江戸時代から脱却した明治日本は、隣国の清と初めて近代的な対外戦争を経験します。1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた日清戦争です。そこで、ようやく萌芽し始めた我国のジャーナリズムは、戦争報道に力を入れました。参謀本部によると派遣された各紙の新聞記者数は114名。彼らは日々の戦況を新聞にリアルタイムに掲載し、国民はその報道に熱狂しました。
そんな中、細々と木版錦絵を発行していた中小の版元もこれを見逃しませんでした。古より錦絵というものは、その時々の流行を伝える情報伝達媒体として存在しており、幕末の戊辰戦争は勿論、西南戦争でも広く庶民に読まれていました。文明開花の流れの中で活版印刷が主流となり斜陽化しつつあった木版錦絵業界にとって日清戦争は、またとないチャンスでありました。
現地に派遣された新聞記者の報道をベースにして、国内に居ながら絵師はまるで見てきたかのように想像を逞しくして迫力ある戦争画を描いたようです。ちゃっかりしてますよね。内容の正確性よりも帝国軍人の勇ましい活躍ぶりを端的に表した構図が好まれたようです。絵師には三代歌川豊国系の歌川国政、歌川小国政、歌川国虎、歌川国周系の豊原国輝、揚州周延、揚斎延一、揚斎延重、安達吟光、歌川国芳系の歌川幾英、名和永年や小林清親、田口米作、尾形月耕、永島春暁等多数が腕を競い合うように描き続けました。
実際に錦絵を販売する絵草子店の前は、いつも黒山の人だかりで三枚続きの日清戦争の錦絵は、摺る端から飛ぶ様に売れました。ですから、総発行数は見当も付かないようです。
こうした錦絵業界の特需もそう永くは続かなかっようで、日清戦争からわずか10年後の1904年(明治37年)の日露戦争では、戦時浮世絵は激減し次第に歴史から消えていきました。勿論、写真がその責務を受け継いだからです。
「征清激戦 威海衛攻撃之図」 版元・不明 秀嶺画
そんな中、細々と木版錦絵を発行していた中小の版元もこれを見逃しませんでした。古より錦絵というものは、その時々の流行を伝える情報伝達媒体として存在しており、幕末の戊辰戦争は勿論、西南戦争でも広く庶民に読まれていました。文明開花の流れの中で活版印刷が主流となり斜陽化しつつあった木版錦絵業界にとって日清戦争は、またとないチャンスでありました。
現地に派遣された新聞記者の報道をベースにして、国内に居ながら絵師はまるで見てきたかのように想像を逞しくして迫力ある戦争画を描いたようです。ちゃっかりしてますよね。内容の正確性よりも帝国軍人の勇ましい活躍ぶりを端的に表した構図が好まれたようです。絵師には三代歌川豊国系の歌川国政、歌川小国政、歌川国虎、歌川国周系の豊原国輝、揚州周延、揚斎延一、揚斎延重、安達吟光、歌川国芳系の歌川幾英、名和永年や小林清親、田口米作、尾形月耕、永島春暁等多数が腕を競い合うように描き続けました。
実際に錦絵を販売する絵草子店の前は、いつも黒山の人だかりで三枚続きの日清戦争の錦絵は、摺る端から飛ぶ様に売れました。ですから、総発行数は見当も付かないようです。
こうした錦絵業界の特需もそう永くは続かなかっようで、日清戦争からわずか10年後の1904年(明治37年)の日露戦争では、戦時浮世絵は激減し次第に歴史から消えていきました。勿論、写真がその責務を受け継いだからです。
「征清激戦 威海衛攻撃之図」 版元・不明 秀嶺画
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