ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

呼びかけよう、語りかけよう

2012-01-12 11:22:22 | Weblog

もんぺの弟よ 先生をとりまいて集まれ

 

                  国分 一太郎

 やあみんな。お目でたう。

 昭和十年一月一日。

 お前たちは十か十一になつてしまった。

 先生は二十五になつたぞ。

 今日は新年だから、すつて來たけれど、こらこんなにひげが生えて來たぞ。

       ×

 去年は米がでない年。

 みんなの人々からいろいろ心配していただいた。

 「光」の先生からもらつたみかん。

 益雄さんからもらった手紙。

 峯地先生からもらった綴方字引。

 みんなが九か十の年で、先生が二十四の年は米の出ない年だつた。

 いつまでもわすれないでゐよう。

 米がでないのは今年ばかりではないかもしれない。これからも又あるかもしれない。

 米がでなくてひどいのは、ここばかりではない。もつともつとひどい所もあるのだ。

       ×

 昭和十年。式が終わったら、今年はだちんのみかんももらはれないし、このウスツペラな文集でももらって、よめよめ。

 もんぺの詩をよめ。

 もんぺはく子の詩を、こゑたててよめ。

 「もんぺの子供」の歌をうたってくれ。表紙のうらにかいておくからな。

         (『もんぺの弟』第二号)『国分一太郎の世界―こぶしの花』に収録

  

     もんぺの子供

                 国分一太郎作詞  藤井吉次郎曲

 一、雪だ もんぺだ みんな はけ

   もんぺ はく子は 寒くない。

 

 二、きりり しめてだ 結んでだ

   もんぺい はく子は しまりよい。

 

 三、ゆきだ 吹雪だ ゆき道だ

   學校へ 行く子の 行列だ。

 

 四、小さい 方から ならんでだ

   もんぺ はく子は げんきよい。

 

 

 若き青年教師国分一太郎は、新しい年のスタート、そのとき配った『もんぺの弟』第二号にこう書いた。

 冬休み明けのスタート、先生方はどんなよびかけをこどもたちにしたのだろう。今年も、子どもたちにたくさんの呼びかけをしてほしい。学級通信や文集でもよびかけて、子どもといっしょに、今を、そして未来をつくっていってほしい。


「正月追想」-2

2012-01-11 11:57:17 | Weblog

「正月追想」-2

 

 先日紹介した、国分一太郎の「正月追想」の一部が、平成10年(1998年)111日の山形新聞に掲載されています。「著者出身地、東根市三日町の初売り風景」の大きな写真とともに。「やまがた 文学のある風景―40」として。

エッセーの後には、次のような文章が添えられています。

 

                                                            

                                                           

      精細に描いた文章・思いはいつも山形

               松坂 俊夫(山形女子短大教授)

 

 「明けゆく空のけしき、昨日に変わりたりとは見えねど、ひきかえめずらしき心地ぞする」と、『徒然草』にも記されているように、元旦、そしてお正月は、うって変わって清新な思いのするものである。

 毎日がお祭のような現代はいざしらず、かつてのお正月は、数ある年中行事のなかでも、きわだつ「晴れ」の日であり、とりわけ子どもたちには、「もう幾つ寝るとお正月」と指折り数えて待ちに待った日であった。

 「ファ-ブルの昆虫記のように、村のこどものことを、こまかに書く」(土岐善麿)と評された国分一太郎は、大正から昭和初期の農村少年の暮らしを、エッセーに児童文学にと数多く記している。

 「正月追想」は、幼少年期に食べた忘れ難い食物を語ったユニークなエッセーであり、自分史・生活史の側面をも備えている。国分の子どもの暮らしにかかわる文章には、常に自分の少年時代や,故郷の東根周辺のことどもが語られているが、「正月追想」も例外ではない。

 このエッセーでは、お正月の「初買い」や「餅」、そして「ダンゴの木」のことが記されている。なかでも「ちいさいときのお正月のことを思い、なにかあのころの習慣を実行にうつすとすれば、あのダンゴさしをしたいと私は思う。」とも書いており、国分にとってダンゴの木は、子どものころのお正月の、もっとも印象深いことであった。

ダンゴの木については、ほかにも「ダンゴさし」と題された一文もあり、祖母と母と一緒に、ダンゴをさした思い出を精細に描いている。

  北に向かいし枝なりき

  花咲くことも遅かりき

とは、国分が好んで記したフレーズだが、都会に住むようになってからも、その思いはいつも北に向かっており、その文学も教育も北の風土・山形の地から生まれたものであった。

 

 ここでは、このほか、国分一太郎の紹介と、生家を記した地図が載せられています。

 

こくぶん・いちたろう

明治441911)年~昭和6085)年。北村山郡東根町(現東根市)生まれ。山形師範を卒業し小学校教師となる。生活綴方・生活教育運動に参加、北方教育運動の原動力となる。戦後は児童文学作家としても活躍。『すこし昔の話』、『鉄の町の少年』、教育評論『新しい綴方教室』など著書多数。『児童文学全集』、『文集』もある。「正月追想」は、「こどものせかい」(昭50・1)

 


正月追想

2012-01-06 17:34:37 | Weblog

 あけましておめでとうございます。こんな挨拶を何回かしているうちに、今日は、六日。みなさんはどんなお正月を迎えたのでしょうか。

お正月を、ちょっと、ふりかえる、そんなときに、うかんできたのが昨年、国分一太郎生誕100年を記念して発行された『こぶしの花ー国分一太郎の世界ー』の冒頭にでてくる、「正月追想」。 国分一太郎の子どもの頃の、お正月の一コマが描かれている文章を、年始のあいさつ代わりにお届けします。

 

 

  「正月追想」

              国分一太郎

 

 元旦の日の楽しみは「初買い」だった。暗いうちから起きて、私たち子どもは、そちことの店へ、醤油、酢、なっとう、こんにゃく、あぶらげだのを買いにいった。店では「初売り」ということで、だちんをくれた。十銭ぐらい買ったのに、二銭の銅貨をくれた。そのだちんが正月の小遣いとなった。餅は、つきたてのなま餅を食うので、砂糖餅、なっとう餅、ゴマ餅、クルミ餅、雑煮餅と種類が多かった。そのうち雑煮餅が一番楽しみだった。これはほんとうの雑煮餅で、こんにゃく、あぶらげ、ゼンマイ、ゴボウの千切りなどの醤油汁のなかに、一年に何度も食べない馬肉か鶏肉がはいっていたからだ。

 餅を食う前に、青豆のゆでたのと数の子と、雑草であるスベリヒユを夏にとって乾しておいたものの、白あえを食った。このスベリヒユを方言で「ヒョウ」といった。これをたべるのは「マメで数々働いて、ヒョッとしたこと(偶発的な変事)がないように」とのことだった。それを、「ヒョッとしたこと(意外な幸運)があるように」と逆にいう年寄りもおった。正月の遊びは、こたつの上で「いろはガルタ」と「すごろく」をした。

 二十日までつづく正月の期間で、一番うれしいのは、十三日のダンゴさしであった。その日になると、雪道の両側にダンゴ木市がたった。ダンゴ木とは、いまコケシの材料になるミズキのことで、その冬の枝は赤紫に色づき美しい。一段一段車のように枝をひろげてのびていく木なので、その大枝を切ってきて売るのを買って帰ると、座敷の天井の下をはうように横へひろがった。私たちはそのミズキの小枝の尖端の芽を指先でちぎる。その尖端のひとつひとつに、米の粉でこしらえた直径二センチぐらいなダンゴをさす。そのダンゴのいくつかには、食紅で赤い色をつけたものもある。

 金持ちの家では十畳間いっぱいにひろがるほどのダンゴ木を買う。家に(・)祝い(・・)の人がいる家でも、この年はいくらか大きめの木を買う。しかし、ごくささやかな木しか買えないような家の子である私たちきょうだいでも、このダンゴが花と咲いた座敷に寝るのは、たまらなくうれしかった。ことしも正月になったとの思いがしみじみとした。このダンゴの小枝は、井戸にも便所にも、いろりばたにも、みなさした。私の町では、これを「まゆだま」とはいわなかった。「繭玉(まえだま)」というのは、ワラのミゴをたばねたのに、小さな餅のきれをくっつけて、養蚕をする家の方がよくつくった。ダンゴ木の根元の方には、親ダンゴという大きなのを、どっしりとすえつけた。

 ちいさいときの正月を思い、なにかあのころの習慣を、いまも実行にうつすとすれば、あのダンゴさしをしたいと私は思う。さいわいに米屋ではいま、米の粉を売っている。また私の家の庭には、どこからか小鳥が種子をはこんできて、糞をしたあとにはえたミズキがそびえている。ミズキがなければ、東京に多いクマノミズキの一枝をもらって代用としてもよい。米の粉をこねて、ダンゴにまるめ、熱湯で煮ると、ポコンポコンと浮きあがってくる。それをザルにあげて、うちわであおぐと光沢がいやに増す。それを枝先にさして、居間の一隅にかざるのだ。毎年正月十五日の晩、これも昔の正月の行事と思って、豆腐とこんにゃくの「でんがく」はつくっているのだが、こんどの正月には、このダンゴさしをやってみようと思う。あとでこのダンゴを焼いて醤油をつけて食う喜びも、また味わいたい。

             (『国分一太郎文集9 北に生まれて』新評論・1983年)