そして時の最果てへ・・・

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山崎決戦

2008-06-29 23:54:17 | 歴史
六月十三日、円明寺川を渡河しようとした摂津衆に対する明智軍の猛射によって山崎の戦は幕を開けました。

摂津衆や四国遠征軍が過半を成す羽柴軍は、どうしても寄せ集めですから秀吉の采配が届かず、平押しに押し出したのが仇になりました。なまじ人数が多かった池田隊は隘路の出口にて進退窮まり、小部隊指揮官として名を馳せた池田恒興の叱咤も空しく撃退されてしまいました。ヘタレてます。


光秀はこの機に反撃に転じます。右翼はなだらかな北麓から天王山へ向かって進軍、左翼は天王山と円明寺川に挟まれた狭隘な平坦地に羽柴勢を囲い込みます。一方の羽柴勢は、険阻な天王山南麓の地形に阻まれて軍勢を展開できずにいました。

戦況はまさに光秀の狙いどうりに進みました。明智軍右翼が羽柴軍左翼の中川隊を圧迫し、間隙を生じさせた瞬間に予備兵力の旗本精鋭部隊を投入してこの戦いで完勝する!

しかし、光秀はその好機を活かす事ができませんでした。明智軍左翼が円明寺川沿いに羽柴軍右翼を押しつぶした結果、羽柴軍右翼が川手からすり抜けて明智軍左翼の後方に回りこんだ形になってしまったのです。

この穴を塞ぐ為に光秀は予備兵力を投入しようとしましたが、ここで予備を使い果たしてしまっては、天王山での決定的な勝利を得ることが不可能になります。この局地戦で勝利を収めたとしても、羽柴勢を壊滅させられなければ、光秀は遠からず負けてしまう。

そしてこの躊躇の間に、事態は急速に悪化してしまいました。側背を衝かれた明智軍左翼が壊走し、その衝撃が全体に波及した明智軍は予備兵を投入する間もなく総崩れになってしまいました。

光秀は逃亡中に近郷の一揆に討ち取られます。こうして光秀の「三日天下」はその幕を閉じたのです。

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