徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

Breakingニュース -再会と別れと-

2015-03-25 12:16:07 | フラッシュバック
2015年3月24日。

この日、私は二つの大きなニュースの渦に巻き込まれた。

第一弾。
それは娘の5年生の時にピアとして
まだ英語のたどたどしかった娘を助けてくれべス(仮名)との再会。

その前日、私は娘からメールを受け取った。
「べスがいま日本に来てるんだって。
ご主人が仕事で北陸のほうに長期滞在しているんだって。
それでイースターの休みを利用して来てるってことが
Face Bookで分かったんだ。
もう、明日帰国するっていうから、
会うのは難しいけれど、これってすごいよね。」(娘)

「まあ、べス!!
あなたは、ずいぶんお世話になったわよねえ。
小柄で、敏捷で、切れる感じのひとだったわねえ」(私)

「そうそう、Social Studiesなんかでも、ずいぶん助けてもらった」(娘)

と、そんな会話を交わした。

しかし、それからすぐにこんなメールが入った。
「あす朝、べスの出発前、
そして、私の仕事前に、15分だけ会えることになったの。
お母さんももしかしたら来るかなと思ってメールしました」(娘)

明日は、私の定期的な検査の結果を病院に聞きに行く日。
9時の予約だった。
娘たちは7時45分から8時の間に会うという。
東京駅前のホテル。
病院までは30分もみればいかれる。
よし!行こう!!!
私は決心した。

でも、お土産を渡そうにも、準備がない。
家の中をひっくり返して、ひとつ見つけた。
「花さき山」(斉藤隆介作:滝平二郎絵 岩崎書店)。
数年前の、滝平二郎展で手に入れてあった英語版。
これならべスにも読んでらえる。
べスは今はエレメンタリースクールの先生。
もしかしたら、子どもたちに読んでくれるかもしれない。
それと、小さな焼き菓子。
家にあったものだけれど帰りのアトランタまでの長旅のお供にと思った。

7時45分。
エレベーターを降りてきた彼女。
キャーッと言いながら、娘とのハグ。
「あの時は11歳だった。それから2倍の年月が流れたなんて!」
しばし、そんな場面が繰り広げられた。

私?、私はどうしても彼女に一言お礼が言いたかった。
あの時、娘を助けてくれたことがどんなに嬉しかったか、
親としてはどんなに安心して過ごすことができたか・・・。
なんていうことは今の私の錆びた英語ではすぐには言えない。やっと一言。

I have to tell you something.
Thank you very much for everything you've done to A in the US!

めちゃくちゃ英語もどうやら通じたようで、ハグ!
これで一つ、心の重荷が下りた。

アメリカ南部の町での家族との生活。
小学生年齢を3人抱えていた私たちは、
どれだけ現地の学校の先生と子どもたちに助けられたことか。
そのお礼をやっと一人にいうことができた。

いろいろあっても、アメリカは来るものに対しては開かれている。
それは帰国してからのちょっと違う子どもたちに対する日本の狭量さとは対極にあった。

と、そんな朝を過ごした後、

第二弾。

私は病院で待っている間に、
とても力をもらっている同病の先輩にメールを打った。
2月半ばから返信がないので、ちょっぴり心配していた。
3月には会おうということになっていたけれど、調子が悪いのかな・・。
そんなことを思いつつ、
初めての出会いの時のように、
今日も彼女とこの病院で会えるかもと淡い期待を抱いた。

しかし、返信はなかった。

職場に戻り、PCを開いた。
そこには私たちを引き合わせてくださったTさんから、
彼女が旅立ったことを知らせるメールが入っていた。
・・・・・。

彼女と会ったのは、たった一度きり。
この1月の検診日だった。

その前から、彼女のWAN(ウーマンズ アクション ネットワーク)に掲載さている
「フェミニストの明るい闘病記」のファンだった。
彼女も卵巣がんと共存中だった。いえ、闘い中だった。
私は彼女の文章にのめりこんだ。
そして、いつも力づけられ、父とのことをいっぱい考えた。

また、偶然があった。
彼女を引き合わせてくれた先輩Tさんと彼女は同僚だったのだ。
その関係で、彼女の本を手にした。
WANでの随筆を加筆したものだが
「がんのお姫様」(岩波書店)という。
同じ病院に入院したこともあり、本当に面白かった。

彼女には
「なぜ男は笙野頼子を畏れるのか」(春風社)という評論がある。
私には評論はちょっと難しかったが、
最後に彼女の短編が載っていて、
それが、ほんとうに凄かった。
というか、「父親」というものをもう一度考えさせられた。
私には父を許すことができたのは40歳の時だったという経緯がある。
小説の中の主人公は行動の仕方は違うけれど、とても納得できる内容だった。

そんなこんなの自分の生き方と重ね合わせたりするようになった。
もっと、おしゃべりしたかったけれど、彼女の書いたものでも十分対話はできる。
と、そんなことを思える。

潔く、そしてナイーブ。
とっても真似はできないけれど、
大きな力を今ももらっている。

そして、矛盾するようだけれど、
まだ60代に届かずに逝った彼女の、心の底の無念さを思う。

海老原曉子さん、本当にありがとうございました。
これからも、おしゃべりに付き合ってくださいね。
まだまだお役目はいっぱいありますから。





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