サドルの革がだいぶ傷んできたので、貼り替えることにした。
座面の皮をはがすと中のクッション材をだめにしてしまいそうなので、その部分は残したまま、周りに張り付けてある革だけを切り取った。つまり、元の座面の古い革の上に新しい革を重ねて貼ることにしたのだ。
こんな風に出来上がった。まあまあ納得。
さっそく出かけてみた。
金山落の谷津の、この間の火事跡だよ。すっかり片付けられている。大した火事にならなくてよかった。
すっかり春めいた暖かい日差しの中、広々としたのどかな谷津の道をのんびりと走って行く。
しばらく走り、谷津道から少し入った切通の坂道の途中の石段を上がると、円林寺というお寺の山門があった。天台宗のお寺だ。
本堂は春の日差しを浴びてひっそりと静まっている。こんな雰囲気は好きだなあ。
このお寺は、定かではないが、鎌倉時代頃の創建と推定されているようだ。
本堂前にあるのは天台宗の開祖伝教大師・最澄像だ。
本堂右手にはたくさんの石仏が並んでいる。
南無大師遍照金剛とある。弘法大師像だ。しかし、弘法大師は真言宗の開祖だが、このお寺は天台宗だよ。天台宗の開祖・最澄と弘法大師・空海とは、ともに遣唐使として中国に渡っていて深い関わりがあるのはわかるが、なぜ天台宗のお寺に真言宗の弘法大師像があのか、仏教界のことは難しくてよくわからない。
藤ヶ谷カントリークラブの横を通る道だ。車がほとんど通らない静かな道だよ。いいねえ。
広々と広がる大津川の谷津をちょっとした高台から眺める。
いつもの手賀沼自転車道だよ。コブシが満開だ。
風も弱くとても穏やかな景色だ。
手賀川の堤防上の道、斜面を彩る菜の花が明るい。
おや、これはすごい!ホトケノザの群生だ。たいがい田んぼの畔などに小さくかたまって生えているのだが。
マスクを二重にし、ゴーグルもしっかりつけていたけれど、時々鼻水とクシャミに襲われ、目もやたらかゆくて弱った。花粉の量がすごく多い一日だったようだ。
座面の皮をはがすと中のクッション材をだめにしてしまいそうなので、その部分は残したまま、周りに張り付けてある革だけを切り取った。つまり、元の座面の古い革の上に新しい革を重ねて貼ることにしたのだ。
こんな風に出来上がった。まあまあ納得。
さっそく出かけてみた。
金山落の谷津の、この間の火事跡だよ。すっかり片付けられている。大した火事にならなくてよかった。
すっかり春めいた暖かい日差しの中、広々としたのどかな谷津の道をのんびりと走って行く。
しばらく走り、谷津道から少し入った切通の坂道の途中の石段を上がると、円林寺というお寺の山門があった。天台宗のお寺だ。
本堂は春の日差しを浴びてひっそりと静まっている。こんな雰囲気は好きだなあ。
このお寺は、定かではないが、鎌倉時代頃の創建と推定されているようだ。
本堂前にあるのは天台宗の開祖伝教大師・最澄像だ。
本堂右手にはたくさんの石仏が並んでいる。
南無大師遍照金剛とある。弘法大師像だ。しかし、弘法大師は真言宗の開祖だが、このお寺は天台宗だよ。天台宗の開祖・最澄と弘法大師・空海とは、ともに遣唐使として中国に渡っていて深い関わりがあるのはわかるが、なぜ天台宗のお寺に真言宗の弘法大師像があのか、仏教界のことは難しくてよくわからない。
藤ヶ谷カントリークラブの横を通る道だ。車がほとんど通らない静かな道だよ。いいねえ。
広々と広がる大津川の谷津をちょっとした高台から眺める。
いつもの手賀沼自転車道だよ。コブシが満開だ。
風も弱くとても穏やかな景色だ。
手賀川の堤防上の道、斜面を彩る菜の花が明るい。
おや、これはすごい!ホトケノザの群生だ。たいがい田んぼの畔などに小さくかたまって生えているのだが。
マスクを二重にし、ゴーグルもしっかりつけていたけれど、時々鼻水とクシャミに襲われ、目もやたらかゆくて弱った。花粉の量がすごく多い一日だったようだ。
文中の円林寺は何なんでしょうね。
きっとその昔は真言宗だってのでしょうか。
それが何代か前の住職の時になんかの縁で天台に改宗されたんですかね。
天台は日本仏教の母みたいな宗派ですからね。
ある意味なんでもござれ・・・・・・
いやいや、そんなこともありますまい。
浅き春の夢見しってところでしょうか。
『当寺は金山地区のほぼ中央に当たる正陵上に位置し、低い道路を隔てて鳥見神社の境内に隣接している。この低い道路は、東西に走る道路から直角に生じて北方に向かうが、この三叉路によって寺社の境内が二分される地形は珍しく、歴史的にその密接な関係を示唆するものである。
現に、当寺では愛宕神社の祭神を本堂内に祀り、「愛宕山」の山号をもっているが、その祭りは鳥見神社で行われている。また、供養塔・記念碑の類は、神仏を問わず大半が神社の境内に建立されていることなどからも、地区の住民にとっては社寺一体的な信仰が古い歴史をもっていることが知られる。
当寺の創建は不詳である。何度も戦火や火災に遭ったため、古記録等は伝えられていない。本寺の泉倉寺でも詳しいことは判明しない。ただし、泉倉寺は下総地方きつての天台宗の古利であり、円林寺は前住職の青木覚淳師までで四十三代を数えること、境内墓地には中世の板碑が存在することなどから、その創建はおそらく中世前期ごろまでは遡りうるものと推定される。
ところが、この寺域の辺りは、戦国期には千葉氏一族の砦の一部であったといわれている。なるほど、地形的には三方の低地を見おろす高台であり、特に東方は水田を隔てて白井町方面を遠望できる天然の勝地であるから、この伝承は事実であろう。したがって、戦国末期には当寺も兵乱に巻きこまれ、大きな変遷をとげたものと思われる。
本堂内には、江戸初期の院殿居士号の位牌二基を祀る。一基は元禄五(一六九二)年三月二十七日没と刻まれているから、江戸初期には大檀越の帰依をうけて伽藍の複興などがなされたことを思わしめる。
境内は、南側の道路から石段を登った上に山門があり、正面に本堂がある。山門は総欅造りで両袖付き天井張りの江戸期の建物であり、本堂は江戸中期ごろに他の建物を払い下げて用いたものといわれる。内陣の欄間には鳳凰と孔雀の精巧な彫刻がみられる。もと茅葺きであったが、昭和四十六年五月にこれを鉄板で覆った。
境内向かって右手の高台には、かつて釈迦堂が存したという。現在ここを”釈迦堂跡”と呼んでいるが、詳しいことは知られない。本堂内に現存する厨子入りの釈迦如来像が、かつてこの堂宇の本尊であったものと思料される。(「沼南町史」より)』
との事なので、途中で改宗と言う様子も有りませんね。
今度、住職に聞かれた方がよろしかろうと。
でも、仏教に詳しいBさんなら、きっと謎を解明して教えていただけると思っていたんです。
でも、やっぱり謎ですか。
しかし、Bさんの言う通り、「天台が日本仏教の母みたいな宗教…」というのが実は真相に触れているような気がします。
サドルは、もともとは1500円くらいの安物でビニール張りだったんです。革を張ったのは今回で2度目で、次に汚くなったら新しいのを買おうと思っているんです。