぎのようにのべています。
「(1)生きた生活からはなれがたいものだということ。
 (2)生きた子どもの精神の成長をじかにつかみとれるものだということ。
 (3)子どものコトバの中から、いちばんリアルで、独創的な物の考え方をよみとれるものであること。
 (4)わたくしたちが、綴方の内容と表現にあらわれた生きた事実から、何を指導しなければならないかを、教育のあらゆる面にわたって、暗示される性質のものだということ。
 (5)学校での勉強、あらゆる教科の勉強が、どれほど、かれらの血となり肉となっているかをくみとるのに便利なものだということ。
 (6)子どもは、人間は、社会的現実の中でどのように影響され、どのように成長し、またどのようにねじまげられているものなのかを、すばやくつかみとれるものだということ。」

 50年代における民主的、良心的な若い教師たちは、この国分さんのこのことばにはげまされながら、日本の子どもの人間的発達のための意義深いしごとに精魂をかたむけてきたのであります。ひとりひとりの子どもを一人前の人間にしていくためのしごとのしぶりのしかた、ものごとの考えかたを学びとりながら同時に、日本の教育全体をどういう方向にむかわせることが大切なのかを探求してきたものでした。綴方がもつ教育的な意味の大きさを説けば説くほど、同時に「綴方独善主義はやめよう」ともいわれてきました。「綴方だけにたよらないこと」のなかで、こうもいましめております。

「けれども、生活の見方・考え方を高め深め、人間の生活力や行動性をのばすものは、綴方だけではないことを、すべての人々は考えなければならない。いや、それこそは、全教育の任務であることを、特に綴方に熱意をもつ人々は考えなければならない。」

 ここには、国分さんが一番大切にしてきたものは、ひとりひとりの子どもを一人前の人間に育てるしごととして、綴方があるのだという、ごくあたりまえとも思えることをはっきりと示しているといえよう。(つづく)

『こぶしの花ー国分一太郎の世界』

2011-12-08 10:31:46 | Weblog

綴方理論研究会の案内が、榎本さんから送られてきていました。その案内の後には、第5回国分一太郎「教育」と「文学」研究・学習会のことが書かれていたので、ご紹介します。
 池袋の学習会に参加して、もっと、綴方・作文教育のことを学びたい人は、当日、井の頭線の新代田の改札口で12蒔50分に集合するか、会場である下記の乙部宅に℡をしてくれれば、ご案内をします。


       綴方理論研究会 12月例会のご案内

  日時 2011年12月11日〈日〉PM1時~

  場所 世田谷区代田6-19-2
     乙部武志邸 03-3468-0973

◆講義 乙部武志さん  とつおいつ44
◆提案 高橋朱美さん 1年生の作文指導

 第5回国分一太郎「教育」と「文学」研究・学習会が、11月19日〈土〉に豊島区立池袋小で行われた。午前中は「わたしと生活つづりかた」今井成司。午後は、「やはり気になる 今の『児童詩』」(久米武郎)と「国分一太郎・学芸大学特別講義」(田中定幸)敬称略の3人の方に、それぞれの生活綴方を語っていただいた。中身の濃い内容だった。参加者は、36人だった。山形から3名、福島1名と遠くからも見えた。昨年の倍の人数だったので、裾野は広がりつつある。この時期は、学校行事と重なり、行きたいが行けないという連絡も受けた。実施時期は、今後の課題にしたい。
なお、当日売れ残った本や資料は、榎本の所に持ってきた。参加できなかった会員の人などに、有効利用する予定。山形の村田民雄さんから、「こぶしの花」が30冊送られてきた(田中さんに20冊・榎本に10冊)。二千円で販売し、会の資金に入れたいので、購入者への働きかけよろしく。また、土田茂範著(海図のない航路)ー山形児童文化研究会の50年ーが、やはり村田さんから送られてきた。会員の人には、有効利用してほしいと連絡あり。大変重たいので、少しずつ持参予定。
今年も、師走になってしまった。いつもの所で、年忘れの会を企画予定。お時間が取れる方、ご参加を! 


 この文面にもあるように『こぶしの花ー国分一太郎の世界』限定本ですので、間もなく手に入らなくなると思います。国分一太郎の入門書としても最適です。購入をおすすめします。
 また、わたくしが報告した資料が10部ほどのこっているので、戦前の「生活綴方」の展開を学びたい方は、ご連絡下さい。
(田中定幸 ℡ 046-873-4339)
 教育の現場は、忙しいと言われていますが、「忙中閑あり」、理論研にもでかけてみませんか。
おたずねは、田中までどうぞ。

北に住むひとのこころ―⑤

2011-12-06 09:48:34 | Weblog

北に住むひとのこころ―(5)


         八

 
「蕎麦切」を「三段法」で、ていねいに読んでいくうちに、田中定幸をゆり動かしたのは、芦野又三、能子夫妻、そして、国分一太郎のこころであった。
 「おがくずがま」をつかうことができなくなった時、あるいはつかえなくなると知ったときから、夫妻で、国分一太郎に、もうしわけないという思いをもつ。今度、国分一太郎がきたときには、まっさきに、ふたりそろっておわびをしようと、何度もはなしあってきたにちがいない。二人そろってである。
 それは、国分一太郎が、店をつくりかえないことをほめ、「板そば」だけくわせること。座敷が改造されていないこと。そして、そばのなかみが、おじいさん以来の秘伝のままであることを、ほめただけではない。
妻能子さんが朝早く起きてする「おがくずがま」の仕事が、一番だという。又三さんが、守旧のこころを大事にしていけるのは、能子さんのおかげだと書く。守旧のこころは、家族みんなでささえているのだと田中定幸に読ませる。
だから、家族を代表して、ふたりそろっておわびをしよう、こう、ずっと思ってきたのである。
 国分一太郎がしばらくぶりにやってきて、「蕎月軒勘光道忍居士」と書いてある位牌に手を合わせていても、白居易の詩からとられたものだと又三さんは説明していても、そばからそれを見つめている能子さんも、「この詩の美しさとしずけさをおもいながら、哀悼の意を表した」国分一太郎とちがって、わびることばかりを考えていたにちがいない。
 いつ、その話を切り出すか、その機会をとらえて、いずまいをなおし、そばによりそって、こころをおちつかせてはなしはじめる。「先生に、おわびをしなければならないこと、あるのよっす」
 こうはなしても、こころをおちつかせることはできなかった。すまなくおもう気もちが、大きく夫妻のこころにのしかかっていたにちがいない。
 けれども、はっきりと国分一太郎に伝える。そこには、つよいこころがある、国分一太郎への感謝の気もちがある。
国分一太郎は、それをしっかりとうけとめて、こうまとめた。

 せっかく書いてくださったけれども、あれはつづけられなくなった。ちかごろオガ屑を買いいれることがむずかしくなり、そばをゆでる湯をわかすかまどに、それをもちいることができなくなった。わたくしたちも残念なんだけれども、どうしようもない。

 ここで、おわびのはなしが終わったわけではない。話はまだつづく。

「先生、どうか、ゆるしてけらっしゃい。そのかわり、プロパンガスの火のもやしかたに注意して、いままでと、けっして変わらない、そばのゆでかたをするつもりだからっす」

 ここを読んだとき、田中定幸は、涙がでてきた。田中定幸も「おふたりの純粋なきわまりのない心根に感動」したのだった。あやまるだけでなく、それをどうのりこえるか。
 「おがくずがま」が使えなくなったとわかったとき、あやまることだけを考えただけでなく、どうしたらけっして変わらないそばのゆでかたができるのか。又三さんの妻の能子さんも必死になって考えたにちがいない。三代目の光さんも交えて家族みんなで話し合ったりもしたにちがいない。
 守旧のこころは、ひとのこころをうけいれて、また、そのこころを、そのひとに、いや、まわりのひとににかえすものなのではないか。自然のこころをうけいれて、自然にかえすことなのかもしれない。

       九

 ふたりの心根に感動した国分一太郎、「いいえ、いいえ」というよりほかになかったと書き、さいごには、「帰途も、白居易のあの詩と、法号とを口につぶやかずにはいられなかった」と、書いておわらせている。
 しかし、純粋なふたりのこころをうけてとめていたのである。かえすものがあると、こころにきめていたのである。
「一九八0年」、『いなかのうまいもの』に「蕎麦切」として、「守旧のこころ」とあわせて書く。

 ここにも田中定幸は、国分一太郎の、こころを感じる。
 そして、国分一太郎が、なくなるまえの年に、この「あらきそば」へ、田中定幸ら綴方理論研究会のメーバーをつれてきたのは、超極太のはごたえのあるそばを食べさせるだけでなく、芦野又三夫妻と親しくつきあいをさせ、文からだけでなく、「もの」や「こと」、そして「ひと」から、北の地に住むひとのこころにふれさせようとしたのである。

 田中君、君は、わたしが書いたものをあつめる趣味があるようだが、写真に写っていたとかいないとか、そんなつまらないことにこだわるより、もっと、あなたがやることがあるのではないか。
 わたしがそうであったように、君が、子どもたちにおしえてきたという「生活綴方」は、子どもたちだけがやればいいというものではないんだよ。
 事実をもとにして考えるということ、ある時には「概念くだき」ということばをつかったりもしたが、「三段法」という作品の見方もおしえたが、ひとが生きるためには、事実からまなぶことと文化・科学・歴史からまなぶこと、もののとらえかたをまなぶこと、文字に「固着」して考えること、そして、正しい観念、ゆたかな人生観をつくりあげること。
 それらはどれも、子どもだけがしなければいけないことではないんだよ。子どもにおしえていることは、おとなもしなければいけないことなんだよ。
 おとなになって、それができなくなってしまうのは、子どものときから、ひと・もの・こと・しぜんのなかでゆっくりと、そして、ていねいにそれが育てられてこなかったからなのだよ、
君も、もうそのことには気づいているのだろう。それをもっと綴方理論研究会、国分一太郎「教育」と「文学」研究会のなかまと、さらにおなじこころをもつひとたちとともに、ひろげ、深め、理論化をしなくてはだめだろう。
 やさしさだけでなく、きびしさ、つよさもなくてはいきていけない。そうではないか、田中君。
 ボクも、「生活綴方」で学んだのだよ。その考え方、生き方を、ひとりのおとなとして実践してきたのだよ。

  北の津河山の地に住む国分一太郎は、田中定幸に、いつもこう語っている。

「国分一太郎生誕百年の集い」は、二0一一年、七月二三日、二四日に東根で開かれる。田中定幸は、集いのあとに、芦野又三・能子夫妻にあい行く。

(綴方理論研究会・国分一太郎「教育」と「文学」研究会 会員)


北に住むひとのこころ―④

2011-12-05 10:03:17 | Weblog
北に住むひとのこころ―(4)

      七


 「蕎麦切」の文章は、ある日、ある時の出来事をつづったものではない。田中定幸の近著『作文指導のコツ』〈全三巻〉の分類では「いつも型」にはいる。くりかえしあったこと・たび重なる経験を、国分一太郎が書いた文章にあたる。
 したがって書き出しは「奥羽線楯岡駅から西へ最上川をわたってすこし行く大久保の…」とはじまり、「そばきり」名人の芦野勘三郎じいさん、あとつぎの又三・能子夫妻と親しくしてもらっていること。また、そこへ足繁く通うきっかけについてもふれて、それをまとめて書いている。
 つぎの段落では、話を勘三郎じいさんにすすめている。勘三郎じいさんと、書き手国分一太郎との関係をあらわす象徴的なことばである「お前のあたま、カッパのようにまんなかだけはげたなあ」という会話を、くりかえし交わされたこととして書いている。あわせて、勘三郎じいさんにたいする思いを、しっかりと書いている。
 「ここに来て、…」というところで、話が、核心にふれていく。「私がまなぶのは、あとつぎの又三氏の守旧のこころである」と書いていく。ここから「日本経済新聞」に掲載したときには、題にしていることが分かる。テーマを示してもいる。「守旧のこころ」を国分一太郎がどんなことから感じたかを、書いている。
 つぎの段落は、「…よりいっそうほめる」をうけて、「それ以上に」とさらに強調して、そのよさをあげている。朝早く起きてつめなければならない「おがくずがま」のことをとりあげている。「おがくずがま」をつかうことこそ、守旧のこころであり、このかまでゆでた「そば」だからこそうまいのだとほめる。
最後の段落では、「つゆ」についてもふれている。「あらきそば」の「そばつゆ」が日本のどこの「そばつゆ」よりおとっているとはけっしておもえないと書いている。
 子どもたちと読むときには、段落ごとに番号をふっておいてやる。そして、今、読みすすめてきたように、ていねいに段落ごとに書かれている内容にふれながら読んでいく。
そして、国分一太郎のかいた「蕎麦切」は、日ごろから、親しくしてもらっている又三・能子夫妻が、守旧のこころを持ち続けていることのすばらしさを、ところどころに自分の体験をもりこんで書いたものであることをつかませる。だからこそ、おいしい「そば」ができるのだと、この作品のテーマをつかませる。「三段法」の作品読みの、①の部分が、これにあたる。
 つぎに、「表現の方法・技術」というところに目をむけていく。「目のつけどころ(1)」である。ここには〈○組みたてかた〉〈●こまかい書きつづりかた〉の二つの観点があった。
 〈○組みたてかた〉については、テーマをつかむための、読みが生きる。したがって、「書き出し」の部分では、「そばきり」の名人のいるそばやについて、2段落目では、名人、勘三郎じいさんのこと、三段落では、又三氏の守旧のこころ、四段落では「それ以上に」と、さらにこころをうたれること、を書いている。…というように、その段落の下に、要点をまとめていくようにする。
 もう一つの〈●こまかい書きつづりかた〉については、つぎのようなことに着目するように期待する。三段落であったら、
 ・「ここに来て、私がまなぶのは、‥‥である。」と、はっきり書いている。
 ・「又三氏はおごらない。」と、短く書いている。
 ・「ここのそばがどんな(・・・)に(・)有名になっても」の「使い方がよい。
 ・「このならわしをそのまま守っている」と書いて、守旧のことばをおぎなっている。
 ・守旧のこころであることがらを、短い文で、たたみかけるように書いている。…この段落で伝えたいことを、的確  にえらんでいる。
 ・「板そば」だけの「だけ」が生きている。…「板そば」が強調されるし、ほかのそばは扱ってないことがわかる。
 ・「なかみが、おじいさん以来の秘訣のままなのを私はよりいそうほめる」と、書いている。
 …の部分は、その理由である。よい、といってとりあげたときには、その理由をみんなに伝えてもらうようにしている。
 着目する点をあげればきりがないので、この段落の、上段にはどんなことを思いうかべて読んだかを書いてみる。
 *おそばやさんに来てもまなんでいるのですね。
 *「守旧のこころ」―だれも気づかないようなところに、いつも目をむけている。
 *「いつ行っても」とそのときだけでなく、ふだんから又三氏や店の様子をよくみている。
 *「外便所だけが…」と、変わったところも見ている。
 *「それといっしょに」と考えたのがおもしろい。
 *蕎麦屋さんだから、そばのなかみのことをしっかりととらえて、評価している。
と、こんなふうになる。「外便所だけがきれいにできている」「その便所を私はほめる」子どもだったら、なぜ、ここに便所がでてくるのか疑問をもつかもしれない。
 けれども、「守旧のこころ」の奥には、お店に来るお客さんによろこんでもらうこころがかくされている。便所のことで「不便」をかけては申し訳ないと又三氏は思っている。だから、ここは新しくする。そのこころがわかっているから国分一太郎は、「その便所を私はほめるとかく。この目のつけどころがすごい。そして、「それといっしょに」、便所といっしょに、そばやにとっては一番だいじな「なかみ」にふれている。ここが、おもしろい。
 次の「それ以上に、」とつづく、つぎの段落の書きぶりはどうだろう。
 ・「それ以上に」と書いている。前の段落を意識して、つないでいる。
 ・「おがくずがま」のことを書いている。
 ・「朝早く起きて、まずやることが…」、そのたいへんさにふれるように書いている。
 ・能子さんのことばとして書いている。
 ・つきかために使う、昔の餅つききねのことを書いている。その変化を書いている。
 ・この家に行く(・・)たび(・・)に(・)私は見せてもらう。と書いている。くりかえす、行動として書いている。
 ・「もらった」と書かないで「もらう」と書いている。現在・未来形をつかって、これからも見ることをあらわして  いる。
 ・「そして」が、生きている。
 ・「いまさらのように」と書いている
 ・うまさを…あじわう、とくり返しする「行動」として書いている。
 ・「守旧のこころ」を一番かんじる、「おがくずがま」にかかわることを、くわしく書いている。
 こういったことに目をむける。なぜよいかは、ここではふれない。
 では、上段には、どんなことばが結果としてはいったのだろう。
 *ひとがあまり気にかけないような、「おがくずがま」にも、いつも目をむけている。
 *くりかえし言う、能子さんの話を大事な事としてきいている。
 *訪ねていくたびに、「見せてもらう」と考えている。
 *そばのうまい理由を、しっかりととらえている。
 ここでは、くりかえし経験したことを書いた文章であるので、国分一太郎の「へいぜいの=つねひごろの・ふだんの」見方、考え方のよさ、するどさ、変化や経過をとらえる姿勢・態度のすばらしさを感じる。
 後半は、しばらくたって訪ねた「あらきそば」でのことーーある日、あるときの出来事、すなわち「ある日型」の文章――がつづられている。前半で、「おまけにこのごろその中身も弱ったようす」と書いていた勘三郎じいさんがなくなったことが記され、法号のことにもふれながら書きすすめている。「この小文をかいてしばらくたったあと」と書いて、白居易の詩を入れながら書いているが、「はじめ」「なか」「おわり」と「ひとまとまりの文章」を書く指導を大切にしてきた国分一太郎にいわせれば、この部分は、「やがて息子の又三さんは」につなぐ、前置きでもあるし、守旧のこころを又三さんが、勘三郎じいさんからひきつがれていることを思っているから、こう書いたにちがいない。
 子どもには、「あらきそば」を訪ねたことから書きはじめていますねと、「はじめ」を意識させるとともに、じっくり読んだあとでは、「法号」「白居易の詩」「あのじいさん」「藁屋根の家」、こういた単語を一つひとつおさえさせて、「はじめ」を、こう書いた国分一太郎のおもいについても、想像させたい。
 「やがて息子又三さんは、あらためて、いずまいを…」と書かれている。この文章は「ある日型」の文章であり、「時系列」で書かれている。内容と「組たてかた」は、このくらいにして、「こまかい書きづづりかた」を見ていく。それをあげるならば、
 ・「あらためて、いずまいをなおすようにし」と、中止めをつかい、さらに、「そばで寄りそってすわった能子夫人  と」、ふたりの行動を書いて、夫妻が同じ気持ちでいることを表している。
 ・「そばに寄りそうようにすわった」と書くことで、よりいっそう感じる。
 ・「いずまいをなおすように」と、状況にあったことばを選んで書いている。
 ・話すときの様子について書いている。
 ・カギ括弧をつかって、会話をうつしている。このことばは、どちらがいったかはわからないが、前の文にふたりの  行動を書いたことと、「能子夫人とこもごもに」ということから、ふたりの気持ちを伝えている大切なことばであ  ることがわかる。
 ・「おどおどするおももちで」としたときの、表情を書いている。
 ・「つぎのようであった」と、つぎの段落へのつながりを説明している。
 ・「せっかく書いてくださったけれども」や「あれは」という表現で、前に書いてあることを思い浮かべさせ、短   く、適切に表現している。
 ・語る内容をまとめて書く一方で、もっとも重要な、そのひとたちの思いを、そのままの会話表現で書いている。
 ・「もったいないことである。」と、話をうけとめて思った気持ちをすなおに書き表している。
 ・「おふたりの純粋きわまりない心根に感動し」と、つぎの「いいえ、いいえ」につなぐように書いている。
と、少し理由をつけたすかたちで、その表現のよさをとりあげるとこうなる。
 上段にあたる、目のつけどころ(2)の「生活態度・姿勢」「認識・操作の方法」は、こうなった。
 ●又三さん、だけでなく能子さんの様子にも目と心をむけていたのですね。
 ●ふたりのしぐさを、よく見ていましたね。
 ●はなしはじめたことばに、よく注意しましたね。
 ○「…、こうである」と、前おきをして、まとめてあらわすこともできるのですね。
 ●長いことばを、一言ひとこと、よくきいていたのですね。
 ○人のはなしを、ふだんからよく聞くことができるのですね。よい性質が身についていますね。
 ○ここまでのはなしはこうなのだと、まとめることができるようになったのですね。
 ●そのおわびは、「もったいないこと」と感じたのですね。
 ○ふだんから、感動する、素直な心をもっているのですね。
 ふだんからの習慣で、子どもむけのことばになってしまったが、こうである。また、それを、「○つねへいぜいの生活ぶり」と「●その時々のからだの動かしかた・行動」に分けて示した。
 さらに、国分一太郎は、この「三段法」においては、目のつけどころ(1)と(2)を結合させて読むことこそが「つづりかた教育の独自性」だとして大事にする。
 はじめは、どう書かれているか、文そのものに目を向ける。「先生、どうか、ゆるしてけらっしゃい。そのかわり、プロパンガスの火のもやしかたに注意して、いままでと、けっして変わらない、そばのゆでかたをするつもりだからっす」と、会話を書いていることに目をつける。カギ括弧をつかって会話を書いたこと。その会話を書いたことによって、話し手が、どんなことに対して、どう思っているか。これからどうしようとしているか、会話のもっている意味を理解させる。それによって、この日の出来事、書き手の伝えたいことが生き生きと伝わってくることをおさえる。
 そして、こういう会話が書けたのはなぜかと、子どもたちに考えさせる。読んでいるうちに、気づかせたりもする。
 ☆長い会話を、よく思い出して書けたのは、そのとき、その場所で、よく聞いていたからだ。
 ☆その時の様子をよく思い出して書けたのは、よく目をはたらかせて、見ていたからだ。
 ☆「おふたりの純粋きわまりのない心根に感動し」と、書けたのは、ふだんから、すなおなやさしい気持ちで接する  ようにこころがけてきたからだ。
 こう考えさせたり、気づかせたりすることで、文章表現力も、こころの成長もはかることができる。そのためにも、「三段法」による文章のみかたを、実際に作品をよむことを通じてできなければならないと、国分一太郎はいうのである。                                         (つづく)

北に住むひとのこころ―3

2011-12-04 11:20:05 | Weblog
北に住むひとのこころ―(3)


       五

 東根からかえって、芦野又三に本を送る前に、「あらきそば」が出てくる部分を、あらためて読んでみる。四百字詰め原稿用紙七枚の随筆である。


  蕎麦切

 奥羽線楯岡駅から西へ最上川をわたってすこし行く大久保の「そばきり」の名人芦野勘三郎じいさん、あとつぎの又三・能子夫妻と親しくしてもらっている。「そば」を食べにはじめてよって以来二十年のつきあいである。それに昭和五年はじめて教師になり、心のあう同僚であったから、その後つきあいを断たない東海林隆君が、又三氏農学校時代の教師だったというので、いまは自動車学校の校長をしている同君といっしょに、年に、五、六回はかならずそこを訪ねていく。
 あまり行かないと又三氏の方から、病気ではないかとのハガキがくる。ワラ屋根の入り口をはいったすぐのところのいろりに炭火が赤くおきている。そこにすわった勘三郎じいさんが、私のあいさつする頭を、「お前のあたま、カッパのようにまんなかだけがはげたなあ」とこのごろいう。自分はつるりとはげて、おまけにこのごろその中身も弱ったようすなのが残念だ。
 ここに来て、私がまなぶのは、あとつぎ又三氏の守旧のこころである。又三氏はおごらない。ここの「そば」がどんなに有名になっても、家を店風につくりかえたりは決してしない。百姓家の格子障子のある普通の座敷で、昔風の「板そば」だけをくわせる。このならわしをそのまま守っている。いつ行っても座敷が改造されたりはしていない。外便所だけがきれいにできている。その便所を私はほめる。それといっしょに、そばのなかみが、おじいさん以来の秘訣のままなのを私はよりいっそうほめる。
 それ以上に、私は、そばをゆであげるかまの、その下のかまどの「おがくずがま」であることをほめる。朝早く起きて、まずやることが、そのかまどにおがくずをつめて、どんどんつきかためることだと能子さんがいう。そのつきかために使う、昔の餅つききねが、だんだんやせ細っていくのを、この家に行くたびに、私は見せてもらう。そしてガスも石油も電気もつかわずにゆであげた「そば」のうまさを、いまさらのように味わう。
 こう有名になると、「なかみ」はともあれ、「つゆ」がまずいというひとがあるかもしれない。それを心配して、東京にいる私は、そばのことについて書いた本が出ると、すぐ購って又三氏に送ってやる。それを又三氏が参考にしているかどうかは知らない。が、あの「あらきそば」の「そばつゆ」が日本のどこの「そばつゆ」よりおとっているとはけっして思えない。ほれあった同士のほめすぎであるのだろうか。              (一九七四年)


 ここに(一九七四年)とあるように、『いなかのうまいもの』に「蕎麦切」という題で書かれている文章は、二つの文章をあわせたものである。ここまでが、「守旧のこころ」という題目で同年八月二十一日「日本経済新聞」に掲載されたものである。そして「*」で大きく改行されて、同書では、次のように続いていく。

 この小文をかいてしばらくたったあと、当の「あらきそば」を訪ねたら、勘三郎じいさんはなくなっていた。昭和四九年五月二十九日とのことである。おどろいて仏さまをおがましてもらい。位牌を見れば、そこに「蕎月軒勘光道忍居士」と記されてある。村のお寺の住職で、前に村山市市長もなさった伊藤好道氏が、つぎの白居易の詩からとって贈られたという。

   村夜

 霜草蒼蒼 蟲切切
 村南村北 行人絶
 独出門前 望野田
 月明蕎麦 花如雪

 岩波書店の『中国詩人選集』のその部分をひらいてくれた息子又三さんと、この詩の美しさとしずけさをおもいながら、哀悼の意を表した。
 かつて佐藤垢石氏に、「そばきりの名人」として絶賞されたこのひとも、とうとうなくなってしまったのである。しかしこの法号も、そのもとになったという白居易の詩も、あのじいさん、この藁屋根の家、周囲の自然風景に、なんとふさわしくできていることか。
 やがて息子又三さんは、あらためて、いずまいをなおすようにし、そばに寄りそってすわった能子夫人とこもごもに、いつもの静かな口調で話しはじめた。
「先生に、おわびをしなければならないこと、あるのよっす」
おどおどするおももちでかたることは、つぎのようであった。
せっかく書いてくださったけれども、あれはつづけられなくなった。ちかごろオガ屑を買いいれることがむずかしくなり、そばをゆでる湯をわかすかまどに、それをもちいることができなくなった。わたくしたちも残念なんだけれども、どうしようもない。
「先生、どうか、ゆるしてけらっしゃい。そのかわり、プロパンガスの火のもやしかたに注意して、いままでと、けっして変わらない、そばのゆでかたをするつもりだからっす」
外材などの輸入で、オガ屑のでる製材所が、だんだんすくなくなっていたのに、こんどは、そのオガ屑を、なにかのキノコ栽培のために、遠い他県から買い集めにくるものがいて、ついに入手できなくなったのだという。
又三さん夫婦はそのオガ屑が(・)ま(・)をほめたわたくしに、おわびをせずにはいられないのだという。ほんとにもったいないことである。
 わたくしは、おふたりの純粋きわまりない心根に感動し、
「いいえ、いいえ」
というよりほかはなかった。
 それから、いつものミガキニシンの味噌煮で、お酒をごちそうになり、前とかわらぬ歯ごたえと味わいの「そばきり」に腹をふくらませて、日ぐれ近くに、その家を辞した。
帰途も、白居易のあの詩と、法号とを口につぶやかずにはいられなかった。  (一九八0年)

    六

 「蕎麦切」の文章を読むたびに、北に住むひとのこころを田中定幸は感じていた。
 三八年間、小学校教師をし、子ども達の書いた作文や詩を文集に載せ、それを読み合うことをことのほか大切にしていた田中定幸は、国分一太郎の書いた「蕎麦切」の文章を、国分一太郎から学んだ「三段法」ともいわれる読み方で読んでいた。
 「三段法」というのは、子どもたちにつづり方・作文教育の指導をするとき、子どもの書いた作品を「こんなふうに見ていくのだとわかると、それが、とりもなおさず、どう指導していくのかを、あきらかにすることにもなるからだ。」と、「子どもの文章の見かた」として、国分一太郎が理論化したものである。
 「三段法」といわれるように、中段に子どもの書いた作品が印刷される。そして、下段には、目のつけどころ(1)として、「表現の方法・技術」という項目をつくり、そこに、〈○組みたてかた〉〈●こまかい書きつづりかた〉の脚注が書かれる。
 上段には、目のつけどころ(2)として、「生活態度・姿勢」「認識の仕方・操作」という項目がつくられる。それを具体化したものとして、〈○つねへいぜいの生活ぶり〉〈●その時々のからだや心の動かしかた・行動〉を、その文、あるいは文章の部分に対応させて、頭注として記される。
 頭注・本文・脚注を、線で区切ると三段になるからこうよばれている。
 こまかいその読み方を、ここではふれられないが、国分一太郎は――①はじめに文章をじっくり読んで、・どんなところから題材をとらえているか、・どんな題材意識=テーマ意識を持っているかをつかむこと。②本文にそって読み進め、目のつけどころ(1)の、組み立て方がどうなっているかつかむこと。さらに、書きつづりかたに目をむけて、こう書いているのがよい、よく思い出して書いているのがよい、と、具体的な記述や語彙の選択、文法にあった書き方など(多くの場合にはそのよさ)を見つけ出す。③本文、脚注をふまえて、目のつけどころ(2)の項目について今度は考える。「生活態度・姿勢」は、子どもには「つねへいぜいの生活ぶり」として、その表現がうまれた背景には、ふだんからの生活態度のよさがあることを子どもに気づかせるために選ぶ。「その時々のからだや心の動かしかた・行動」では、そのときよく耳をかたむけて聞いていたのですねと、耳をはたらかせていた、その場面での感覚のはたらかせ方を気づくようにさせていく。こう読みなさいと綴方理論研究会でも話してくれた。(つづく)



北に住むひとのこころ―②

2011-12-02 10:03:33 | Weblog

北に住むひとのこころ―(2)


         三

 翌年、国分一太郎は、亡くなった。
 亡くなる前の年、弟正三の長男の結婚式に出席したおりのあいさつのなかで、「わたしの骨を東根の津河山の墓にいれてほしい」とかたり、ふたたび国分一太郎は、北に住むひととなった。
 国分一太郎が亡くなったあとも、「こぶし忌」や国分一太郎研究会の帰りや、打ち合わせの折に、「あらきそば」へでかけた。国分一太郎の長男真一、榎本豊、工藤哲、早川恒敬らとともに。
 山形にはおいしい蕎麦屋がたくさんあった。国分一太郎の資料の整理をし、日本一のケヤキがある東根小学校から移って、今は展示室の横に併設されている国分一太郎資料収蔵室に勤務している山田亨二郎や長瀞小学校想画を語る会の寒河江文雄、国分恵太らがよく案内をしてくれる。さくらんぼ東根の駅からちかい「森久」、「七兵衛」支店、豪雪の地、大石田町の「七兵衛そば」。田中定幸は、「七兵衛そば」では、漬け物つきで千円にひかれた。三ばいも食べたりもした。
 なかでも「あらきそば」が一番よかった。何よりも国分一太郎が好んでたべたこと。明治初期に隣村にあった江戸時代の田舎屋を移して建てた茅葺き屋根の家。そして玄関の三和土(たたき)を上がると自在鉤が下がった囲炉裏がある。静かに、そっと入って正座する。そして、ちいさな窓越しに、ゆげがあがり、ミガキニシンのかおりか、だしをあたためてそこからただよってくる鰹節のかおりか、その台所をのぞきこむ。なかでは、ゆであげた蕎麦を杉の柾目板にもっている。顔をつっこんで「おねがいします。」と声をかける。これがなんとも、ここちよい。
 ときには、囲炉裏の横に朝方からの粉ひきの仕事を終えた、二代目芦野又三がむかえてくれる。
 そして、国分一太郎が同僚の東海林隆となんども座ったことだろう一番奥の小さな床の間の近くに場所をとる。そこへすわって田中定幸は「むかし毛利」を注文するのだ。すると「むかし毛利」は量が多いから「うす毛利」ではいかがですか。と言われる。そういわれると、食べ残してはもったいないとおもう作る人の気持ちを理解して、みんなと合わせて「うす毛利」をお願いする。しかし、ひそかに、おかわりをしようとおもう。
 あとで知ったことであるが、この「うす毛利」は、「一人前も食えぬ軟弱な奴を相手にしたくない」という一代目、勘三郎の反対をおしきって、又三夫婦が都会人のために「量少なめ」を考えたものであるという。
 反対はしつつも、お品書きに載せることになったとき、勘三郎が「板さ軽く盛るから“うす盛り”がよかんべえ。今までのは“むかし盛り”だな」といったということである。そして、品書きには、万葉仮名で「毛利」としるしたという。
 東根に来たときには、時間がとれれば、「あらきそば」に通った。国分洋治、国分恵太や、あすなろ書店を経営し、国分一太郎生誕百年の集いの事務局を担当している村田民雄らも同行してくれた。そして、国分一太郎を中心とした話題がひろがった。
 二代目、又三、能子夫妻もときには話に加わってくれた。

        四
 ある時、国分一太郎が『いなかのうまいもの』(晶文社)に私たちのことを書いてくれた。年をとった今も、そばうちの仕事に心をこめられるのは国分先生のおかげである。ただ今、その本が手元にはない。とても残念におもっていると、芦野又三が話す。

 田中定幸の家の書棚には、その本が、国分一太郎の他の著作である『しなやかさというたからもの』(晶文社)、『ズーズー先生国あるき』(晶文社)、『ちちははのくにのことば』(晶文社)『ずうずうぺんぺん』(朝日新聞社)『いつまで青い渋柿ぞ』(新評論)などといっしょにならべられている。

  こぶしの花
  北へ北へと
  むいて咲き
  北になにかを
  望むらし
    

  花あれば
  根あるをおもう
  根のための
  しごとに
  日々を
  あけくれている
       
     
  おさないころの
  あの土手の
  実なりのわるい
  くるみの木
  なぜかあの木が
  すきだった
  とおいむかしの
  ふるさとにいまもあの木は
  あるという
  実なりはわるく
  あるという
  あの木をこのみし
  われのこと
  実なりがわるく
  ありという

 国分一太郎がかいて(・・・)くれた(・・・)ーーこうかくと榎本豊はおこるかもしれない。田中定幸は、ほしくても「ください」なんていえなかったみんなの前で、田中定幸は、ずうずうしく「ください」といったのだとーー「書」とともに、国分一太郎の署名のある、この『いなかのうまいもの』は、「家宝」としてならべられているのである。

 けれども、『いなかのうまいもの』の「蕎麦切」の主人公ともいうべき、芦野又三・能子夫妻の手元には、この本がない。手元においておきたいといっている。
 その時、田中定幸の頭の中に、はじめて国分一太郎の家によせてもらって、「田中君、そんなはじにいないで、もっとこっちへ入りなさい。」と言ってくれた国分一太郎の顔がうかぶ。

 「又三さん、その本、持っていますから、帰ったらすぐにお送りします。」

 国分一太郎の書いた『いなかのうまいもの』、その本のなかにでてくる「あらきそば」の、芦野又三・能子夫妻に、国分一太郎にかわって本を謹呈することができる。(つづく)




北に住むひとのこころ― ①

2011-12-01 19:14:30 | Weblog
 市民がつくる総合誌「ひがしね」(東根文学界「ひがしね」編集委員会)15号に掲載されたものです。縦書き、2段組
ですが、ここでは、それを横書きにしていますので、多少読みにくいかと思いますがご了承下さい。そして、読んで、感想をいただけたら嬉しいです。

 北に住むひとのこころ
             田中 定幸

       一

 二〇〇四年四月十一日、東根市東の杜資料館に「国分一太郎資料展示室」がオープンした。
 以前、そこでは酒造りがおこなわれ、明治倉とよばれる倉の一つに、北をこよなく愛した国分一太郎の生涯が、ひげそり名人といわれた父、藤太郎のかみそりなどとともに、展示されている。年譜、著作、色紙、写真などから、国分一太郎、七十三年の足跡の一部を伺える。
 夏はひんやりとする倉の白い扉を目にしながら、なかにはいる。『北に生まれて』の書に描かれた、その生活をおもいうかべながら歩をすすめていく。まもなく出口というところに、一枚の写真がかざられている。
 その写真のまん中には、国分一太郎がすわっている。亡くなったあとに、毎年、こぶしが咲きだすころに国分一太郎を偲んでひらかれた「こぶし忌」。そのあとをうけて、国分一太郎・こぶしの会と、綴方理論研究会が柱となってつづけている国分一太郎「教育」と「文学」研究会。そのときに、いつもかかげていた国分一太郎の横向きのにこやかなあの写真よりは、すこし頬のやせた神妙な顔つきの国分一太郎が写っている。
 国分一太郎をかこむかたちで、その右がわには、現在、国分一太郎「教育」と「文学」研究会の事務局長をしている榎本豊が、当時はやしていた黒ひげを記憶に残すかのように、横向きにすわっている。
 その手前には、千葉で綴方教育・人権教育にとりくみ、子どもに、必要な説明をさせて、「ひとまとまりの文章」を書かせることに力をそそいだ、今は個人となられた武田和夫がならんでいる。武田和夫は、メガネごしに、カメラを見るようにして、箸と茶碗を手にしている。
 左がわ奥には、我は写真に興味なしとでもいうように、かがやかしいこうべをたれて、食に専念している人が写し出されている。綴方理論研究会の中心人物であり、国分一太郎資料展示室開設のため、東根市の方々とともに尽力した乙部武志である。その手前には、このなかの人たちのなかでは二番目に若かっただろうか、上尾市から足繁く理論研に参加した山崎秀夫が、カメラを意識して、左手にはつゆのはいった茶碗を人差し指をたててもち、ぼくが主人公とばかりポーズを決めている。
 さらにこの写真をよく見ると、武田和夫の手前に、もう一人いたことがわかる。親指を、二本の箸の棒に大きく横切らせてもっている手が見える。この割り箸をもった人がだれか。話題になったことがある。今、研究会の広報部長をしている工藤哲だった。工藤哲は、この写真を「ぼくの国分一太郎研究」というホームページでとりあげて、自分の生き方の象徴だと。「はし役」なのかは、ともかく、なかなか、何かの中心に、自分を位置づけることができなかったとふりかえり、やゆ(・・)てきにこういっている、その人の手である。
 工藤哲をふくめて、コの字型に囲まれているみんなの前には、横が三十センチをこえる長さの杉の柾目でできた、四角いおぼんともお皿ともいえる板の上に、ねずみいろをした超極太のそばが、板全体をおおうようにもられている。
この一枚の写真は、村山市大久保にある「あらきそば」でとられたものである。
国分一太郎を師とあおぎ、われこそはその一番弟子とそれぞれが思い、語って、東京の新宿、柏木にある国分一太郎の自宅に通い、学んでいた、綴方理論研究会の一員を、「あらきそば」でとった写真であった。

             二

 綴方理論研究会は月に一回、さきほどもふれたように国分宅で開かれていた。写真にうつっている人だけでなく、永易実、関口敏雄、本間繁輝、杉浦渉、折居ヒロ子、大須賀敬子、左川紀子らが中心になってすすめられていた。今ではその学習に、貝田久、高橋朱美・中山豊子、佐藤香織、池田潤子、早川恒敬、草木勝弘らも加わっている。
 日本作文の会常任委員会が提起した論文について、子どもの指導には必要な「認識論」について、国分一太郎から解説をしてもらったり、各自が実践を報告したり、綴方教育の題材論、記述のしかたについても、「推敲」についても話し合われた。
 実践を整理して「理論化」をはかることが、サークルとはちがうこの理論研究会の役割だと、国分一太郎から常にいわれてきた。
 時間も考えずに、話し合いに花を咲かせてしまったとき、つまらぬ世間話に脱線していったときには、国分一太郎が、「ウムッ、ウッ」とうめくようなオトを発して、本題にもどる指示をした。そして、おわりの時間をみはからって、国分一太郎が最後のまとめをしてくれた。障子の桟の縦横をときにはつかって。
 作文の「指導段階」のこともそこで多く話された。日本作文の会が考えた「指導段階の定式」をふまえて、第三指導段階にかかわって、「まとめて説明するなかに具体例を入れて書く」という取り組みを(今、田中定幸が提起している「いつも型・Ⅱ」とほぼ同じ)報告したこともあった。
 田中君、それで、クラスのみんなに願い通りの表現力が育ちましたか。一部の子どもができても、それを簡単に定式化、理論化はできないのです。もっと、具体的に展開しなくてはだめですという、おしかりをうけたこともあった。
 でも、一時間半もかけて通っても、綴方理論研究会は、楽しかった。すこしずつ、自分が成長していくように思えた。
 たずねれば何でも国分一太郎は教えてくれた。すぐに答えはいわなくても、学ぶ方向を示してくれた。けれども、国分一太郎の講演会があっても、けっして、「聞きに来い」とはいわなかった。教科研の合宿が新潟であるときも、できればつれていってほしいというそぶりをしても、国分一太郎は決してつれていってはくれなかった。
 ところが一九八四年の、五月か六月の綴方理論研究会で「山形で、県の作文教育研究会がある。参加したいものは、宿をクワハウスにとるから、申し出よ」という主旨のことを永易実に話したという。田中定幸もよろこんで、参加の意思表示をしたのは言うまでもない。
 その山形県作文教育研究会の前日の六月三十日に「あらきそば」で、国分一太郎を囲んで、綴方理論研究会のメンバーが写っている写真が、国分一太郎資料展示室に飾られていのである。
 手だけ写っている工藤哲は、自分の生きてきた人生そのものだともいっている。けれども手が写っているだけでもいいではないか、田中定幸はそう思う。「おれも、この展示室に、国分一太郎とつながりのあった人として、写真の一部に、小さくてもいいから写っていたかった」そう思っていつも残念がっていた。
 この写真をとったのが、田中定幸だからである。このとき、田中定幸は、誰かに撮り手をかわってもらい、自分が入った写真を、この展示室のレイアウトした乙部武志にわたしておけばよかったと後悔するのだった。(つづく)