南会津生活記

南会津での日々の〝ひとコマ〟をご紹介しています。
by s-k-y (presented by taito)

南山六義民の見た風景 儀右衛門編その1

2011年02月22日 06時25分55秒 | いにしえへの思い
喜四郎と意気投合し江戸への直訴を決意した儀右衛門。
彼のふる里、黒谷集落です。

黒谷集落は尾瀬を源とする清流伊南川と名峰会津朝日岳に端を発する白沢川との合流点に位置し、双方から供給される肥沃な土壌によって豊かな耕作地帯が広がります。川からはアユやイワナが獲れ、山からはクマやイノシシを獲っていたでしょうから動物性タンパク質にも恵まれていた、かな
さらに、伊南川と並行して走る沼田街道(現在の国道289号)で物流にも不自由なく、優れた地勢的スペックを有している地域であることを感じます。

黒沢村はやがて朝日村の中心地となり、昭和の大合併で只見町へと組み込まれていきますが、今でも朝日地区の中心地として行政機関や診療所などが置かれる地域の要的存在となっています。そのため、集落規模も大きく、御蔵入騒動当時の黒谷村を忍ぶには相当の想像力が必要です


ただ、御蔵入騒動記録誌によると、町中から少々離れたところにある集落が儀右衛門の実家のあった場所らしい なので、今回はその集落を中心に散策です!



この豪雪、厳寒の中、猫がお出迎え!と思ったら逃げちゃった



ここも御多分に漏れず、高齢&過疎化の波がやってきています。
と、先を歩く翁、上へ向かって何やら話をしています。



見上げると…、これまた翁、屋根の雪下ろし中
それだけ落とせば家には問題ないでしょうから、無理しない方が。。。
雪下ろし中の事故のニュースを聞いて雪の少ない地域の皆さんは理解し難いでしょうが、このような危険な状況が雪国では繰り広げられているのです。
その後諦め、無事に降りられました。よかった



儀右衛門はこういった地域で名主の次男として生まれ育ちます。そして、「読み書きが堪能であった」とされており、それ相当の教養を有していたことでしょう。また、小栗山村喜四郎ら小作農民との交流もあったことから人望もあり、所謂〝できる男〟だったのかもしれません。
出発前に直訴組が守るべき約束事を界村兵左衛門が文案を作り儀右衛門が清書しています。
 1.この度の直訴は御大法に背くことだから生きて再び帰ることは考えないこと。
 2.御蔵入全体の問題をとりあげ、自分の村の小さなことはとりあげないこと。
 3.経理は入用品を一組ごとの帳面に記載して、後で一括精算すること。
 4.血気にまかせて乱暴したものは、帰国させるから十分につつしむこと。
 5.長期に渡ることを覚悟して、その間の物見遊山や遊び事は一切しないこと。
 6.長期に渡る覚悟であるから、半途にして仮病を装ったり同志を誘って帰国することを厳に慎むこと。

このような約束事を考え守らせようとしたことから、これを創案した界村兵左衛門こそが直訴の中心的存在であり、儀右衛門はその意を受け江戸へ向かった直訴チームの真のリーダーだったのでは?
ただ、江戸の奉行所に出向くにあたって〝格〟は必要なので、名主である布沢村孫右衛門を直訴チームの精神的支柱としてかつぎ、実質的リーダー兼参謀として儀右衛門があたったのでは?



さてこの約束事、1番の「生きて再び帰ることは」を読むと決死の覚悟が伝わりますが、それ以外はどうも雰囲気が違う 3番の「後で一括精算」あたりを読むと、後の無い決死の行動のはずが〝後で精算〟とは。。。1番との間にギャップを感じます。
つまりは、1番は心構えを示しつつ、2,3番で村ごとの不公平感が出ないよう気配りをし、4,5,6番で仲間の引締めを図ったのでしょう。
裏を返せば、村ごとの思惑が多々有り、とりまとめに苦慮していたのかもしれません。何せ南山御蔵入領271村をまとめていたのですから。。。



また、15人も居れば中には引締めを図らなければならないメンバーがいたかもしれません。
血の気の多い者、遊び心いっぱいの者、弱気な者などなど。。。
それぞれの人間性を思い描き、創作したくもなります









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ






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