そして時の最果てへ・・・

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直観主義

2008-07-14 23:56:26 | 雑感
前回説明しましたラッセルのパラドックスを回避する方策の一つとして「直観主義」という考え方が出てきました。

これはオランダの数学者・ブラウアーが創出したものでして、ブラウアーはラッセルのパラドックスの根源を「無限」というものに求めました。

実はずっと前に「実無限と可能無限」という回でお話しているんですが、ここでいう可能無限こそが直観主義の最たる考え方です。

もう一度説明しておきますと、ワレワレが一つずつ数えていくこととは独立に、無限の総体が既に存在しているという考え方があります。宇宙には無限の対象が存在し、有限なる人間はそれを部分的に認識しているに過ぎないわけです。もっと言いますと、人間がいなくても宇宙は存在する。

これに対して、意味を持つのはワレワレが一つずつ数えていくという作業だけであるとする考え方もあります。無限とは既に存在する総体ではなく、際限なき作業の軌跡として可能的に開かれているに過ぎない。もっと言うと、人間がおらず、人間に観測されない宇宙はもはや宇宙ではない!

前者の無限観を「実無限」、後者の無限観を「可能無限」と呼ぶわけです。ブラウアーは可能無限を唱えたワケです。

では可能無限の立場から、どのようにラッセルのパラドックスが回避できるか?それは当然、
「『無限集合』なんてもの、世の中に存在しない!」
です。

実無限論者なら「ネコではないものの集合」はこの宇宙に確定して存在すると考えますが、可能無限論者は、ワレワレがネコではないものたちを必死こいて集める果てしない作業があるだけですから、ネコではないもの全体を既に出来上がった集合として考え、それが再び自分自身の要素になるかと問うのは、そんなもんナンセンスなんですよ。

ある段階でネコでないものを集めてくるのをやめ、それで集合Sを考えた場合、そこで集められたSの要素に、今出来上がったS自身を加えれば、新たな集合S'ができちゃってるので、考えるべきは
S∈S
ではなく
S∈S'
となります。これならパラドックスを余裕で回避できる、と。

しかし直観主義には猛烈な副作用がありました。それは「排中律の拒否」というもので、世界の数学者達の、それこそ拒否反応を引き起こします。その拒否反応が数学界全体を巻き込む一つのムーブメントに発展しました。