そして時の最果てへ・・・

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

山崎の戦シリーズ

2008-07-05 22:23:49 | 歴史
全9回に亘った山崎の戦いシリーズもようやく終了。

明智光秀

本能寺の変の原因は?

本能寺の変の明智軍

山崎前、光秀の戦略

中国大返し

筒井順慶の豹変

緊要地放棄戦術

山崎決戦

秀吉の勝因と山崎合戦後

・・・って、最初は本能寺の変を扱うつもりだったんですね、ワタシ。

秀吉の勝因と山崎合戦後

2008-07-05 22:12:07 | 歴史
秀吉の勝因は、何をおいても光秀に時間を与えなかったことですね。「中国大返し」という戦史に残る行軍を成功させ、光秀の戦略的・戦術的な選択肢を極限まで制限した。この一点に尽きます。

秀吉は戦術的なリスクを極力回避する一方で、戦略的なリスクは緻密な計算の上に立って大胆に受け入れる傾向があります。計算の甘さをスタンドプレイで回避する信長とはかなり異質であるばかりか、光秀とは全く正反対の傾向でした。つまり秀吉は、危険を回避することに関しては実に熱心なんですけど、安全でありさえすればかなりの無茶だって平気でやってのけるタイプだったのです。

そして光秀にとって何よりも問題となったのは、その違いを秀吉が十分認識していた、ということでしょう。


かくして秀吉は光秀に勝ちました。光秀を倒したことで秀吉の発言力は飛躍的に向上し、政治力は格段に強化されました。ここまでは秀吉が正確に予想していたことでしょう。

しかしその陰で、予想以上の報酬が秀吉に転がり込んできました。

山城、近江を制圧する過程で、両国の織田家臣の大半が秀吉に事実上臣従してしまったのです。馬廻のような中小家臣だけでなく、池田恒興、筒井順慶、細川藤孝のような大身の家臣、そして本来秀吉と同格の重臣であった丹羽長秀までが秀吉の幕下に収まってしまったのです。

秀吉が野心を顕に行動し始めるのは、この時からです。信長の二人の遺児、信雄と信孝を差し置いて単独で仕置きを定めるなど、にわかに露骨な振る舞いが目立つようになりました。そして織田家臣の大半は、秀吉の野望を掣肘するどころかその走狗となり、政権簒奪に協力していくこととなります。


山崎の戦いに全てを賭けた光秀は敗れ去った。それに対して秀吉は、最少の元手で自身の手腕と強運を世間に周知せしめ、政治的基盤を不動のものとし、天下人への第一歩を踏み出したのです。