走馬観花~我還在北京

只今北京留学中。ってまだ北京におったんかいな!?
気が向いたら過去の分も差し込んでます(笑)

国境の旅~満洲里2

2008年07月04日 | 出去郊区&旅行
翌日は朝からタクシーを一日チャーターして観光。まずは3,4世紀くらい?の鮮卑族の古墓があるジャライノールへ。途中、タクの運ちゃんが露天掘りの炭坑に案内してくれました。ついてみるとクレーターのような巨大な穴がぽっかり地面に空いていてびっくり。何年もかけて少しずつ堀りすすんでこのようになったんだそうですが、露天掘りって社会の教科書で習ったことはあったけど、こんな状態だとは思いもせず。日本では拝めない貴重な光景でした。
                 
そのあと目的の鮮卑族の古墓をやっと探し当て(途中道に迷った)、やったーとみんなで展示館に行ったところ、すでに廃墟状態。結局誰もおらず鍵がかかっており見られず(泣)しょうがないので周囲の地形だけを確認して満洲里にもどり、郊外のダライノールへ。
大きな湖の砂浜をてくてくみんなで歩いていると、でっかい貝殻を発見。この湖って淡水なんですが、こんなにでかい貝が生息しているとわ。
         
我々、ダライノールはさくっと見終わり、その周辺に広がる草原でちょっと遊びました。一面草原ってとてもすがすがしい。以前ハミやトゥルファンで見たような一面砂漠の風景とは違う趣があってよかったです。(※写真は「草原を前にちょっと大志を抱いてみた」の様子)
                 
このあと我々、満洲里の鉄道駅の目の前にある博物館にいき、この地の歴史なんかを確認した後、夜の列車にそなえて腹ごしらえ。この地域限定?のロシアンな感じのビールをぷはーっとやって満洲里での最後の時間を楽しみました。

国境の旅~満洲里1

2008年07月03日 | 出去郊区&旅行
無事卒業できたので、ここぞとばかりに後輩とそのお友達といっしょに「国境を見ようの旅」へ出発。まずは飛行機でばびゅーんと満洲里へ飛びました。ここは内蒙古自治区になるのですが、モンゴル人民共和国・ロシアと隣接する場所です。今回はロシアとの国境を見ることに。
中国とロシアは鉄道でつながっているのですが、この場所は「大国門」というゲートが設けられております。観光地になっていて、門の上からロシア領を眺めることができたはずなんですが、我々が行ったときは改修中で上れず(泣)思わず敷地内にあった土産屋のマトリョーシカに八つ当たり(この土産屋には旧ソ連時代の物品が売られておりました)。そういえば大国門の近くに怪しげなマトリョーシカ公園があり、巨大なマトリョーシカがそそり立っておりました…(汗)
                  
満洲里は対ロシア貿易と近年景気の良いロシア人向けの観光を主要産業とする街で、ここの建物はみなちょっとヘンなロシア風。お店にもロシア語の看板がめだちます。街なかではたしかに大量の衣料品を買い込んだロシア人の観光客をたくさんみかけました。中国はロシアよりも物価が安いので、ここで大量に買い込むらしい。
             
観光資源としては、草原とダライノールという大きな湖があります。ダライノールは中国国内でも屈指の大湖で、向こう岸が見えず(平野の草原だから山がない)、飛行機の上からもよく見えました。

禁断症状の大同・張家口旅行 ⑥~宣化下八里村、遼墓

2008年06月18日 | 出去郊区&旅行
宣化城外の下八里村には遼代の墓群があるというので、我々タクシーでばびゅーんと行ってきました。最初に着いたのはただ今整備中の墳墓。誰もいなかったので垣根を乗り越えて無断侵入しちゃいました(笑)
               
敷地内には6つほどの土盛りの墳墓があり、燕山山脈を背にして並んでました。北方遊牧民族のお墓では、このように大きな山を背にして造営されることが多々あります。でも看板もなにもないので、このお墓が遼代のものなのかイマイチわからず。それからおそらく近辺に建てられていたとみられる碑や石鼓が敷地内の一角にごろごろ集められておりました。碑はだいたい明清時代のものでした。
         
聞いていた遼墓とは何となく違ったのでおかしいなあと思っていたところ、タクの運ちゃんが機転を利かし、村の人に聞いてきてくれて、ホントの目的地の遼墓に連れて行ってくれました。しかし運ちゃん早く気付いてくれよ。。。
ここの遼墓群は契丹統治下の漢人張さん一族のもので、全部で13基ほどあり、二つの墓の中が参観可能。お墓の中は残念ながら撮影禁止で写真がないのですが、みごとな壁画が残っておりました。一つのお墓の天井には、西洋のあの12星座の絵が描かれていて、発掘されたとき考古学者をたいそう驚かせたそうな。つまり11、12世紀頃にはすでに中国の東北部にまでこのような西洋の文化が伝播してきてたってことですな。おおすげー!
                
我々、遼墓を非常に楽しく参観したのち(墓をみて楽しめるのもどうかと思う・・・)、宣化城内に戻り、そのあとバスで北京への帰途に着いたのでありました。

禁断症状の大同・張家口旅行 ⑤~宣化城内

2008年06月18日 | 出去郊区&旅行
つぎの朝長距離バスで南下して宣化へ。宣化は張家口-北京をつなぐ幹線道路の途中にあり、宣化よりさらに南に行けば、あの鶏鳴駅・土木堡があるのです。
             
宣化には鎮朔楼(鼓楼)・清遠楼(鐘楼)・南大門が保存されており、上部の楼閣は最近修築されたものでしたが、基礎部分は古い感じでした。ちなみに鎮朔楼はもと明の正統年間(1436~1449年)に、清遠楼は明の成化18年(1482年)に建造されたそうです。
          
宣化も例に漏れず城郭都市で、城壁はわりと残っていました。写真は北側の城壁。東側でも確認。また城内にはもともと武廟や文廟、財神廟など廟がたくさんあったらしいのですが、現在は地名が残るのみであらかた壊されたとのこと(武廟は中学校の中にありました)。このへんは北京に近いためか文革の影響が強かったみたいです。。。

禁断症状の大同・張家口旅行 ④~張家口、大境門

2008年06月17日 | 出去郊区&旅行
張北から南下してまたしても張家口へ戻ってきました。この街の北側は明代の長城に隣接する辺境都市で、内モンゴル・山西・北京を繋ぐ交通の要衝でもあります。つまり我々は大同から東に向かってここに着き、ここから北に向かって張北へ行き、張北から南下してまたここに戻ってきたわけです。
              
この街の北側、つまり長城に隣接するところに、北へ行く道の門(関門)があります。その名を「大境門」といい、明代では中国と異民族(遊牧民族)の境界をなす門で、ここから北は異民族の世界となります。大境門はもと明の成化21年(1485年)に建造され、以後修築されてきました。交通の要衝だけに、前の戦争では日本軍がここを侵略し、後に人民解放軍に追い出されております。
門票10元で上に上れるようになっていたので、我々がんばって上ってみましたが、次の日お約束通りに筋肉痛。。。

禁断症状の大同・張家口旅行③~張北、元中都遺跡

2008年06月17日 | 出去郊区&旅行
つぎの朝列車で張家口へ移動し、そのまま長距離バスで張北へ。目的地はモンゴル元朝の四都のひとつ中都の遺跡。しかし着いた駅でタクシーの運ちゃんが我々をめぐって大争い。どうしようもない状態になったところで長距離バス駅の駅員さんが助け船を出してくれたのでなんとか収束。性格の穏やかそうな運ちゃんを選んでくれてやっとこさ出発。やれやれ。わたしなんかはこういう情況に結構慣れているのですが、中国で旅慣れてない韓国人の友人はドン引き(笑)バスはないのか探し始める始末。
               
今の時期、長城の北側は青々とした草原が広がっておりました。そこに羊や馬や牛が放牧されていてとっても牧歌的。そこへ看板が見えてきて、じゃじゃ~んと着きました中都遺跡。と、言ってもただ城壁が残ってるだけなんですけども(笑)この中都は1307~1310年に建造され、内、中、外の三重構造となっており周囲2360mあるそうです。見た目ではわからなかったけどかなり大きな城でした。周囲には瑠璃瓦などの破片がパラパラと散乱してました。

禁断症状の大同・張家口旅行②~大同城内

2008年06月16日 | 出去郊区&旅行
午後は大同の旧城内を散策。大同はもともと平城とよばれた城郭都市で、城内には遼・金時代から続く文物が残っております。だいたい観光ツアーなんかで大同に行くと、雲岡石窟と渾源県の懸空寺がメインとなり、城内は九龍壁とよくて華厳寺を回るくらいなのでは?
まあたしかに城内のものはそれほど見栄えするものではないかもしれませんが、わたしには地味~に楽しめます(笑)上の写真、じつは九龍壁ではございません。善化寺にある五龍壁。善化寺は華厳寺と同じく遼・金時代の建築・仏像、清代の壁画が見られます。とくに建築では斗拱が立派。
               
あちこちぶった切られてるけど城壁もまだ残ってます。我々関帝廟・文廟・武廟も探したのですが、こういうのはたいがい小中学校の敷地内にあったりしてみられず。
                 
城壁の東南角近くにある雁塔。ちょっと遠くから確認。城内の東南部はメイン通りのキレイな建物とはちがって昔からの大同庶民街となっており(まさに胡同状態)、砂埃がすごいけどここ近年発達する以前の大同の人たちの生活が偲ばれます。

禁断症状の大同・張家口旅行①~雲岡石窟

2008年06月16日 | 出去郊区&旅行
むっきゃ~っもーキレた!この半年論文のせいでどこにも遊びにでられず、ストレスたまりまくり!現在卒業手続きの真っ最中なのですが、その間隙をぬって大同へGO!韓国人の友人&後輩と三人で夜行列車に乗り込み、早朝大同に着いちゃいました。そしてノリノリで雲岡石窟へ移動。午前7時半には門の前に到着したのですが、なんと開門は8時半。。。1時間待ちぼうけ、と出鼻をしっかり挫かれてしまいました。いや~、旅行に出られるのがうれしくてなーんにも確認しなかったよ(笑)
         
雲岡石窟は世界遺産にもなった大同の有名観光地。北魏和平元年(460年)開削されたのち、歴代の王朝も造営を継続。遼・金時代の仏像も多く見られ、洛陽龍門の仏像に比べなんとなく遊牧民族的?個人的には雲岡石窟の方が好きかなー。
昔来たときは写真なんか全然撮らせてもらえなかったのですが、いまは撮り放題になってます。なんでじゃー!?
                 
わたしなんかは文物として見ちゃうのですが、やはり仏像、現在でも信仰の対象となっております。上の写真のおじさんが燃してるのはお供えのお線香。でかっ!

明代石橋&金中都水関遺跡

2007年09月29日 | 出去郊区&旅行
金陵からの帰り道、高速道路のわきにある明代の石橋に寄り道しました。本当に高速のすぐ横にあり、聞くところによれば、この高速を作るとき、石橋を壊さないようにちょっと道をずらしたのだそうです。
この橋は、永定河にかかっていた橋なのですが、永定河は、ちょくちょくその流れが変わる河で、現在ではここからかなり遠いところを流れております。だからこの橋の下には水がありません。橋は一部修復されておりますが、400年前のものがこうしてフツーに道のわきにあるとは、なんとなく不思議(笑)
       
そのあと豊台区にある北京遼金城垣博物館へ。ここのメインは金中都の水関遺跡。
こりゃ何じゃ、と申しますと、城壁の排水施設部分で、城内を流れる川が城外に出るところです。復元するとこんな感じなんだそうで...↓
               
この博物館には石刻も少し置いてあり、契丹文字で書かれた遼代の墓誌などがありました。

わんやんあぐだ~房山区 金陵

2007年09月29日 | 出去郊区&旅行
ここ2日、北大で学会があり、日本から先生方がやってきました。うちの大学の先生が日本側代表だったのもあり、空港まで迎えに行って、この学会にもフル参加。
1日目の討論会のあと、2日目は先生方と北大の学生さんたちとみんなで房山区にある金代皇帝の陵墓を参観。今回はじめて房山区に金陵があることを知りました。まあ、現在の北京に都(中都)があったわけだから皇帝陵があるのは当然なのですが、なんと房山区にあったとは...
          
金陵は雲峰山の麓に造営され、全部で17人の皇帝(+皇族)が眠っているとのことですが、現在までに5人の墓が発掘されているそうです。
4代目皇帝海陵王(完顔亮;在位1149~1161年)のとき、金はもともとの都(上京:黒竜江省)から中都へ遷都しましたが、そのとき始祖完顔阿骨打のお墓もここへ移しました。墓はすでに盗掘されており、陪葬されていた后妃のお棺からはいくつか文物がでてきたそうです。まさかあぐださんがこんなとこに眠っておられたとは意外!
                   
雲峰山の麓の集落に、文物局の作業所(ただの民家だった)があり、そこには文物がごちゃ~っと積まれておりました。重要なものは大体博物館にもって行かれてるのですが、ここに積んであったものも、なかなかにすばらしい彫刻が施されておりました。金は女真族が建てた国ですが、やはり中原文化とははっきりと一線を画しております。
                     
この作業所でわれわれは昼食のお弁当を食べたのですが、一匹かわいいわんこがおりまして、みんなのアイドルとなっていました(笑)