好事家の世迷言。

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事件181『殺意はコーヒーの香り』(第60巻)考察。

2013-04-28 | 『名探偵コナン』原作考察
この事件の印象は極めて薄い。
今までずっと、無意識の内に読むのを避けていたようだ。

その理由。
『名探偵コナン』という作品の、
「悪人は全て罰される」というテーマが、この事件で瓦解してしまったからだ。

『ジェットコースター殺人事件』冒頭では、
犯人に人権はないとばかりに粛正された。
『山荘包帯男殺人事件』では、犯人は殺人鬼だと断じられた。
『ピアノソナタ『月光』殺人事件』で、眼前の自殺者を救えなかったコナンは、
『名家連続変死事件』で自らを殺人者と称した。
『浪花の連続殺人事件』では、平次が命をかけて犯人を止めた。
『偽りだらけの依頼人』では、自殺は殺人と同じだと断言された。
どれも青臭い理想論、甘っちょろい戯言かもしれないが、
だからこそ私はこの作品に惹かれたのだ。

なのに。
殺人犯は既に自殺した後だから何もお咎めなし?
その殺人犯を隠匿した共犯者も可哀想?
そんな解釈、今までに、世に掃いて捨てるほどあふれ返る
凡百のミステリで見飽きてる。
どころかコナンは『神社鳥居のビックリ暗号』で、
「事件じゃないと燃えない」と言ってのけ、人死にを悼まないような人物だ。
そのような性格の者が、「悲しい真実」と言っても、言葉だけ上滑りするだけだ。

この事件をもって、この作品の主人公は探偵として、堕ちるところまで堕ちた。
……悲しい事件である。

それでは。また次回。
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