33~4年も前のことだけど・・
当時中学校1年生のワシは大のTHE BEATLESファンだった。まだ、子供でワシのまわりはピンクレディーとか、歌謡曲をテレビでみてるようなクソガキばかりだったけど、なぜかワシはビートルズを聴きまくっていた。小学校のころ買ってもらったガットギターで、へたくそながらビートルズの曲をかきならしてた。コードとかリフとかまったくわからないし、まわりにギターが弾けるやつなんていなかったので誰にも教えてなんかもらえない・・・、単音で音を拾ってなんとなくその気になってただけなんだがね
そんなワシに中2の夏に同級生のお兄さん(・・当時大学生だったかな、、)が「これ聴いてみぃ~」といって貸してくれた一枚のLPレコード、それが
ターンテーブルに置いて針を落とすと大爆音で流れてきたのはあの有名なリフと「アアア~ア~」というシャウト
そう、この瞬間に今のワシが生まれた・・一階で家事をやっていた母が二階におどろいて駆け上がってきたのを今でも覚えている。
それからその大学生にいろいろ教えてもらった。DEEP PURPLE CREAM YES ・・・
でも、やはり最初に「移民の歌」を聴いたときの衝撃を超えるものには出会わなかった。すっかりロックのとりこになったワシはとにかく時間さえあればROCKを聴いていた。
そんな時DEEP PUEPLEのギタリストだったリッチーが作った「レインボー」というバンドが、広島にくるらしい・・という話を学校で聞いた。
で、学校帰りに「公声堂レコード店」に寄って、買ったLPレコード
ワシは間違えてB面(CDじゃなくレコードなんでAB面があったのよ)から聴いてしまったのだが・・スピーカーから流れてきたのは
「ダンダカダッダ、ダダダダ、ダカダカダッダ・・・」というすざましいまでのドラム・・そしてヘヴィなリフ、、物凄いヴォーカル・・もう痺れまくったね。
A面から聴いていたらそこまでの衝撃は受けなかったのかもしれないが、、未だにワシの大好きな曲ベスト10には必ず入るあの超大作「STARGAZER」を聴いて、ここでまたワシの人生が変わった。というかこれを聴いてそして広島県立体育館で彼らのライブを体験して(これがワシの人生で初めてのライブ体験)人生が変わったんだろうね・・・ワシも聴いてるだけじゃなくてバンドをやろう と心に決めたワシが生まれた。
高校生になってからも相変わらずの音楽三昧。ギターとベースを親にねだって買ってもらって、バンド活動も開始した。当時みんな親にギターは買ってもらえるのだが、ベースをやりたいというやつがいなかったので、ワシは家ではギターを練習していたが、バンドにはベースで参加した。コピーも当時は今のようにタブ譜もなかったし楽譜もそうそうなかったので、もっぱら耳コピーバンドでやるのにまずベースをコピーして、自分で楽しむためにギターをコピーするという日々が続いた。これがよかったんだろうねまずベースラインをしっかりコピーしてからギターをコピーしていくということを当たり前に繰り返したことが、今のワシの即興演奏やアドリブ、セッションなどに生きている。
コンサートにも学校休んで、東京、大阪、博多と行けるだけ行った。あの当時呉の片田舎に暮らしててあれだけたくさんの洋楽ROCKのコンサートに行った高校生って、ワシら以外にはまず、いなかっただろうね・・・そのためには「キセル」とか悪いこともしたけどさ
自分の将来の方向性も決まった
ミュージシャンになるために、どんなヘボい大学でもいいから、東京の大学に合格して、東京で音楽で生きていこう・・
親は音楽には反対していたが、音楽をするためではあるけど大学にいくために勉強していたので、音楽をすることは黙認していたという感じだった・・・
この頃・・ワシが高校生の時代・・はHARD ROCK界はまさに暗黒の時代だった世界中ではイギリスから発生した「パンクロック」「ニューウェイブ」がはびこっていて、レッドツェッペリン等ハードロックは「オールドロック」と言われ時代遅れのものとされていたのだ・・テクニックなんかまったくなくても想いだけで安易にできる「パンク」はまさに世の中を席巻していた。ワシのまわりにも破れたTシャツ着て、中指つっ立てて陳腐な単語を並び立てて叫ぶパンクロック野郎が急増していった。バンド仲間の中にもそっちに傾いていくやつもいた。
このままだったら、いくら東京の大学に受かっても、方向性を変えない限りワシらのようなHARD ROCKは廃れていくばかりだな・・・と思っていた頃・・・そう高校3年生のころ、イギリスから、奇跡とも言えるあのBANDのデビューアルバムが発売された。
・・・・・・・・後半へ続く