走馬観花~我還在北京

只今北京留学中。ってまだ北京におったんかいな!?
気が向いたら過去の分も差し込んでます(笑)

行き当たりばったり山西珍道中(6)~代県 その1

2006年09月30日 | 出去郊区&旅行
じつは渾源での夜に次の行き先について、北上して大同に行くか、応県→代県に行くかで相談し、結局わたしが行ったことがない後者のルートになったわけですが(N嬢は山西オタクなので何度も来てる)、行く方法をまったく考えてませんでした。中国は田舎になるとバスのほうが便利、というわけで応県から代県にいく長途バスを探したのですが直接行くのはなく、まず大同-太原を結ぶ主要道路にある山陰というところまで行き、代県行きのバスに拾ってもらいました。ただ、席はいっぱいで長時間立ちっぱなし。N嬢がキレキレに。
やっと代県に着くと、代県のシンボル辺靖楼(鼓楼)が我々を出迎えてくれました。これは明代創建の威風堂々とした木造建築で、「声聞四達」や「威震三関」などの大きな額が掛かっています。基礎部分は現在修築中でした。
          
我々ほうほうの体でタクシーを捕まえ、「ここで一番いいホテルに行ってくれ!」と豪語。というのも、代県ほどのレベルになると一番いいホテルでも2星,3星どまりで、そんなに高くないんです(笑)。ホテルをゲットして休憩した後、もうひとつの見どころ文廟へ。
代県の文廟はどうも最近修築したようで、わりときれいになってましたが、古い建築物はそのまま。ここにはたくさんの石碑が保存されております(野ざらしだけど)。ちょうど文廟では孔子の生誕2557周年のお祝い中(笑)。なかでは晋劇?が催されており(楊家将演義か?)、たくさんの人でにぎわってました。
               
我々の目的は大成殿の隣の歴史文化陳列室にある李克用(856~908)の墓誌。が、行ってみると現在では墓誌は置かれておらず、墓誌蓋のみガラスケースに入れられていました。また李克用墓専門の展示スペースもあり、発掘時のパネルや墓室から出土した十二生肖(でも文官のカッコしてた)の彫刻が展示してありました。

行き当たりばったり山西珍道中(5)~応県 木塔

2006年09月29日 | 出去郊区&旅行
午前で渾源を見終わってしまった我々は、チャーターしていたタクシーでそのままばび~んと応県へ行ってしまいました。
午後3時には応県唯一の目玉観光地、木塔(仏宮寺釈迦塔)に到着してしまいました。わたしが「いざ登らん木塔~!」と意気込んでいると、N嬢ってばすでに自分の見たいものを見てしまったため、モチベーション急降下。「一人で行ってきてよ」なんて言いやがるのをなだめすかして塔に登らせました。
木塔は遼代創建の総木造建築の塔で、塔身は直径約30m、全長約67mと、木造建築にしてはめちゃめちゃでかい!ただ、歴代の修築を経ているとはいえ、ゆがみがかなりわかりました。塔の中は暗く、階段も斜めになっていて(踏み抜きそうな部分もあった…)、登り降りはちょっと怖かったです。
塔の上から周囲を鳥瞰すると、まだ昔の城壁がところどころに残っているのがわかりました。我々は塔から降りたのち、輪タクを捕まえて城壁を見にいきました。
応県は現在、木塔を中心に観光地開発を推進中のようで、塔の周囲では新しい建物を建ててている最中でした。ヘンな観光地にならないことを切に祈る…

行き当たりばったり山西珍道中(4)~渾源県 その2

2006年09月29日 | 出去郊区&旅行
永安寺の参観を終えた後、N嬢の思いつきにより旧城内の遺物探しを開始。運ちゃんが地元の方だったのでいろいろ教えてもらいました。が、現在は廟や県衙、牌楼や城壁などの古い建物の多くはすでに壊されてしまっており、仕方がないので場所だけ確認しました。それから塗装工場の敷地にある城関関帝廟へ連れて行ってもらいました。修復されてけっこうぴかぴかでしたが、廟自体は明末からあるようです。
                    
その後、運ちゃんの薦めで栗毓美墓を見学。ここも修復中でした。この栗毓美さん(男性です)は清嘉慶20年(1815)の挙人で、道光年間に河東河道総督となり、治水に功績があり、渾源で殉職した方だそうです。いわゆる地域の功労者といったとこでしょうか。道光帝の詔勅によってこの墓は建てられたようです。運ちゃんによれば、渾源では清代に大洪水があって明以前の城市は流されてしまったとのこと。
ラストには懸空寺へ。渾源を有名にしているのがこの寺ですが、一般に、観光で来る場合は大同観光のオプションとなって、大同に集客されてしまうため、渾源は観光地の割には街がさびれてしまっているように思います。
当初、渾源では2泊する予定だったのですが、あっ!というまに見終わってしまったため(笑)、我々は急遽宿を引き払って応県へ行くことにしました。

行き当たりばったり山西珍道中(3)~渾源県 その1

2006年09月29日 | 出去郊区&旅行
渾源でもタクシーを一日チャーターして朝から文物めぐり。ここでのお目当ては円覚寺で、遼代の塔があるんです。N嬢はこの塔のレリーフにある動物闘争紋が見たかったのだとか。
円覚寺は旧渾源城内にあり、胡同ちっくな町並みのなかにありました。
          
またそのすぐ近くには永安寺という元代の壁画で有名なお寺もあり、ついでに参観。壁画のある本殿の建物も元代のもので、ごっつい斗拱が特徴的でした。

行き当たりばったり山西珍道中(2)~霊丘県曲回寺

2006年09月28日 | 出去郊区&旅行
本日の目的地は唐代の仏像塚があるという曲回寺。しかし霊丘市街(武霊鎮)からはめちゃ遠く、もうすぐ繁峙県、というところにあるため、今回は普通のタクシーをチャーター。国道108号を唐河沿いにずい~っと行ってもらいました。
乗ること1時間半、やっと曲回寺に着きました、が、建物がな~い!まるで廃墟の様子にあんぐりしていると、タクシーの運ちゃんが管理人を連れてきてくれました(運ちゃんエライ!)。管理人さんは親切にも屋内に保存してある唐代の仏像を見せてくれました。この寺の周囲には穴(塚?)があり、そこから唐代の仏像が出土するとのこと。
                   
ただ、ここにちゃんと保存してあるのは完全体の仏像のみで、屋外には首がないものや下半身だけのものがフツーに転がってました。これらも唐代のものなのに…。その他石碑も一ヶ所に置いて…というよりは放置されてました。文字が読めるのは明清代のものでしたが、他にも古そうなもの(文字が摩滅して読めず)も無造作に置かれてました。うーむ。
よくよく境内を見回してみると、霊丘県曲回寺文物管理所の看板があり、管理所があったようです。さらに見ると、焼けた柱がたくさん置いてありました。どうやらこの寺、最近火災で焼けちゃった模様。それで本殿がなかったんですね…(汗)
その後、我々は霊丘市街に戻り、大同行きの長途バスに乗り込み、恒山を越えて渾源県へ。バス乗り場は戦国超の武霊王陵の真ん前にありました。ちなみに「霊丘」の地名の由来は「武王の墳がある土地」だと聞いたことがあるのですがホントですかね?

行き当たりばったり山西珍道中(1)~霊丘県覚山寺

2006年09月27日 | 出去郊区&旅行
帰国したはずのN嬢が戻ってきました。なんでも彼女の指導教官が内モンゴルに調査に行くのでそのお供にきたそうな。その調査終了後、彼女は北京に残り、わたしと山西旅行に出ることとなりました。
彼女は霊丘と渾源に見たい文物があるというので、まずは霊丘に向かいました。ただ、霊丘はそんなに大きな都市ではないのでマットウな時間に到着するのは朝6時半出発の慢車しかありませんでした(もちろん硬座)。
午後1時半に霊丘駅到着後、バスで霊丘市内へ。ホテルを確保し休憩したあと、三輪タクシーをチャーターして覚山寺へ行きました。
この寺は北魏太和7年(483)に建立されたもので、太白維山の山中に位置します。境内には霊丘県文物管理所があり、このへんで出土した石碑を保管してありました。その中で一番有名なのは北魏和平2年(461)の「皇帝南巡之頌」碑でしょう。
          
また、寺の向かって左にそびえる北魏の太和7年(483)創建、遼の大安6年(1090)重建の「白塔」も有名。基礎部分のレリーフは破壊にあってはいますが、人物や動物の像には躍動感があり、とてもすばらしいものでした。