走馬観花~我還在北京

只今北京留学中。ってまだ北京におったんかいな!?
気が向いたら過去の分も差し込んでます(笑)

先生還暦記念ツアー上海・蘇州水郷めぐり(3)~和平飯店

2006年10月08日 | 出去郊区&旅行
2日目の夜は租界時代からの老舗,和平飯店での宴会。しかし5つ星ホテルだけあってお値段高いっす。しかしここからは外灘の夜景がばっちり☆観光客丸出しで写真取りまくり(5つ星なのに…)。
宴会の後は先生お待ちかねの「老年ジャズバンド」。びみょ~な音のはずし方がなんともいえず(笑)
いや~,それにしても上海は日本人が多い多い。あちこちから日本語が聞こえてきます。それに日本の製品もたくさん売ってますし(ウラヤマシイ~)。それに比べて北京は韓国人が多い。コリアンタウンも増殖中。これって本国との物理的な距離の問題なんでしょうかね?

先生還暦記念ツアー上海・蘇州水郷めぐり(2)~西塘・甪直

2006年10月07日 | 出去郊区&旅行
2日目は西塘と甪直へ。あ,「甪直」読めますか?「ろくちょく」ですよ(笑)
この二つの水郷はそれほど大きくなく,ばっちり観光化!もされていないので,わたし的にはこちらの方が好感もてます。
先生ったら「船乗りたい」なんておっしゃるから,西塘と甪直両方でみんなして上船。ゆらゆらリッチ(?)に観光してしまいました。西塘では鵜飼のおじさんが鵜と一緒に船に乗っておられまして,またこれが渋い渋い。
甪直では古いお寺もあり,唐・宋代の石塔や柱石が保存されていました。また唐末の詩人陸亀蒙のお墓もあって,水郷以外の見所もアリです。

先生還暦記念ツアー上海・蘇州水郷めぐり(1)~朱家角・周荘

2006年10月06日 | 出去郊区&旅行
先輩方が指導教官(日本)の還暦記念に上海・蘇州ツアーを企画,これに参加してきました。うちの先生,とにかく水郷と上海の和平飯店がお好きで,ある日飲み屋で「いつかみんなで上海へ」と言っていたのがついに実現してしまったというワケです。
初日,めぐった水郷は朱家角と周荘。どちらもしっかり観光地化されておりましたが,きれいに整備されているぶん,中国に初めて旅行にきたという人でもOKなんではないでしょうか。
周荘に泊まった日は中秋で,水郷からまんまるお月様を堪能。なかなかオツなもんでした。ちなみに周荘では門票が昼間券と夜間券があって(後者の方がちょっと安いです),その日のうちは何度でも出入り自由。ナイスなアイディアですね~

行き当たりばったり山西珍道中(9)~太原 山西博物館

2006年10月02日 | 出去郊区&旅行
代県を名残惜しみつつ長途バスで太原へ。N嬢の体力もビザ期限もリミットに近づいてきたので(彼女は先に内モンゴル行ってた)、北京に戻る準備をば。太原に着くやタクシーで以前N嬢が使ったことあるホテルへ。が、なんといっても国慶節のさなか、部屋は新婚さん用?Wベットのものしかありませんでした。北京へ帰る火車の切符も入手するのにめっちゃ苦労しました。やはり連休に遊びに行くもんじゃない…
そいでもって次の日は午後から山西博物館へ。近年、市内の真ん中を南北に流れる汾水のほとり(濱河西路)に引越し、リニューアルオープンしました。このオープンまで数年ずっと博物館の文物が見られなかったので、期待大でした。
                  
中に入るとぴかぴかでキレイ!我々ずいずいと見て回りました。西周から戦国にかけての青銅器の多さにびっくり。また魏晋~唐の遺物も有名なものばかり。図録でしかみたことがなかった司馬金龍の墓誌や遺物が見られて感動~!
我々、すごいすごい、とはしゃぎながら見て行き、最上階の展示場へ行こうとすると、なにやら服務員が入り口に立っていて通せんぼ。「もう閉館だから帰って」。
なにいっ!?時計を見ると午後5時近く。「ちゃっちゃっと見てくるから入らせて!」とお願いしたけど、服務員も国慶節で早く帰りたかったのか「不行(ダメ)」の一点張り。我々泣く泣く帰途に着き、館を出てから、「ぜったいリベンジしてやる~!」と汾水に向かって叫んだのでありました。

行き当たりばったり山西珍道中(8)~代県 その3

2006年10月01日 | 出去郊区&旅行
李克用墓から旧城内にもどり、タクシーで城内の遺物探しを開始。渾源に比べ、代県にはまだ古いもの(とはいえ明清時代)が残っております。
財神廟と将軍廟は中学校のなかにあって見られませんでしたが、城隍廟と関岳廟(武廟)はわりと大きく、前者は只今改修中、後者は改修済みでピカピカでした。それから城内の中心にあたる十字街の真ん中に前述の辺靖楼(鼓楼)があり、その東に鐘楼がありました(入り口わからず)。そしてその付近に県衙の建物があるはず、と我々ぐいぐい路地のなかに入っていくと、これまた代県の有名な建築物、阿育王塔(隋代創建、元代改築、清代修築)とご対面。ただし、現在修理中。そして代県の県衙…あれ?めっちゃ普通に人が生活してる~!我々すでに家と化した県衙の建物を、ふとんや洗濯物をよけながら撮影。
そのあと十字街の東西の通りに面した文昌祀へ。みれば崩れかけているではないですか。地元の人に聞くと、この建物は民国時代にラジオ局として使用されていたとか。
              
そして我々、西側に残る城壁へ。代県の城壁はもとは隋代のものを基礎としているらしいです。現在では南と東はすでに取り払われ、北側に少しと西側に残っております。西門部分にはまだ翁城もちゃんと残っており、圧巻。めちゃ立派やないですか。西側城壁の外面部分には馬面もはっきり残ってるし!運動オンチなN嬢を城壁に登らせ、我々西側城壁の上をずいーっと歩いて、代県の街並みと、また北に恒山、南に五台の山々を眺め、「ここで李克用がんばってたんだねー」などとアホな話をしておりました。
そのあと、また十字街に戻って辺靖楼に登りました。この日は墓の中から城壁・楼閣の上までと、タテの移動も多い一日でした。

行き当たりばったり山西珍道中(7)~代県 その2

2006年10月01日 | 出去郊区&旅行
なにやら朝から大砲や爆竹の音がうるさいなーと思っていたら、国慶節でした。この日はタクシーをチャーターして旧城外の七里鋪というところにある李克用の墓探しへ。前日文廟でパネル展示をみて探してみることしました。
李克用は唐末五代の沙陀族(トルコ系)の武人で、五代後唐の晋王。しばしこの地を拠点として活躍しました。片目が小さかったため「独眼龍」の異名をもち、鴉軍と呼ばれる全身黒ずくめの精鋭部隊を率い、後に唐を滅ぼした朱全忠と激しい権力争いをした人です。正史や『資治通鑑』などにもばんばん名前が出てくる超有名人。
…なはずなんですが、地元の人に聞きまくって探し当てた彼のお墓は荒れ放題。周囲は畑に利用されているじゃないですか(汗)うそ~ん!
                    
とりあえず墓のマウントに登ってみると、墓室の上部はもう無く、上から覗き込める状態に。ただ、墓室内部から木が生えていてその枝の間からなんとか見えました。そうこうしていると地元の方が現れて、「こっちから墓に入れるよ」と言うではありませんか。
行ってみると穴があり、それは墓室につながる墓道でした。
「こりゃ行かねば!」と、我々タクシーの運ちゃんの手を借り、穴にズリズリ入り込み、墓道部分へ侵入。手足は細いが小学生の手のひら大の蜘蛛がウヨウヨいて、N嬢顔面蒼白。墓道には1100年前のレリーフや壁画がまだちゃんと残っていました。
               
しかし、墓道と墓室の間には封石があって墓室への侵入はできず。残念~!仕方ないのでまた地上に戻り、周囲をみると、神道に置かれていたであろう石羊が、ぽつんと1匹だけたたずんでました。