
宣化城外の下八里村には遼代の墓群があるというので、我々タクシーでばびゅーんと行ってきました。最初に着いたのはただ今整備中の墳墓。誰もいなかったので垣根を乗り越えて無断侵入しちゃいました(笑)

敷地内には6つほどの土盛りの墳墓があり、燕山山脈を背にして並んでました。北方遊牧民族のお墓では、このように大きな山を背にして造営されることが多々あります。でも看板もなにもないので、このお墓が遼代のものなのかイマイチわからず。それからおそらく近辺に建てられていたとみられる碑や石鼓が敷地内の一角にごろごろ集められておりました。碑はだいたい明清時代のものでした。

聞いていた遼墓とは何となく違ったのでおかしいなあと思っていたところ、タクの運ちゃんが機転を利かし、村の人に聞いてきてくれて、ホントの目的地の遼墓に連れて行ってくれました。しかし運ちゃん早く気付いてくれよ。。。
ここの遼墓群は契丹統治下の漢人張さん一族のもので、全部で13基ほどあり、二つの墓の中が参観可能。お墓の中は残念ながら撮影禁止で写真がないのですが、みごとな壁画が残っておりました。一つのお墓の天井には、西洋のあの12星座の絵が描かれていて、発掘されたとき考古学者をたいそう驚かせたそうな。つまり11、12世紀頃にはすでに中国の東北部にまでこのような西洋の文化が伝播してきてたってことですな。おおすげー!

我々、遼墓を非常に楽しく参観したのち(墓をみて楽しめるのもどうかと思う・・・)、宣化城内に戻り、そのあとバスで北京への帰途に着いたのでありました。

敷地内には6つほどの土盛りの墳墓があり、燕山山脈を背にして並んでました。北方遊牧民族のお墓では、このように大きな山を背にして造営されることが多々あります。でも看板もなにもないので、このお墓が遼代のものなのかイマイチわからず。それからおそらく近辺に建てられていたとみられる碑や石鼓が敷地内の一角にごろごろ集められておりました。碑はだいたい明清時代のものでした。

聞いていた遼墓とは何となく違ったのでおかしいなあと思っていたところ、タクの運ちゃんが機転を利かし、村の人に聞いてきてくれて、ホントの目的地の遼墓に連れて行ってくれました。しかし運ちゃん早く気付いてくれよ。。。
ここの遼墓群は契丹統治下の漢人張さん一族のもので、全部で13基ほどあり、二つの墓の中が参観可能。お墓の中は残念ながら撮影禁止で写真がないのですが、みごとな壁画が残っておりました。一つのお墓の天井には、西洋のあの12星座の絵が描かれていて、発掘されたとき考古学者をたいそう驚かせたそうな。つまり11、12世紀頃にはすでに中国の東北部にまでこのような西洋の文化が伝播してきてたってことですな。おおすげー!

我々、遼墓を非常に楽しく参観したのち(墓をみて楽しめるのもどうかと思う・・・)、宣化城内に戻り、そのあとバスで北京への帰途に着いたのでありました。
・・・・・まぁ・・大変な事もあるんでしょうが・・(笑)
中国の遺跡は警備が手薄・・・なんだぁ
中国の遺跡保存の情況は、有名ドコロはまだましなのですが、農村とかだとほぼ放置、というのはザラにありますね。。。