そして時の最果てへ・・・

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本能寺の変の明智軍

2008-06-01 18:40:52 | 歴史
天正十(1582)年六月一日の夕刻、居城の丹波亀山を発った光秀は、翌払暁には万余りと推定される軍勢ですばやく本能寺を押し囲み、僅か一刻ほどの攻撃で信長とその側近達を葬り去ります。

これだけの軍勢がこれだけ迅速に行動している以上、複数のルートにて進撃したんでしょう。そして本能寺という単一目的地で一瞬にして合撃。そう考えた方が自然であり、少なくともそう見える程度に明知軍の行動は速いんですよ。

かくして午前九時頃までに信長・信忠親子を討ち果たした明智軍団は、その動きを滞らせることなく残敵掃討に移り、山城国内の緊要地を制圧。午後二時頃にはその矛先を近江に向けます。

当然安土城制圧が目的でしょうが、残敵に勢多橋を落とされて瀬田川の渡河に失敗。

しかし光秀は勢多橋が焼かれる可能性を考慮していたらしく、その修復は女婿の明智秀満に任せ、自らは坂本の入って近江や若狭の中小領主にサレンダーコールをばら撒きます。この後僅か数日のうちに近江衆と若狭衆の大半が光秀に降っています。勢多橋の一件は近江制圧をほとんど遅延させませんでした。

手際がよすぎます。

かつて信長は、南江の六角領を制圧するのに三週間近い日数を要しています。敵対する軍勢がろくに存在しなかったとはいえ、光秀の近江平定は驚くべき速さで成し遂げられたことになります。

本能寺襲撃の手際やその後の山城・近江制圧のスピードから考えて、光秀の事前計画は確かに存在し、高級将校達にまで浸透されていたと考えられます。

・・・とすれば、やっぱり
「敵は本能寺にあり!」
ホラ話文学的真実、といことになるんでしょうねぇ。
(´_ゝ`)

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