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ラッセルのパラドックス

2008-07-06 22:04:33 | 雑感
論理学シリーズ第三弾。今回はいきなり問題。

ある床屋さんが言いました。
「この村に住む人で自分で髭を剃らない人、その人の髭だけを私は剃りますが、私の誇るところは、そのような人の髭は全て私が剃る、ということであります。」
さて、この床屋さんの髭は誰が切るんでしょうか?

なんのこっちゃ?

いや、簡単にサジを投げずに考えてください。
床屋が自分で髭を剃る場合は、「自分で髭を剃らない人のだけの髭を剃る」という言葉に反します。
床屋が他人に髭を剃ってもらう場合、「自分で髭を剃らない人の髭を全て剃る」という誇りに傷が付きます。

これが論理学と数学の架け橋を叩き壊した「ラッセルのパラドックス」です。

とまあ、これだけでは床屋の話と論理学・数学が結びつきませんので、述語論理や集合論の言葉で床屋さんのお話を解説してみましょう。

述語のパラドックスというのは、
「ω(x)を『xは自分自身に述語づけられないような述語である』という命題関数とした時、ω(ω)は成立しない」
です。

・・・なんのこっちゃ?

目眩がしそうですが、少しずつ説明します。

まずFを「・・・は日本語である」という命題関数とした時、F(F)は「『日本語である』は日本語である」という命題になり、この命題は真です。これは自分自身に述語づけられる述語の例です。

ではGを「・・・はネコである」という命題関数とした時、G(G)は「『ネコである』はネコである」という命題になり、この命題は偽です。「ネコである」という述語は鳴いたりコタツで丸くなったりしませんからね。これが自分自身に述語づけられない述語の例です。

ここでω(ω)を真であると仮定してみると、「ωは自分自身に述語づけられない」という命題になり、ω(ω)は偽になります。
一方ω(ω)を偽と仮定してみる(¬ω(ω)が真である)場合、「ωは自分自身に述語づけられる」という命題になり、ω(ω)は真になります。

(もう少し記号を使って書くと、
ω(x)≡¬x(x) という定義で、xにωを代入すれば
ω(ω)≡¬ω(ω) という具合。

集合のパラドックスは
「『自分自身を要素として含まない集合』の集合Sは、S∈SでもS|∈Sでもない」
(「|∈」は要素として含まないという意味です。悪しからず。)

これについても説明しますと、日本語の集合をAとした時、「日本語の集合」は日本語ですので、日本語の集合に含まれます。これが自分自身を要素として含む集合の例。

一方ネコの集合をBとした場合、「ネコの集合」はネコではないので、ネコの集合に含まれません。これが自分自身を要素として含まない集合の例。

SはSの要素に含まれると仮定した場合、Sは「自分自身を含まない集合の集合」という定義に反する。
一方、SはSの要素に含まれないと仮定した場合、それこそが集合Sの要素であるのでSは「自分自身を含まない集合」Sの要素となる。

これも記号で書いてみますと、「自分自身を要素として含まない集合」の集合Sは、
S = {x|x|∈x} と定義されます。
つまり (x∈S)≡(x|∈x) で、xにSを代入すると
(S∈S)≡(S|∈S)

こうして
・「髭を剃る人」の髭を剃る人
・述語の述語
・集合の集合
これらについて、パラドックスが存在することが確認されました。そして、数を論理学で表現することはすなわち述語の述語を考えることで、そこにはパラドックスが口を開けて待ち構えている・・・という構図が出来上がってしまいました。

フレーゲが夢見た「数学を論理学に根拠づける」ことは果たして可能なのか?このラッセルのパラドックスを回避する方法はあるのか?

こうして近代数学はパラドックスを克服するための出直しを要求されることとなりました。