そして時の最果てへ・・・

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

CMに見る企業センスの良し悪し

2008-07-02 22:48:13 | 雑感
同じ女優さんを使っていても、ここまでCMに差が付いてしまうことにビックリ!

良い例:http://jp.youtube.com/watch?v=2TTFvG1cKo0&feature=related

悪い例:http://www.mirabakesso.jp/
(リンクは張りません)

・・・え?
「オマエが個人的に嫌いなだけだろ?」
ですって?

・・・はい、その通りですが?
(´σー`)ホジホジ

カントとフレーゲ

2008-07-02 00:27:05 | 雑感
論理学シリーズ。とりあえず前回のお話を読んでから。

前回、フレーゲは数学を論理学の言語で表現することに挑戦した、と書きましたけど、
「こんなことできない!」
と言ってる人の一人に、前回も紹介したカントがいました。


例えば
「カエルは両生類である」
「両生類にはへそがない」
という二つの前提から
「カエルにはへそがない」
という結論を導き出すのは論理学の仕事です。

ですけど、論理学が関わっているのは
∀x(Fx⊃∀Gx), ∀(Gx⊃¬Hx) → ∀x(Fx⊃¬Hx)
という形式だけで、述語であるFやGやHが何者であるかという実質的な部分は論理学の範囲ではありません。
「ネコという対象を論理学に還元できるか」
という問いには
「アホぬかすな!」
と答えられます。ネコは論理的性質の束ではないので、いくら論理学の言葉を積み重ねてもネコにはならないのです。
ですから、論理学は、例えば生物学のツールになりますけど、生物学そのものにはなれない。

当たり前ですかね。

で、数学は数についての科学であると考えれば、数学を論理学の言葉で記述しつくすのは不可能と考えるのは当然な流れになります。そう考えた一人がカント。

しかし、調査という経験を積み重ねて内容を築く生物学などとは異なり、数学には
「経験に先立って成立し(ア・プリオリな)、かつ分析だけによって見出されない実質的内容をもつ(綜合的な)認識」
という極めて独特の認識のあり方が示されています。こんな「ア・プリオリかつ綜合的な認識」がいかに成立しうるか。これこそが名著「純粋理性批判」におけるカントの中心問題でした。

これに対してフレーゲは、カントの手にしていた論理学より遥かに強力な論理体系を自らの手で構築したという自負のもと、数学をも論理学の領域に含めようとしました。

フレーゲは手始めに、数学の中で最も基礎となる算術、つまり数と四則演算を論理学の言語で記述することに着手します。

で、四則演算の方は上手く行きました。数の方も当初は上手く行ったと思ったのですが、実はとある「反則」を犯してしまっていたのでした。

「ネコは哺乳類である」
「ネコは2匹いる」
という文、似ているようで論理学的には全く違います。

「タマがネコならば、タマは哺乳類である」は正しいですけど、
「タマがネコならば、タマは2匹いる」は間違っています。
この原因は、「ネコ」と「哺乳類」は「タマ」という個体の述語ですけれど、「2匹」は「タマ」の述語ではなく、「ネコ」の述語にしかなれない。

単なる述語と、述語の述語。これは述語としての「階層が違う」という言い方をし、単なる述語を一階の述語、述語の述語を二階の述語と呼びます。


述語論理を二階の述語に適用する。フレーゲが認識せずにやっていた操作が、実は論理学と数学との間に横たわる越えられない壁として立ち塞がるのでした。