「いなかのうまいもの」
「国分一太郎生誕100年の集い」が、今年の夏、7月23日(土)~24日(日)に、山形県の東根で開かれることは、このブログでもご紹介しました。
その折り、是非訪れていただきたいのが、国分一太郎が若い頃、年に5,6回は通った「あらきそば」。
『いなかのうまいもの』(1980年・国分一太郎著・晶文社)に、つぎのような文章があります。(P203~207)
蕎麦切
奥羽線楯岡駅から西へ最上川をわたってすこし行く大久保の「そばきり」の名人芦野勘三郎じいさん、あとつぎの又三・熊子夫妻と親しくしてもらっている。「そば」を食べにはじめてよって以来二十年のつきあいである。それに昭和五年はじめて教師になり、心のあう同僚であったから、その後つきあいを断たない東海林隆君が、又三氏農業学校時代の教師だったというので、いまは自動車学校の校長をしている同君といっしょに、年に、五、六回はかならずそこを訪ねていく。
あまり行かないと又三氏の方から、病気ではないかとのハガキがくる。ワラ屋根の入り口をはいったすぐのところのいろりに炭火が赤くおきている。そこにすわった勘三郎じいさんが、私のあいさつする頭を、「お前のあたま、カッパのようにまんなかだけがはげたなあ」とこのごろいう。自分はつるりとはげて、おまけにこのごろその中身も弱ったようすなのが残念だ。
ここに来て、私がまなぶのは、あとつぎの又三氏の守旧のこころである。又三氏はおごらない。ここの「そば」がどんなに有名になっても、家を店風につくりかえたりは決してしない。百姓家の格子障子のある普通の座敷で、昔風の「板そば」だけをくわせる。このならわしをそのまま守っている。いつ行っても座敷が改造されたりはしていない。外便所だけがきれいにできている。その便所を私はほめる。それといっしょに、そばのなかみが、おじいさん以来の秘訣のままなのを私はよりいっそうほめる。
それ以上に、私は、そばをゆであげるかまの、その下のかまどの、「おがくずがま」であることをほめる。朝早く起きて、まずやることが、そのかまどにおがくずをつめて、どんどんつきかためることだと熊子さんがいう。そのつきかために使う、昔の餅つききねが、だんだんやせ細っていくのを、この家に行くたびに、私は見せてもらう。そしてガスも石油も電気もつかわずにゆであげた「そば」のうまさを、いまさらのように味わう。
こう有名になると、「なかみ」はともあれ、「つゆ」がまずいというひとがあるかもしれない。それを心配して、東京にいる私は、そばのことについて書いた本が出ると、すぐ購って又三氏に送ってやる。それを又三氏が参考にしているかどうかは知らない。が、あの「あらきそば」の「そばつゆ」が日本のどこの「そばつゆ」よりおとっているとはけっして思えない。ほれあった同士のほめすぎであるのだろうか。(一九七四年)
*
この小文をかいてしばらくたったあと、当の「あらきそば」を訪ねたら、勘三郎じいさんはなくなっていた。昭和四九年五月二十九日とのことである。おどろいて仏さまをおがましてもらい。位牌を見れば、そこに「蕎月軒勘光道忍居士」と記されてある。村のお寺の住職で、前に村山市市長もなさった伊藤好道氏が、つぎの白居易の詩からとって贈られたという。
村夜
霜草蒼蒼 蟲切切
村南村北 行人絶
独出門前 望野田
日明蕎麦 花如雪
岩波書店の『中国詩人選集』のその部分をひらいてくれた息子又三さんと、この詩の美しさとしずけさをおもいながら、哀悼の意を表した。
かつて佐藤垢石氏に、「そばきりの名人」として絶賛されたこのひとも、とうとうなくなってしまったのである。しかしこの法号も、そのもとになったという白居易の詩も、あのじいさん、この藁屋根の家、周囲の自然風景に、なんとふさわしくできていることか。
やがて息子又三さんは、あらためて、いずまいをなおすようにし、そばに寄りそってすわった熊子夫人とこもごもに、いつもの静かな口調で話しはじめた。
「先生に、おわびをしなければならないこと、あるのよっす」
おどおどするおももちでかたることは、つぎのようであった。
せっかく書いてくださったけれども、あれはつづけられなくなった。ちかごろオガ屑を買いいれることがむずかしくなり、そばをゆでる湯をわかすかまどに、それをもちいることができなくなった。わたくしたちも残念なんだけれども、どうしようもない。
「先生、どうか、ゆるしてけらっしゃい。そのかわり、プロパンガスの火のもやしかたに注意して、いままでと、けっして変わらない、そばのゆでかたをするつもりだからっす」
外材などの輸入で、オガ屑のでる製材所が、だんだんすくなくなっていたのに、こんどは、そのオガ屑を、なにかのキノコ栽培のために、遠い他県から買い集めにくるものがいて、ついに入手できなくなったのだという。
又三さん夫婦はそのオガ屑がまをほめたわたくしに、おわびをせずにはいられないのだという。ほんとにもったいないことである。
わたくしは、おふたりの純粋きわまりない心根に感動し、
「いいえ、いいえ」
というよりほかはなかった。
それから、いつものミガキニシンの味噌煮で、お酒をごちそうになり、前とかわらぬ歯ごたえと味わいの「そばきり」に腹をふくらませて、日ぐれ近くに、その家を辞した。
帰途も、白居易のあの詩と、法号とを口につぶやかずにはいられなかった。(一九八0年)
「あらきそば」へ行く前に、『あらきそばの神髄』―超極太粉打ちの秘伝を探るー(里見真三 文藝春秋 2001年)を読んでいくこともお薦めします。
「あらきそば」
山形県村山市大久保 甲65
電話 0237-54-2248
営業 11時~18時
「国分一太郎生誕100年の集い」が、今年の夏、7月23日(土)~24日(日)に、山形県の東根で開かれることは、このブログでもご紹介しました。
その折り、是非訪れていただきたいのが、国分一太郎が若い頃、年に5,6回は通った「あらきそば」。
『いなかのうまいもの』(1980年・国分一太郎著・晶文社)に、つぎのような文章があります。(P203~207)
蕎麦切
奥羽線楯岡駅から西へ最上川をわたってすこし行く大久保の「そばきり」の名人芦野勘三郎じいさん、あとつぎの又三・熊子夫妻と親しくしてもらっている。「そば」を食べにはじめてよって以来二十年のつきあいである。それに昭和五年はじめて教師になり、心のあう同僚であったから、その後つきあいを断たない東海林隆君が、又三氏農業学校時代の教師だったというので、いまは自動車学校の校長をしている同君といっしょに、年に、五、六回はかならずそこを訪ねていく。
あまり行かないと又三氏の方から、病気ではないかとのハガキがくる。ワラ屋根の入り口をはいったすぐのところのいろりに炭火が赤くおきている。そこにすわった勘三郎じいさんが、私のあいさつする頭を、「お前のあたま、カッパのようにまんなかだけがはげたなあ」とこのごろいう。自分はつるりとはげて、おまけにこのごろその中身も弱ったようすなのが残念だ。
ここに来て、私がまなぶのは、あとつぎの又三氏の守旧のこころである。又三氏はおごらない。ここの「そば」がどんなに有名になっても、家を店風につくりかえたりは決してしない。百姓家の格子障子のある普通の座敷で、昔風の「板そば」だけをくわせる。このならわしをそのまま守っている。いつ行っても座敷が改造されたりはしていない。外便所だけがきれいにできている。その便所を私はほめる。それといっしょに、そばのなかみが、おじいさん以来の秘訣のままなのを私はよりいっそうほめる。
それ以上に、私は、そばをゆであげるかまの、その下のかまどの、「おがくずがま」であることをほめる。朝早く起きて、まずやることが、そのかまどにおがくずをつめて、どんどんつきかためることだと熊子さんがいう。そのつきかために使う、昔の餅つききねが、だんだんやせ細っていくのを、この家に行くたびに、私は見せてもらう。そしてガスも石油も電気もつかわずにゆであげた「そば」のうまさを、いまさらのように味わう。
こう有名になると、「なかみ」はともあれ、「つゆ」がまずいというひとがあるかもしれない。それを心配して、東京にいる私は、そばのことについて書いた本が出ると、すぐ購って又三氏に送ってやる。それを又三氏が参考にしているかどうかは知らない。が、あの「あらきそば」の「そばつゆ」が日本のどこの「そばつゆ」よりおとっているとはけっして思えない。ほれあった同士のほめすぎであるのだろうか。(一九七四年)
*
この小文をかいてしばらくたったあと、当の「あらきそば」を訪ねたら、勘三郎じいさんはなくなっていた。昭和四九年五月二十九日とのことである。おどろいて仏さまをおがましてもらい。位牌を見れば、そこに「蕎月軒勘光道忍居士」と記されてある。村のお寺の住職で、前に村山市市長もなさった伊藤好道氏が、つぎの白居易の詩からとって贈られたという。
村夜
霜草蒼蒼 蟲切切
村南村北 行人絶
独出門前 望野田
日明蕎麦 花如雪
岩波書店の『中国詩人選集』のその部分をひらいてくれた息子又三さんと、この詩の美しさとしずけさをおもいながら、哀悼の意を表した。
かつて佐藤垢石氏に、「そばきりの名人」として絶賛されたこのひとも、とうとうなくなってしまったのである。しかしこの法号も、そのもとになったという白居易の詩も、あのじいさん、この藁屋根の家、周囲の自然風景に、なんとふさわしくできていることか。
やがて息子又三さんは、あらためて、いずまいをなおすようにし、そばに寄りそってすわった熊子夫人とこもごもに、いつもの静かな口調で話しはじめた。
「先生に、おわびをしなければならないこと、あるのよっす」
おどおどするおももちでかたることは、つぎのようであった。
せっかく書いてくださったけれども、あれはつづけられなくなった。ちかごろオガ屑を買いいれることがむずかしくなり、そばをゆでる湯をわかすかまどに、それをもちいることができなくなった。わたくしたちも残念なんだけれども、どうしようもない。
「先生、どうか、ゆるしてけらっしゃい。そのかわり、プロパンガスの火のもやしかたに注意して、いままでと、けっして変わらない、そばのゆでかたをするつもりだからっす」
外材などの輸入で、オガ屑のでる製材所が、だんだんすくなくなっていたのに、こんどは、そのオガ屑を、なにかのキノコ栽培のために、遠い他県から買い集めにくるものがいて、ついに入手できなくなったのだという。
又三さん夫婦はそのオガ屑がまをほめたわたくしに、おわびをせずにはいられないのだという。ほんとにもったいないことである。
わたくしは、おふたりの純粋きわまりない心根に感動し、
「いいえ、いいえ」
というよりほかはなかった。
それから、いつものミガキニシンの味噌煮で、お酒をごちそうになり、前とかわらぬ歯ごたえと味わいの「そばきり」に腹をふくらませて、日ぐれ近くに、その家を辞した。
帰途も、白居易のあの詩と、法号とを口につぶやかずにはいられなかった。(一九八0年)
「あらきそば」へ行く前に、『あらきそばの神髄』―超極太粉打ちの秘伝を探るー(里見真三 文藝春秋 2001年)を読んでいくこともお薦めします。
「あらきそば」
山形県村山市大久保 甲65
電話 0237-54-2248
営業 11時~18時