教師の技術
『教師』―その仕事―の「Ⅵ 教師の技術」のなかで、「魂の技師」である、ととらえる国分一太郎は、教師の持つべき視点として第一に「経験と知識」の問題を取り上げている。現場の実践例から学ぶとして具体例を示した後で、次のように書いている。(P171~174までの一部を引用)
二、三の例だけあげましたが、教師たちが、「経験と知識」ということで考えなければならないことは、このようなせまい範囲のことだけではありません。
経験だけに頼ってもならないし、知識だけにたよってもならない、いつも両方を大切にしてやらなければならない……このことは、じつは次のことを意味するのです。人間の精神を形成する方法には、
○生活経験にしたがって具体的な事物・事実から学ばせる方法と、すでに、よくできている文化・理論・知識から学ばせる 方法とがある。それをいつも結合させる方法がある。
○直接経験によって学ばせる方法と、間接的経験によって学ばせる方法がある。
○生活そのもののなかで学んだことを大事にする方法と、本から学んだことを大事にする方法がある。
だから、状況に応じて、この二つの方法のうちどちらかひとつを、特に大事にすることはいいが、いつも、この両方を駆使しているのだ、これを、つねに統一しようとしているのだとの自覚を失わない必要があります。
また、その後には、「子どもは事物から学ぶことの名人です」と述べたあとで、
しかし、教師たちは、このことだけに望みをかけていてはなりません。教師は、わずか十年ぐらいの間に、かつての人類、いまの人類がきずきあげてきた知識や文化の基礎を、もっとも的確に教えなければならない人たちだからです。それで、教師は、有用な知識を、子どもたち、これをもっとも受け入れやすい状態のとき……すなわちさまざまな事物をよくつかんで、そこから何か理論めいたものをつくりだしかかっているとき……に上手に与えてやらなくてはなりません。あるいはまた、せまくるしいところで、グルグルまわりをしているときに、その視野をひろげてやるために、間接的な経験を、その間に投じてやらなければなりません。教師が別な事実を出してやってもよいし、知識を出してもいいし、本を読んでやってもいいのです。
たしかな事実から、たしかな知識をつくり出させてやる、そして、そのつくりだした知識ないし理論は、じつは、すでにつくり出された、こういう知識ないし理論と同じものであるということを、あざやかに示してやることのできる教師は、ほんとうにすぐれた教師です。(以下略)
――なるほど、なるほど。