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本能寺の変の原因は?

2008-05-24 14:51:23 | 歴史
前の記事でも書きましたとおり、足利義昭の朝倉から織田への動座の交渉役として明智光秀は織田信長に接触しました。

で、足利義昭を推戴して信長の上洛戦が完了すると、光秀は一躍京都での奉行人の一人に抜擢されています。そこでは有能な官僚として、信長の耳目として仕事をこなしています。

この時期から織田は周辺の敵を次々と薙ぎ倒していくことになるんですが、その家臣団にとっても淘汰の時代となりました。森可成、原田直政といった多くの上層家臣が戦場に倒れ、佐久間信盛や林秀貞、安藤守就といった重臣達が失態の挙句次々に失脚。松永久秀や荒木村重といった有力新参大名も信長の苛烈極まる統制に追い詰められる形で謀反を試み、そして自滅していきました。

そんな時代にも拘らず、光秀は信長の下で栄達を遂げます。

1571年の比叡山焼き討ちで功を挙げ、近江坂本を与えられました。1575年には日向守の官職と惟任の姓を同時に賜ってます。この待遇は木下秀吉や丹羽長秀よりもよいものであり、当時の織田家中でも5本の指に入る人物として信長の信頼を勝ち得ていたと言えます。

その後も本願寺一向一揆戦にて大坂表や北陸で奮戦。松永久秀の乱や荒木村重の乱鎮圧の片手間で丹波攻略を成し遂げ、信長に絶賛されています。逆に、再三の加勢をうけて因幡、播磨を攻略した羽柴秀吉は、その占領地の広さにもかかわらず光秀に次ぐ功とされています。ここからも信長がすべてを承知の上で光秀を評価し、その才を愛していた様子が垣間見えます。

では、なぜこれほどまでに信長は光秀を優遇したか?その理由は、実は信長と光秀は人間のタイプとして非常に近かったからだと思うんですよ。

まず、最先端の知識に敏感であったこと。鉄砲や築城技術、礼儀作法なども当世で最先端の知識を獲得していました。

次に政略。
・追放された将軍を傀儡としてその復権を図る。
・無力な将軍の頭越しに直接朝廷と結びつく
・寺社勢力の否定や制限。
これら一つ一つは、実は前例があり、決して独創的なものではなかったんですが、この3つをまとめて実行しようとした点で、信長と光秀の政策は斬新であったと言えます。

このように、信長にとって最も身近な、知識と理念とを共有できる存在。それが光秀だったと思うんですよ。決して信長と光秀は異質な存在ではなかった。

史料に見る限り、こうした関係は最後の瞬間まで続いていました。本能寺の変の直前まで、信長と光秀の間には何の確執もなかったように見えるんですよ。

怨恨説は後世の創作の可能性が高い。将軍(足利義昭)黒幕説や、朝廷黒幕説も、光秀にはそれら古い権力に従う義理がない。将軍や朝廷を権力強化のツールと割り切って使用し、叡山焼き討ちや一揆鎮圧など宗教勢力の徹底的破壊に専心するなど、伝統や格式を重んじる気配は感じられません。

わからない。いや、ほんとうにわかりませんねぇ。

1582年6月2日払暁、あたかも焼きあがりに満足できなかった陶工のように、自らが手塩にかけて作り上げた織田信長とその帝国を、光秀は自らの手で打ち砕きました。

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