山田ときさんを偲ぶー4
ー 子どもと生きようとして ー①
五十人の子どもと共に生きなければならない私は、「子どもと共に生きる教師は、まず子どもたちの心になりきって、いっしょに遊ぶこと」と学校で習ってきた良き教師の第一課を、 忠実におこなおうと努めたのだった。
遊び時間には、きっと運動場に出て、縄とび、鬼ごっこ、ボール投げなどのなかまにはいった。子どもたちは私の参加を待っていながら、一年生のように玄関に迎えにきたり、手にぶらさがったりせず、私の方からいくまでは、何の気がかりもないふうにして遊んでいた。だが、私があるグループに参加すると、そのグループは非常に喜び、やんやんはしゃいだ。私が縄にひっかかったりすると、「先生、あー」と、みんなでわいわいいった。他のグループが、 自分たちの縄とびをやめて、うらやましそうに私のはいったグループのまわりに集ってきた。
村の子どもたちは、先生に近づきたいけれども、こんなふうに遠慮がちなのだ。こんなところにも、ひくつ性というか、消極性というか、自分の意志を卒直に表現しようとしない日本農民のつつましい姿が見られるような気がした。こうして意識的に、子どもたちに近づこうと努力はしたが、なんだかぴったりしない空虚感はどうすることもできなかった。それが 気がかりでならないのだった。
日はたち、農繁期が近づいていてくると、子どもたちは、つづりかたに、「そろそろし(・)ろか(・・)き(・)が 始まるのでいそがしくなる」と書くのだったが、私はなんのことかわからなかった。ヒデヨ に「しろかきってなんですか」ときいて、傍にいたマサエやセイなどに、「ああ、先生のくせに、しろかきも知らないのだもなえ」と笑われた。
「だって、先生の家、百姓でないもの、知らないんだよ」などと、弁解がましいことばと笑 いでごまかし、職員室に帰ってきては、村出身の農業の先生、植村さんにきき、生れてはじ めて、しろかきを覚えたりするのだった。ほとんどが百姓の子であり、それに私の生れ故郷 とは、かなり離れた子どもたちの使うことばにたびたびつまずくので、そのたびごとに、先 生たちにききにいった。
「今日早引させてください」「あした休ませてください」と、ことわりにくるその子たちに、 親、兄弟のことなど、いろいろきいたりしたが、子どもには直接きかれない家庭環境の実態 については、植村先生はじめ、村出身の先生方にいちいちききただした。みんな親切に教え てくださつた。
ある日、植村先生に、なにかききにいった時、「相沢先生、若い先生はそうでなくてはだめだ。こんな村の子どもたちを教える教師が、いい年して、ごぼうの白あえみたいにあちこちぶちらかして、おしろいなどばかりつけてくるようでは、ほんとの村の教育はできないよ」 といわれた。私が赴任した時、机の引出し整理をしていた退職した校長が、「相沢先生、若いけどおしろいつけてないな。村の教師はそうでなくてはだめだ。その気持でがんばってください」とほめられて、ポーッと赤くなったことを思いだした。植村先生はなお話を続けられ、「だからよ、相沢先生、子どもらのことを知るには、ときどき綴方でも書かせるといいのよ。 あら、国分先生が一生懸命書かせているでしよう。ああいうふうによ。すると家のことなどみなわかってくるよ。国分先生に教えてもらいなさい。親切に教えてくれますよ。それから 先生だちなの、日曜といっても大した仕事はないでしようから、かまわず『おおなにしったえ、ヒデコ』という調子で家庭訪問でもするといいのよ」と教えてくださった。そのころ植村先生の長男は、すでに小学校の一年生だったと思う。私はこのことばを村人として、子を持つ親の願いとして、かみしめてみた。「ここだ!子どもたちの生きている土地を忘れ、その親たちのわが子に対する願いを忘れている教師はだめだ」と思った。
実際そのころは、集金などといえば、一学期に一回、紙代として三銭か五銭ぐらい集める だけのことで、今のような、わずらわしいいわゆる雑務と称するものはなかった。日曜はのんびりした休日だった。2時間もぶっとおし、好きなレコードを鑑賞したり、たまには、画 帳なんか持ち出して、へたな写生などをして楽しんでいられた。
そんなわけで、私はそれからときどき綴方を書かせた。すると、なかには、時間いっぱい、 熱心に鉛筆を走らせている子どももいるが、4、5行書いただけで、十分もたたないうちに 終わってしまう子もいた。「先生書いたはあ」と時間をあまして退屈がつている子がいっぱいあった。
「いっぱい書くことだよ」といっても、「書くことないもは」と、錯筆けずりなどで時間をつぶしているのだった。いつでも子守のことしか書けない子、句読点もカギもなく、れ(・)だかわ(・)だか、い(・)だか、り(・)だか、てんで読みくだせないようにべたべたと紙一面に書きなぐる子どもたちばかりで、前以上のなやみにぶつかった。私はとまどいした。
師範時代に、すべての教科について、こまごまと教授法を教えられ、いちいちノートをとってきたが、綴方なんていうものについては、なにひとつ教えられなかった。ためしに、教授法のノートを開いてみても、やっぱり綴方などの字さえ見つけられなかった。そこで、五年男組担任だった国分一太郎先生から綴方教育いろはのいから教えていただいた。職員室でちょうど向い側の席だった国分先生に、ひと目にはうるさいほど、一から十まで、いちいちききにいった。国分先生は、いつも、「子どもの幸福のために」と、幼稚園の子どもに教えるように、 かみくだいて、ほんものの教育のありかたを教えてくださった。情味のある理解深い校長先生は、いつも、「いっしようけんめいやれよ。わからないことは、なんでも国分君にどんどんきくことだね」と、励ましてくださった。国分先生は、いつも、「毎日毎日の記録をつけなさい。平野婦美子(『女教師の記録』昭和15年の著者)さんなどは、じつにこまかく書いていますよ」と、ノートをもつことをすすめてくださった。
山田とき著『路ひとすじ』(東洋書簡)P11~P15より