ツルピカ田中定幸先生

教育・作文教育・綴り方教育について。
神奈川県作文の会
綴方理論研究会
国分一太郎「教育」と「文学」研究会

つづる7 「週一日記」のすすめ③

2015-01-19 11:22:52 | Weblog

 

つづる7

              《子どものうちに育てておきたい表現力》

                                                               「週一日記」のすすめ③

六 「書くこと」が心をケアするー1

 

                  日本語教育部会協力研究所員 田 中 定 幸

 

 

 

(一)日記にも「書き方」の指導を

 

「日記をはじめて、だいぶたった。何人かの子どもは、たしかによく書くようにもなった。けれども、そのほかの子どもたちは、あいかわらず、いつ、どこで、何をしたか。そしてどんな気持ちだったかと、あらすじのような書き方でなかなか進歩がみられない。」

 忙しい時間をさいて「赤ペン」を入れて励ましても、なかなか内容や表現に広がりや深まりがみられない。もっと、ほかのことに力を入れた方が、子どもも育つのではと、思ったり、考えたりするときがあります。

 日記は、子どもの「自己表現」であり、一人ひとりの子が、書きたいことをえらんで、書きたいように書かせたいとだれもが思います。そして、書いた子ども、書かれた内容や表現に合わせて教師は「赤ペン」を入れて返します。

 したがって、全体への表現指導が行き届かず、なかなか表現力が向上しないで、書き手の思いは教師には伝わらず、それを読み、感想を書く「赤ペン」も、思うように書けなくもなったりします。昔にくらべて日記を書く機会が少なくなった状況では「赤ペン」による子どもへの励ましだけでは、なかなか成果をあげることはむずかしいと思います。

 日記を書くことで、子どもの心を「ケア」し、成長をたしかなものにするためには、

「赤ペン」での指導と合わせて、その一方で、子どもたちに「日記を書く力」すなわち、文章表現力をつけていかなくてはなりません。

  月に一回でも、学校で日記を書く時間が設定されていれば、そこで書き方を指導したり、国語科の「書くこと」の領域の中に、「何を」「どう書くか」の時間を作って、表現力を育てていこことが、心のケアと自立をよりうながすことになります。

 

(二)「書き出し」を意識させる

 

 学校で日記を一斉に書くときには、書く前にひと言、アドバイスができるというよさがあります。「今日は、書きたいことがきまったとき、その出来事のどこから、あるいは、どんなふうに書き出したらよいか、ちょっと考えてから書きはじめてください。」こんなふうにいって、「書き出し」について、関心をもたせるようにします。

 あるいは、子どもたちが書いてきた日記を紹介するときに、題と書いた人の名前を読んだあとで、「この日記の書き出しはこうです。」と、書き出しの部分に注目させるようにします。

 よくある「書き出し」につぎのようなものがあります。

1 ことわり=説明からの「書き出し」

 

・にゅうがくしきの日に、げきをやりました。

 わたしは、やるまえにしんぞうが、どきどきして、きんちょうしちゃいました。

 まっているとき、となりのおともだちが、

「きんちょうするね。」…。

 (「おむすびころりんのげき」2年・りな)

 

・きのう、じゅぎょうさんかんがありました。

 朝の会のときから、はま口さんのお父さんがきていました。ぼくは、ずいぶん早いなあと思いました。それから…。

(「じゅぎょうさんかんははずかしい」4年・弘史)

 

 子どもたちは、「おむすびころりんのげき」という題をつけた後でも、「げきをやりました。」と書いたり、「じゅぎょうさんかんははずかしい」という題を書いた後でも、「きのう、じゅぎょうさんかんがありました。」と書きます。

 こうことわってから書くのは、その出来事が「いつのことか」を説明するために、書き、さらに、これから書きたいことは、どんな出来事なのか、ひとことことわってから書かないとおちつかないのかもしれません。

 はじめに、これから何のことを書くのか説明してから文章を書くと、そのあと続かないということがよく言われたりもしますが、ここでははじめに、こうしてひとこと、これから書くことは、「いついつあった」「この出来事だ」と説明していることを大切にします。

 身の回りにある出来事はともすれば連続して、その区切りがはっきりしないで過ぎていきます。そうしたなかで、「あの日の」「あの出来事」として、生活の中から切り取って、それを書いているという意識のあらわれとしてとらえることができます。このことは、「もの」や「こと」、「出来事」を自分とかかわりのあることとしてとらえられるということです。

 ふり返って、ある一つの体験を、自分とかかわりのあることとしてとらえて、自覚していくことは、身の回りに起こっている様々なことを意識することにつながります。人や「もの」や「こと」を知ることにつながります。

 人が不安を感じたり、安心できないのは、ものやことを漠然としてとらえたり感じたりしているため、その実態が見えないことに大きな原因があります。見通しをもてないところによりいっそうの不安を感じ、恐怖すら感じることがあるのです。この「不安」や「恐怖」を少しでも解消させていくためには、身の回りに展開する出来事を、個々に、具体的に、一つひとつ、区別してとらえることが必要なのです。

 ですから、文章のはじめに、ひとことことわりのように書く、「げきをやりました」「きのう、じゅぎょうさんかんがありました」という書き出しを、心に残った出来事を自覚しているという点で―生活の中ある一つの出来事をとらえているという点で―大きな意味をもった「書き出し」ということがいえます。

 

2 出来事のはじまりからの「書き出し」

 

 一つの出来事としてとらえ、出来事の始まりから書いているものもあります。こういうものを積極的にとりあげます。

 

・おひるごはんを食べて、黒い糸と百円とバケツをもって、いそいで川原くんのうちに行きました。ブザーをおしたら、川原君のおじさんがいました。

「川原君、いますか。」

といったら、おじさんが、…。

(「ザリガニをとりに行った」4年・さとる)

 

・ずっとまえ、くさはらで、やきゅうをやろうとさとうくんがいいました。ぼくは、

「やろう。」

といいました。けいくんもいました。

     (「やきゅう」2年・ようすけ)

 

3「 ~していたら」「~したとき」の「書き出し」

 

 また、その出来事は、ある時、目にしたことから、あるいは、何かをしていたら、しようとしていたら起こったということがあります。文章の冒頭に「…していたら」と書いたものがその例ですが、こうした書き出しも、出来事のきっかけ、始まりをしっかりととらえていることから、積極的にとりあげていきます。

 

・きのう、学校からかえってきて、うちへあがったら、はるきがねていた。おこさないように、算すうのテストなおしをした、テストなおしができたら、はるきが目をさました。でも、…。

(「へんなはるき」2年・桃子)

 

・学校から帰って、ごはんを食べて、ザリガニにえさをあげようとしたら、もう一ぴき同じようなものがいました。同じようなザリガニは、ひっくりかえっていました。

(「ぼくのザリガニがだっぴした」4年・さとる)

  

 こうして出来事のはじまりをとらえて書いた「書き出し」をとりあげていくようにします。

 

4「書き出し」を考えさせることの意味

 

 この他にも「書き出し」については、ここにあげた以外にいろいろあります。日記に多くみられる「ある日型」の文章の書き出しについては『作文指導のコツ①低学年』(注)でくわしくふれています。

 ◇出来事のはじまる少し前から ◇ある日の、行動から ◇日時から ◇目にしたものから(景色) ◇ある時、目にしたことから(様子) ◇ある日、目にしたことから(行動)◇ある日に、耳にしたことから(会話)◇ある場所で、耳にしたことから(音)◇会話から ◇場所から ◇まとめて、説明することから ◇前にあった出来事から

などの「書き出し」例をあげて紹介しています。

 よく、会話から書き出している文章にたいして、そのほめことばとして、「会話から書き出して、表現のしかたを工夫したのですね」といったりもします。また書き出しがマンネリ化しっておもしろくないと考えた子どもが、書き出しを「工夫して」、聞こえてきた音からかきだしたりする場合もあります。

 表現のしかたの工夫ということから考えることも大事なことともいえますが、「出来事のはじまり」が様々であることを意識づけるために、「書き出し」にもいろいろあることを子どもたちにも理解させたいものです。

 このことが、出来事のはじまりをさらに意識化することとなり、身のまわりに起こることがらをとらえる「視点」が身につき、出来事へのかかわりが積極的になって、出来事へのとらえかたがしだいにはっきりとしてくるのです。

 くり返すことになりますが、一つひとつの出来事としてとらえることができるようになることが、「安心」につながり、子どもたちは、心をひらきはじめるのです。

 

 この「書き出し」の指導は、文章の冒頭の、短い部分の紹介ですみます。ですから、ここでも短時間で、たくさんのクラスの友だちが書いた文章と、書いた人を紹介することができます。心のケアのためにも、日記の書き方の勉強のためにも、おおきな成果をあげる指導です。

 

(三)「もの」や「こと」、「人」を意識させる

 

 日記に、自分のしたことをしたとおり、自分の思ったことや考えたことだけを書く子どもがいます。

 そのとき自分のしたことや見たこと、話したこと、思ったことや考えたことだけでなく、その出来事でいっしょになってかわった人、かかわってくれた人の行動や様子、かかわった「もの」や「こと」についても、ふり返って目を向ける子どもにしたいものです。

 日々の暮らしは、自分の行動や考えだけで展開しているものではありません。身の回りにあるものやこと、人などを意識するかしないかにかかわらず、とりまく環境におおきな影響をうけて人は暮らしています。

 毎日の生活に不安や悩みをあまり感じてない場合には、それらが空気のように感じられて、制約を受けていると思ったり、影響を自覚したりすることはありません。

 けれども不安や悩みを感じたり、かかえるようになったときには、身の回りにあるものやこと、人、あるいは生活全体が、大きな重み・圧力となってのしかかっているように感じます。そして、この重圧を、「漠然」ととらえたり「全体」として感じているだけでは、不安はつのるばかりです。悩みは深刻になっていきます。

 この不安をとりのぞくには、とりまいている、まわりのものやことを一つひとつ、具体的にとらえていくことが必要です。まわりのものやことあるいは人との関係などを細部にわたってとらえて理解することが必要です。(分析したり総合したりすることはその次になります。)まわりとの関係を追求することで、自分の今の状況がみえてくるのです。

 自分との関わりの深い身のまわりの「もの」や「こと」、また「ひと」などと、実際にどのようにかかわって生活をしているかをふりかえることで、現実の把握ができ、かかえている問題が見えてくるのです。

 まわりの「もの」や「こと」が見えてくると、悩みや危険からは、本能的にさけようとします。また、受け入れにくい「もの」や「こと」を自覚することで、それを避けるようになります。

 その結果、すこしずつ心の不安が解消されていくのです。それだけでなく、具体的なものやことを理解したり自覚することとあわせて、環境が改善され、具体的に「もの」や「こと」とどのように関わっていけばよいかを学習したり、他の人に、みとめられたり、はげまされたりすることで、行動の道筋が見えて来て、「自立」への道が開かれるのです。

 このとき、もっとも基本となる部分で力を発揮してくれるのが「書くこと」なのです。生活をつづる日記に、身の回りの「もの」やこと、「ひと」とのかかわりを、文字によって表現することがまず大事なことなのです。くわしく書きつづっていくうちに、体験が客観的に見えてきて、出来事のもつ意味に気づき、理解を深めて、現状をとらえることができるのです。それが「心のケア」につながっていくのです。

 そのためには、自分がしたことだけでなく、見たこと、聞いたこと、ひとやものやことを書くようにはたらきかけます。また、いっしょにいた人のこと、関係の深かった「もの」や「こと」の様子や動きに目が向いているような日記を取り上げます。

 

   しゃぼんだま

                2ねん・まゆこ

 きょう、いもうととしゃぼんだまをしてあそびました。わたしが、まえにかっておいたしゃぼんだまのえきで、しゃぼんだまをつくりました。

 わたしは、そうっとふきました。しゃぼんだまは、フワーッととんでいきました。いもうとが、ほじょつきのじてん車にのりながらわろうとしていました。ほじょつきのじてん車にのりながら、上をむいて手をのばしながらわっていました。

  しゃぼんだまはたくさん出ました。小さいのや大きいのが出ました。いもうとが、

「きれいだね。」といいました。

おじいちゃんが、しゃぼんだまを見ながら、わらっていました。しゃぼんだまは、すきとおったいろだけどきれいでした。

 いもうとが、「やりたい。」といったので、やらせてあげました。いもうとは、「フッ」とやってしまうので、すこししか出ませんでした。いもうとは、「すこししかでないよ。」といいました。わたしは、

「そっとふくんだよ。」といったら、

「そうか。」といいました。そして、ふいてみました。いもうとが、そうっと、「フー」

とやったら、大きいのや小さいのが出てきれいでした。いもうとは、おもしろくてなんかいもやっていました。いもうとは、「おもしろいね。」といってまたやってみました。わたしは、そんなにおもしろいのかなあとおもいました。

 

 この日記を読むと、子どもたちは、「しゃぼん玉であそんでいる様子が目にうかんできます。」と言います。「それは、なぜか。」と聞くと、しゃぼん玉の飛んでいく様子や、妹の行動から、よくわかると答えてくれます。そこで、あらためて、妹のことが書かれているところを確かめさせ、そこからどんなことが分かるかを問いかけてみます。

 さらに、どんなことがらが順に書かれているかをみんなで確かます。

 書き出しは、しゃぼん玉をしたことの説明から入っています。そして、自分で液を作って、とばしたこと(したこと)。→しゃぼん玉(もの)→妹の行動(ひと)→しゃぼん玉→妹のコトバ→おじいちゃん→しゃぼん玉→妹とのやりとり→しゃぼん玉→妹のこと→思ったこと。

 こんなふうに、そのときに書かれていることがらに目を向けさせるのです。そして、自分のしたことだけでなく、その場の様子やものやこと、かかわったひとのことを書いているので、様子がわかることと同時に、ひとつの出来事は、いろいろな「もの」や「こと」「ひと」がかかわりあって(=つながって)起こっていることにも気づかせ、そういうことがらをいれて書くことの大切さに気づかせるのです。

 まわりの様子、ものやことを書くことで、子どもたちは身の回りのものごとに目や心をはたらかせるようになります。その結果、状況の理解、出来事の理解が進み、一つひとつのものやこと、人にたいする関係が見えてくるのです。見えてくることにより、どう対処すればよいかがわかってきて、「安心」できるのです。

                            (綴方理論研究会)

(注)『作文指導のコツ①低学年』(田中定幸著・子どもの未来社)

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《つづる5》  四 すべての子どもの心のケアのためにも

2015-01-16 12:05:10 | Weblog

 

つづる5

《子どものうちに育てておきたい表現力》

四 すべての子どもの心のケアのためにも

「週一日記」のすすめ―1

 

                 日本語教育部会協力研究所員 田 中 定 幸

 

 

 

(一)学び合える集団をつくる

 

 今は、「安全」「安心」がキーワードの時代。新しい学年を受け持ったとき、まず、子どもたちの安全を保障し、心を開かせ、安心して学校生活をすべての子がおくれるように心がけなければなりません。

 それは、クラスのなかの一番弱い立場にいる子どもたちに目を向けながら、一人ひとりの存在を確かめながら「仲間づくり」「学級づくり」をしていくことです。ほおっておいては、クラスはあっても「学習集団」はできてはいないのです。

その時に大きな力を発揮するのが、子どもたちが書いてくれる日記や作文、詩です。

 日記は、子ども自らが書きたいことをえらんで書くことが原則になりますから、えらんだ題材、書かれている内容、その書きぶりなどから、その子の生活や願い学習の状況、友達との関係などがみえてきます。日々の心の変化の一部を知ることもできます。

 一人ひとりの子どもの生活や願いを知ればしるほど、その子にあった教育ができる。

 このことばは、ずっと日記を子どもたちに書いてもらってきた、わたくしの経験から

生まれたものです。

 こどもたちの書いた日記は、教師が読んで、「赤ペン」を入れて書いたこどもを励ますだけでなく、書かれたものを読んだり、学級通信や一枚文集に紹介したりすることで、書き手も生活に対する思い、願い、見方・考え方をみんなのものとすることができます。

 お互いの生活や願い、その日その時の気持ちを知ることで、心をひらき、安心して生活をおくることも、共感し共鳴する心も育ってくるのです。

 大震災の後、「災害に遭った子どもたちの心のケアにどう取り組むか」(注1)が、問題になっています。今回の大震災の特徴から、今後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の増加が予測されています。その時、学校でのPTSD未然に帽子するために必要な支援として 「(1)安全・安心の確保。(2)個々の子どものへの理解。(3)特別支援教育に学ぶべきユニバーサルデザイン教育。」があげられています。

 さらに(3)のユニバーサルデザイン教育で必要な具体的な配慮として、①クラス一人ひとりが、安心していられる場所を作る。②好きなこと、得意なことで教師、仲間とつきあえる。③クラス一人ひとりに活躍の場がある。④不快な感情を言葉で表現できる機会がある。

と書かれています。

 今、こころのケアの必要なのは、災害にあった子どもだけではありません。インクルーシブな教育、人権教育などの充実をもとめられ、さらには人間理解を深めるという観点から、「具体的な配慮」を可能にしてくれるのが、日記です。

「指導要領」には明記されてはいませんが、教育をつかさどる教師の大切な仕事として、「日記指導」を上位にいちづけて、とりくんでみてはどうでしょう。忙しい毎日、一週間に一回は書く、「週一日記」からはじめましょう。

 

(二) スタート前の準備

 

1 教師が語ることから

 日記をこどもたちに、生活の一部として書いてもらうようにするためには、まず、教師がこどもたちにたくさんのことを語ることが大切です。新学年・新学期のスタートにあたっては、まず教師の思いや願いを、できれば通信か「一枚文集」に文章を書き、それを読みながら語ることが大事だと思います。

 

 進級おめでとう/一人ひとりの力とよさを出し合って/すばらしいクラスをつくっていきましょう

「田中定幸先生」と、五年一組の担任が発表になった時、どんな気持ちでしたか。一年生の時に習った、石川先生や大澤先生がよかったとか、四年の時の受け持ちの先生方がよかったとか、新しく武山小学校へきた若さモリモリの米田先生がいいなと思った人もいたかもしれません。

 でも、がまんしてください。一人ひとりみんなの気持ちを聞いていたら、武小のクラスの担任を決めることはできません。学校全体のことをよく考えて校長先生が決められたのです。その中で、みんなはせいいっぱいやるほかはないのです。先生が気にいらないからといってしょげていては、何も学ぶことはできません。

 先生たちも、好きな子ばかりをえらぶことはできません。また、そんなことはしません。みんなも好きな友だちを集めてクラスを作ることは出来ません。

 クラスがえになった仲間35人と先生が、力を合わせていいクラスをつくっていくのが、だいじな『人を育てる』学校教育の目標なのです。

 ぼくの好きな言葉に、国分一太郎先生の言葉があります。(注2)

…君ひとの子の師であれば/とっくに それは ごぞんじだ/あなたが 前に行くときに/子どもも 前を向いていく。/ひとあし ひとあし 前へ行く。

 先生のぼくががんばれば、子どももきっといい子に育つ。まず、教師ががんばらなければだめなのだよ。という意味です。

 先生も頑張ります。

 井上 友美さんも がんばってください。(以下、クラス全員にこう、呼びかける)

 

 こんな通信を書くのです。そして、よいクラスをつくるためにはどうしたらよいか子どもたちに問いかけます。子どもたちに話させ、考えさせます。考えを引き出すようにします。そして、そういうクラスをつくるために、先生からは、一人ひとりの気持ちを大切に育てていくために「日記」を書いて欲しいと提案します。

 日記を書くと、こんなよさがあると話します。

・先生が日記によむと、たくさんのことを知ること、学ぶことが出来る。

・「赤ペン」によって、感想をつたえられる。

・書いたひとの気持ちや心がわかったとき、その人にあった励まし方ができる。その人のよさをみんなに伝えることができる。

・友だちの日記を読むと、友だちも、同じようによろこんだり、かなしんだり、心配したり、驚いたりしながらくらしていることに気づくこと。同じような出来事にであっても、違った考えをもつ人もいること。それぞれの家には、それぞれの生活のしかたがあること。友だちの、すばらしい見方・考え方を学べること。

・おたがいが知り合うことで、学級としての「なかま」ができること。学び合える「集団」ができること。

・そして、「安心」「安全」な学校生活が送れること…。

 

 こういったことを話したからと言って、すべて伝わるわけではありません。けれども、日記を書き、それを読み合うことは、いじめのない、一人ひとりが大切にされる学級ができることをしっかりと伝えます。

 このときの話は、文字に固着させて、「学級通信」にも書いておきます。それを目にする保護者や家族の人たちにも伝わるようにします。所信をしっかりと伝え、指導の柱としての位置づけをします。

 

2 日記帳をプレゼント

 進級プレゼントとして日記帳を用意します。もちとん後で、集金してもかまいません。日記帳を教師が用意するのは、同じ物であれば扱いやすいこと。そして、子どもたちが、書きやすいように、また、書いた達成感が味わいやすいように、罫線の巾の広い物、マス目の大きいものをはじめは用意します。そして、書き方に津言っても共通の翌即の元に書き進めるようにします。

 すぐに書かせず、初日は、日記帳のプレゼント。そして、1ページ目から順にページを書きこませます。表紙には、自分の好きな名前をつけて、1冊目、あるいは№1と書き入れさせます。

 そして、この次に、新しい学年になって心が動いた日のことを書こうと予告しておきます。日記帳はそれまで大事に教師が預かっておきます。こどもたちに持たせておくと、書く当日、忘れてしまう子が何人か出てしまうからです。

 

(三) はじめて書く日記

 

1 新しい学年になって「心が動いた日のこと」を

 予告しておいた日の朝の会に、日記帳を子どもたちにもどします。そして、今日は、この日記帳に、はじめて書いてもらうことを告げます。

 新しい学年になって心がうごいたこと、ドキドキした日のことを書こうと話します。始業式の日のこと、その日、家に帰って話したこと。桜の木の下で出席をとり、自己紹介をしたときのこと。先生とすもうをとったときのこと、授業のこと、いろいろと思いださせ、その中から一つえらんで書くようにすすめます。

 書く時には、今日の日付、曜日、天候を一行目に書くように伝えます。そして、題をつけて書くように指示します。日記にも題をつけるのは、書きたいことがらを生活の中から「切り取って」、そのことだけを書くように習慣づけるためです。

 題の後には、名前を書いてもらいます。「自分のノートなのに、なんで名前を…。」という子がでてくるかもしれません。「これでもう三行書けたことになるのではないか。」と、ひとこと冗談を言ったあとで、「たくさんの人の日記帳を読むことになるので、そのとき、いちいち誰が書いているのか表紙を見るのでは、時間がかかってしまいます。ですから日記帳を出し時には、その日書いたところをひらいて出してくれると、さっと誰場書いたかわかって、すぐ読むことが出来るからです。これは先生からのお願いです。」こう言うと、それからなちゃんと名前も忘れずに書いてくれます。

 ちょっとしたことかもしれませんが、教師にとっても、長く続けるためには、こんな小さな工夫していくことが大切です。

 こうして、「はじめて書いた日記」にはいまだに、心にのこるものもありました。

 

いやな先生になった

   5年・ひろゆき

 始業式に日、組がえの日だとはりきってきたぼく。自分では、「また石渡先生がいいな。」と思っていたが、デンチュウテイコウ(田中定幸)なんて、へんなあだなの先生になっちゃった。ちょっとおっかなそうな先生だ。なんだかぼくにうは、むいてないような気がする。(以下略)

 

 この日記を読んだときには、ちょっとショックでしたが、よし、このひろゆきさんを、一年かけて「石渡先生もよかったけれど、田中先生もよかった」と思ってもらえるようにがんばろうと闘争心をもやした話も交えて、この日記を紹介しました。ひろゆきさんの心をここで知ったことは、いいことだったと今も思っています。

 ここでのねらいは、

・まず、日記帳に出来事を書いて、日記帳となかよしになること。書き慣れさせること。・新しい学年になった、「ある日のこと」を書くことで、日記には、必ずしもその日にあったことだけでなく、数日前のことでもよいこと。いつも、おもっていることでもよいこと。

・その日の出来事では無いときには、「おとといのことでした」というように、いつのことかをはっきりさせてかけばよいこと。

・出来事を書くときには、その出来事の「はじまり」のところから順に思いだして書くこと。

 こんなことを気づいてくれたらよいと思って書いてもらいます。

 そして、この時期、何よりも大切なことは、「こどもどうしの心をつなぐには」まず、先生が、一人ひとりの子どもとつながれるように努力すること。その気持ちを大切に、はじめて書いた日記を読んでいくように心がけます。

 

(四) 「日記の書き方」を学ばせる

 

1 三つの出来事の中から

 2回目の日記を「学校」で書いてもらいます。ここでは、あらためて、「日記の書き方」についての基本的なことを理解してもらいます。

 日記を書くときの、日・曜日・天候を書くのは前と同じです。そして、二、三日前のことでもよいし、その日のことでもよいから、心に残っている出来事を三つあげさせます。(必ずしも三つでなくてもよい)そして、その中から一つえらんで題をつけて書くように指示します。

 

四月十四日(月)晴れ

 ○あたらしいほけんの先生が2人きた。

 ●ジャガイモを花だんにうえた。

  ○五時間目の音楽のとき、みんな前に

    でてたのしくうたった。

 

ジャガイモを花だんにうえたこと

            4年 有子

 3時間目、わたしたちは、ジャガイモをうえました。

 はじめにみんなが、スコップで土をやわらかくしていきました。その時、中村先生が、ジャガイモを半分に切っていました。うまいなあと思いました。わたしは、その切ったジャガイモをもらうと、こんどは、はいをつけました。わたしは、なぜはいをつけるのかと思っていました。 それから、わたしは、その半分に切ったジャガイモを花だんにうえました。はやくできるといいなあと思いながら、ジャガイモをうえました。

 わたしは、夕ごはんの時に、おかあさんに、/「なぜジャガイモに、はいをつけるの。」/ときいてみました。おかあさんは、/「何でだろうね。」/なんて、いっていました。すると、おじいちゃんが、/「はいをつけると、くさりにくくなるんだよ。」/とおしえてくれました。(以下略)

 

 三つあげさせるのは、いろいろな出来事の中から「えらんで」書くことを大切にしたいからです。いってみれば「日記のタネ」を少しでも多くもたせたいという理由です。また、三つあげたことで、生活の中から書きたいことがらを「切りとって」、そのことだけを書くようになります。さらに題をつけることで、テーマ(主題)をはっきりさせるようになっていきます。

 

2 書き方のコツ

 その日のことだけでなく、何日か前にあったことでもよい。過去の「ある日、ある時のこと・出来事」の中から「えらんで」書くことをすすめます。その方が、題材(タネ)としてえらびやすいし、書き方についても、その出来事のはじまりの所から順に、「時間の経過・事件の進行」、すなわち「したことの順」に書くことになります。

 これまで、この『つづる』で述べてきた、「ある日型」の文章を書くことがおおくなります。あらためて『こどもと教育』(号)を読んでいただけると「日記の文章」がどういうものかわかってきます。その「ある日型」でもある「日記の文章」の書き方のコツをここにまとめておくならば、次のようになります。

 

①ある日、ある時、あるところであったことを題材にえらぶ。

②いつ、どこで、だれが、何をしたかが、全体ではっきりわかる文章にする。

③できごとのはじまりから、したこと、みたことの順(時間に経過にそって)に書く。

④自分のしたことや見たこと、相手のことやまわりのようすなども、よく思い出して書く。

⑤ものの形や動き、色、大きさ、手ざわり、においなど、感覚をはたらかせてとらえたことも書く。

⑥自分が話したり、相手が話したりした言葉、会話は、「  。」を使って書く。

⑦考えたり思ったりしたことは、そのつど書く。その出来事をふり返って思ったことも書く。

⑧必要なところには、説明を入れて書く。

 

 けれども、新しく受け持った子どもたちに、これらのことをはじめに教えてから書かせたのでは、子どもにとってはすこしもおもしろくはないでしょう。

 はじめは、心に残ったことをえらんで、出来事のはじめから順に「よく思いだして書きましょう」という呼びかけぐらいにします。そして、子どもの作品の中に、こういう書き方をしているものが出て来たら、「○○さんは、したことの順によく思いだして書いている日記です」「話したこと、聞いたことをよく思いだして書いていますね」といって具体的に作品を取り上げて、「書き方のコツ」をみんなのものにしていくのが、「指導のコツ」の一つです。(つづく)

 

(注1)小林正幸「提言 災害に遭った子どもたちの心のケアにどう取り組むか」『教育展望 』(教育調査研究所編 2011.10)

(注2)『君ひとの子の師であれば』(国分一太郎著・新評論)の冒頭に書かれていることば。昨年、山形県東根市で、「国分一太郎生誕100年の集い」が開かれ、この言葉が刻まれた「教育碑」が建立される。

                                   (綴方理論研究会)

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つづる4 三 やさしいものからむずかしいものへ

2015-01-12 12:01:32 | Weblog

教育研究の窓

つづる4

《子どものうちに育てておきたい表現力》

三 やさしいものからむずかしいものへ

―「ある日型」から「いつも型」の作文へ―

 

                   日本語教育部会協力研究所員 田 中 定 幸

 

 

 

(一)「一斉指導」として取り組むときは?

 

 「つづる3」では、「ある日」の昼休みに竹馬で5歩あるけてうれしかったことを「時間の経過」にそって書いたみゆきさんの作文と、「いつも」乗っている竹馬のおもしろさを「まとめて説明風」に書いた彩乃さんの二つの作文のちがいについて考えました。そして、前者を「ある日型」、後者を「いつも型」の作文と名付けることにしました。

 

 ある研究会で、二つの作文を比較した話のあとに、「子どもが作文を書くときには、どちらの方がやさしいと思いますか。」という質問をしたことがあります。

 すると、若い先生が、「いつも型」の作文の方が、何度も竹馬にのって遊んでいて、よく知っている竹馬のことを書いたのだから、子どもにとってはやさしいのではないかと答えました。

 なるほど、そういう考え方もできます。子ども自らが、書きたいことを選んで、そのことを、書きたいように書くというのであったら、そのとおりかもしれません。題材がみつかれば、その時点で子どもの頭の中には、どう書くかという全体の構想も描くことができて、彩乃さんのように書ける場合もあるでしょう。

一年生であっても、お母さんのこと、自分のすきなもの、あるいは大切にしているものについて、書く機会があったら、このように「いつもあること」「よく知っていること」として、「いつも型」の作文として書くことがあります。

 また、とりあげた二つの作文も、「最近したことで、心に残っていることでもよいし、自分が今思っていること、考えていることでもよい。何でもよいから書きたいと思ったことを、一つえらんで、そのことを作文に書きましょう。」こういって書いてもらったものです。

 書きたい内容と意欲が題材を決定することであるから、どちらの方がやさしいとか、むずかしいとかは言えないのかもしれません。

 けれども、前にもふれたように文章表現指導のねらいには、次のことがふくまれるのです。

 

Ⅰ子どもたちの自然や社会への認識、人間についての理解をひろめふかめ、ただしくゆたかにする。

Ⅱ「はじめ」「なか」「おわり」のくみたて・構成をもつところのひとまとまりの質のよい文章をかく能力をのばすこと。

Ⅲみずからが文章をかくという言語活動のなかで、つまり言語の使用のなかで、日本語の発音・文字・単語・文法・語い・文体などについての自分の知識をたしかめ、とぎすますようにさせること。

Ⅳものごとをとらえ、また、とらえなおす過程と、それを文章に表現する過程とを、きちんとむすびつけたところで、子どもたちの認識諸能力(観察するちから、知覚し認知するちから、記憶し表象するちから、すじみちただしく思考するちから、ゆたかに想像するちからなど)をのばしていくこと。(注1)

 

「授業の原則」をふまえて、意図的・計画的に「書くこと」の指導を展開するときには、「ある日型」と「いつも型」、どちらを先に学習するのが子どもにとってはよいのでしょう。

 もう少し、二つの作文をもとに考えてみます。

 

(二)「くり返しのこと」「一回限りのこと」

 

 くり返すことにもなりますが、「いつも型」の作文を書いた彩乃さんは、「竹馬のこと」を題材にして、「竹馬に乗るようになったきっかけ」「うまくなってきた経過」「のりかた」「このごろのようす」「いつも思うこと」などを、頭の中に描いて、それを書いています。

 どのくらいの体験や竹馬についての考えを意識して書いているかはわかりませんが、「いつも竹馬にのっています。」と書いている彩乃さんには、この作文から想像できるだけでも、次のような体験や思いがあったに違いありません。

 ・今、竹馬にむちゅうになっていること。

 ・先生に竹馬をすすめられた日のこと。

 ・友だちと竹馬にのるようになった何日間かのこと。

 ・竹馬の乗り方を教えたときのこと。

 ・友だちに「いいね。うまくできて。」と、何度も言われたときのこと。

 ・さらに、教えたときのこと。

 ・教えた友だちの一人がうまくなったときのこと。友だちの竹馬の乗り方が気になったときのこと。

 ・うまく乗れる方法に気づいたときのこと。

・自分にあった竹馬のえらびかたについて考えたときのこと。

・「このごろ」の練習のこと。

・昼休みには、毎日、毎日竹馬をやろうと思っていること。

 彩乃さんは、このような体験をある時は小さな出来事として、ある時は時間の経過ではなくとぎれとぎれに起こったり、同時に進行したり、複雑にからみあったりしたなかで、何度も体験してきたのです。

こ うした「くりかえし体験したこと」「何度もあったこと」のなかからつかんだ竹馬への思いを、書いているのです。「よく知っていること」として書いているのです。ここに、この彩乃さんの「いつも型」の作文の大きな特徴があります。

 みゆきさんの「ある日型」の作文はどうでしょう。考えられることは、みゆきさんも、彩乃さんと同じように、毎日、竹馬をやっていたにちがいありません。「きのうのひる休みに、たけうまにのっていたら…」と、ごくしぜんに書いている書き出しからも推測ができます。挑戦したら5歩あるけたというところから、すでに何度か練習してこなければ、竹馬に乗ってこれだけは歩けないだろうとだれもが考えます。

しかし、彩乃さんとのちがいは、作文として取り上げたいことは、「きのうの昼休み」に、竹馬にのったときの出来事であり、そのときに思ったことを書きたかったということです。

 「きのう」の竹馬の体験を、その時だけの「一回限りの」こととしてとらえていることです。

 

(三)「ある日型」の作文の学習から

 

どちらの方が、子どもにとっては「やさしい」かと、問われた時には、「ある日型」の作文の方がやさしいと私はこたえます。

そして、先の四つの目標を掲げ、文章表現指導の系統を考えて、たしかで豊かな表現力を育てるために、「一斉授業」として指導をするとき、「ある日型」と「いつも型」のどちらを先にするかというと「ある日型」の指導を先にします。先にしなければいけないとも思うのです。

 

(1)題材のえらびやすさから

 その理由のひとつとしては、題材のえらびやすさが上げられます。「ある日型」の作文は、過去に見たり聞いたり、あるいは体験したりしたときのことで、心に残っている出来事をえらびだせばよいわけです。

 みゆきさんのように、何日もあるいは何回も竹馬で遊んだことがあっても、「きのうの昼休みに竹馬をしたこと」が心に残っているとすれば、それを「一回限りのこと」あるいは「一回性」のこととしとらえるのです。そのことを題材として書けばよいのです。

 そのとき、心がうごいたことを題材化して、あるいは主題として書けばよいことに子どもたちが気づきさえすれば、そうした過去の体験のなかから、幅広く題材をえらぶことができるのです。

 参考作品などを読んで、「ある日型」の作文の題材選びの観点がわかれば、これから起きる出来事のなかからも、題材を見つけることができるという利点もあるのです。

 よく知っている竹馬のことについて説明するように書く場合はどうでしょう。題材を見つけるということでは、「繰り返し経験していること」であり、比較的見つけやすいように思えます。題材を見つけて、書けそうな気がしてくると思います。

 けれども、その竹馬のことについて、何を書きたいのか。どう考え、感じているかを書くときには、多くの場合、概括的で具体性を欠いているために、はっきりさせることがなかなかむずかしいのです。竹馬に対する様々な経験を「分析」したり「整理」したりして、どう考えたり思ったりしているか、関係を明らかにできていなければ、「ひとまとまりの文章」として書くことはむずかしいことなのです。

「私は、毎日のように竹馬にのって遊んでいます。」と書いたあとに、次に何を書こうか迷ってしまう子が多くいます。こう書き出しても、書く対象の全体をとらえたり、分析をしたりまとめたりして、「何を」書きたいのかを明確にしなければ、「いつも型」の作文のタネにはならないのです。

 題材のえらびかたと言う点で、さらにはテーマをはっきりさせて書くということから、「ある日型」と「いつも型」では大きなちがいがあるのです。

 心がうごいた「ある日、ある時のこと」を題材にして書く「ある日型」の作文指導からという第一の理由は、ここの題材のえらびやすさ、題材化の視点にあるのです。

 

(2)構想の面からも

「きのうの昼休みに竹馬をしたときのこと」を、書こうとしたときには、昼休みのはじまりの場面を思い浮かべます。そして、竹馬をはじめたきっかけになるところを思い浮かべて、その場面から書き出していけばよいわけです。

 そして、したことをしたとおり、見たことを見たとおり、「時間の経過、事件の進行」にそって思いだします。かわした会話もできるだけそのとおりに思い出して、「時系列」で書いていけばよいわけです。

 そして、竹馬遊びが終わったところで、文章をおわりにすれば、「はじめ」「なか」おわり」の出来事がそのまま、「ひとまとまりの文章」の組み立てにもなってくるのです。

 それにたいして、「いつも型」の文章では、「わたしは、いつも竹馬にのっています。」と書いた後には、何を書くか、次に書くべきことを、これまでの体験をまとめたなかから、主題に合わせて、ことがらを選び出さなくてはなりません。

 すなわち、全体をとらえ書きたいことを明確にし、そのなかからことがらを選んで、論理的に、あるいは自分の「考え」にそって組み立てを考えなくてはなりません。これを意識して、文章を書くことは、なかなか難しいことなのです。

 それよりも先に、文章を書くためには構成(書く順序)が必要なこと。その構成の一つに「時間の経過にそって書く」というものがあること。この二つを、題材と結びつけて学ばせることができるのが「ある日型」を作文に書き、それを読み合う学習によって、文章表現の「構成」の基本を理解することができるのです。

 この「時系列」の構成で書く文章が理解できた時には、時間の経過にはならない書き方、「考え」の形で書く文章の構成の仕方も理解しやすくなるからです。

 

(3)記述の仕方の点からも

「ある日型」の文章では、時間の経過にそって、したことを思いうかべ、その行動にことばを一つひとつあてはめて「したことはしたとおり」書けばよいわけです。

「一回限り」の過去のこととして書くのですから、一つひとつの体験を思い出して、それにあわせて、「…した。」「…しました。」と過去形表現を使って書いていくのです。

 そして、その行動のあとに話しかけられたのであったら、《そしたら(そして)、あんなちゃんが「あおのとびばこからピンクのとびばこまできて。」といったから、わたしと平さんがいきました。」と、「そして」「それから」「すると」というような順接の接続詞を使ってつなぎながら、その時の会話も書いていけばいいのです。

 これは、時間の経過にそって、具体的なものやこと、すなわち一つひとつ事実とむすびつけて、それにことばをあてはめ、文字に「固着」させていくことになります。文字やことばの使い方にも慣れ、記述・叙述の仕方としては、もっとも基本となること身につけることができるのです。

「いつも型」の文章は、一文一文を、「わたしは、……です。」「このごろは、……です。」というように、これまでのいろいろな体験をまとめたり、やや抽象化したりしながら、経過やことがらをまとめて説明する記述の仕方を求められます。さらに、どのことを先に書くか、どのように書くか、「文」の書き方、「文」と「文」のつながりについてもよく考えて書かなければならないのです。

 ここのところが、書きなれていない子どもにとって、また、ものごとを関連させたりしながら総合的にみることがまだできない子どもにとっては、無理な作業になってしまうからです。

 

(4)書き加えや推敲の面からも

 さらに、文章を書いたあとに読み返すときにも、「ある日型」の作文は、主題につながる大切なことがらがおとさずに書かれているか、「時間の経過・事件の進行」を手がかりにして読み返していけばいいのです。

 書き足りなかったところはないかと、実際に自分が体験したことにそいながら読み返し、足りないところはそのつど、そこに書き加えればよいのです。

 それに対して「いつも型」の作文では、一文一文が連続しないで、並列的であったり、対立的であったりする場合があります。段落どうしの関係も同じことが言えます。また、書かれている文章もまとめて説明されたり、やや抽象化されたりして書かれています。

 ですから、読み返して、「何を」「どこに」「どう付け足したらよいのか」を考えるのがむずかしくなります。主題と関係させて、どのことを入れて、どのことをはぶいたらよいか、その判断がむずかしいのです。

 このように文章を書いたあとの、推敲をどうするかという点でも、むずかしさにちがいがあるのです。

 

(5)鑑賞するときにも

 書いた作品を鑑賞させること、交流することも、大切な学習活動として位置づけられています。この鑑賞のときにも、「ある日型」の作品の学習を先にするほうが、作品の読み方、交流のしかたについても、わかりやすく学ぶことができるのです。

「ある日型」の作文は、時間の経過にそって話が展開されます。そして、友達の名前があげられ、そのときの会話も多く書かれて、だれがどこでどんなことを言ったのか、書き手がそのときどう思ったかが具体的に書かれています。したがって、子どもたちにとっては理解がしやすく、感想や意見を述べやすくなります。

 また、事実、あるいは体験とむすびつけてくわしく書かれているので、その「書き方のよさ」も見つけることができます。具体的に書いてあるので、そのときのその場面に自分自身を重ねる事ができて、書き手のその時々の感覚のはたらかせかたのよさや、心のはたらかせかたのよさなど「対象へのかかわり方」「認識操作の方法」を学ぶこともできるのです。

 こうした力が育ってこないと、「いつも型」の文章のようにまとめて説明風に書かれていることがらに、具体的なことをあてはめて読むこともできないのです。

 また、「いつも型」の文章は、説明であったり抽象化されたかたちで書かれているので、書き手によりそったり、共感したりすることがむずかしく、作文のおもしろさを感じにくいところもあるからです。

「ある日型」から「いつも型」の指導へというのは、子どもの表現意欲を大切にし、「何」を「どんな組み立て」で「どう書く」き、「どう読み合う」かという文章表現過程の上からも考えた、「やさしいものからむずかしいものへ」という指導の段階なのです。

 

(四)子どもの成長・発達という面からも

 

 また、文章表現指導のねらいの〈Ⅰ〉としてあげている「子どもたちの自然や社会への認識、人間についての理解をひろめふかめ、ただしくゆたかにする。」ことのためにも、「ある日型」の文章から書き始めたほうがいいということはいうまでもありません。

 子どもたちに、具体的なもの、個別的なものから、やや抽象化されたもの、さらには本質的なものへと認識させるための第一段階が「ある日型」の文章を書くということなのです。部分的とも言える具体的な体験を、何回か繰り返すうちに、だんだんとその背景がみえてきたり、そのことのもつ本質をとらえたりすることができてくるのです。

 そうしたなかで、共通性や差異、関係などを学んで、指導要領でもいうところの「思考力」「判断力」なども養えるのです。事実を具体的にとらえていることは「活用力」を育てる力とにもなるのです。 

 これまで述べてきた文章表現の基礎・基本のとらえ方と今ここでもふれた、認識の発達という両面からも、「ある日型」の文章を「子どものうちに育てておきたい表現力」の第一段階として位置づけているのです。

 

(注1)国分一太郎『つづり方教育について』むぎ書房  1985年

                            (綴方理論研究会)

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