臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(7月26日掲載分・其のⅡ・訂正版)

2010年07月29日 | 今週の朝日歌壇から
○ CGのごとき豪雨の大被害夕餉の箸をとめて見入りぬ  (奈良県) 久米朋尚

 「CG」とは、和製英語<コンピューター・グラフィックス (Computer Graphics) >の略である。
 本作の作者は、豪邸の食堂に置かれたテレビの大型画面に映った「豪雨の大被害」の様子を「CGのごとき」と詠んでいるのであるが、この場面での本作の作者の気持ちはそれほど単純では無い。
 先ず、本作の作者は、その「豪雨の大被害」を視て驚いているに違いない。
 しかし、その<驚き>の質は、その「豪雨の大被害」が、やがてはそれに見入っている自分たちにまで及ぶものであるから恐ろしい、といった質の<驚き>とは異なった<驚き>である。
 つまり、本作の作者は、テレビ画面に映る「豪雨の大被害」のニュースを、言わば<対岸の火事を眺める視点以下の視点>に立って眺めているのである。
 本作の作者がこのニュースを、仮に<対岸の火事>を眺めるような視点に立って見入っているのだとしたら、そのニュースから作者は、何事かを得るに違いない。
 例えば、最低でも、「地震・水害・火事・家内」とか、「備え無ければ憂いあり」とか、「天災とは忘れざるべからざるものなり」といった、世俗的教訓程度のものは得られるに違いない。
 しかし、本作の作者の、この「豪雨の大被害」に対する対処の仕方は<対岸の火事を眺める視点以下の視点>に立っての対処の仕方であるから、間も無く、自分が視ているテレビ画面からその図柄が消えると、「豪雨の大被害」のことなどすっかり忘却してしまい、やがて、自分の視ているテレビ画面に『お馬鹿女性タレント勢揃い』といったタイトルの番組が映ると、本作の作者の目線は、出演する<お馬鹿女性タレント>たちの、顔や胸元に集中するに違いない。
 それにも関わらず、歌詠み上手の作者は、本作の下の句を「夕餉の箸をとめて見入りぬ」などとして、実社会の出来事を詠んだ作品らしく、作者自身も亦、実社会に立脚した歌人らしく装って詠んで魅せるのである。  
  〔返〕 バーチャルな世界の豪雨の大被害<対岸の火事>とふにも足らず   鳥羽省三


○ 梅雨晴れの大忙しのついでにと黒猫洗ふシャワワと洗ふ  (土岐市) 澤田安子

 束の間の「梅雨晴れの大忙し」だったならば、「ついでに」と「黒猫」を洗ったりしないで、緊急を要する別の作業をすればいいのに、とも、人の良い評者などは思ったりもする。
 しかし、「大忙し」と言いながらも、その「ついでに」と、緊急を要しないことをやったりするのが、人間心理の面白いところである。
 そこの辺りに事情を、極めて限定された評者の過去の実体験に基づいて説明すると、学生時代の怠惰な生活に慣れた作者が、あの川端康成の『雪国』の世界に痺れたのは、再履修した「仏語Ⅱ」の再試験を明日の午前中に控えた、昭和三十九年一月末の深夜のことであった。
 「黒猫洗ふシャワワと洗ふ」という表現が宜しい。
 「黒猫」という漢字と「シャワワ」というカタカナの、バランス乃至はアンバランスが大変宜しい。
 久し振りの沐浴の気持ち良さと水の冷たさに、「黒猫」が「シャワワ」と身震いしているような感じなのである。
  〔返〕 梅雨晴れの大忙しに背を向けて詰め碁している亭主憎らし   鳥羽省三


○ 子蛙を狙いて鼬のひそみおり葦の葉しげる古墳の濠に  (岸和田市) 南 与三

 大阪平野一帯は、言わば「古墳」の巣である。
 その<巣>状態を成している「古墳」に巣穴を作って棲息している「鼬」が、「古墳」周りの水辺に生い「しげる」「葦の葉」を掻き分けて、時折り出没し、「古墳の濠」に棲む「子蛙」の哀れな命を餌にしようとして狙うのである。
 とまで、述べてしまったが、本作をよくよく熟読すると、本作に詠われている内容は、あくまでも、作者・南与三さんの極めて限定された過去の見聞に基づいてなされた推測に過ぎないのであり、現実には、未だ「鼬」が出没していないし、「子蛙」の命も貪欲な「鼬」の食欲の犠牲になっては居ないのである。
  〔返〕 子蛙を狙ふ鼬を捕らへんと罠を仕掛くる岸和田をとこ   鳥羽省三
 この<返歌>も亦、南与三さん作から齎される極めて限定された情報を基に、極めて限定された評者の想像力に基づいての想像を加えての想像の産物なのである。


○ 田植機の後ろを母は早苗持ち足擦るやうに補ふてゆく  (神戸市) 小田玲子

 作中の「母」は、水田の中の狭過ぎて「田植機」が入れない箇所や「田植機」が植え損なった箇所に「早苗」を補植しているのである。
 新型「田植機」の運転台にデンと鎮座ましまして、田植機を自在に操っているのが、その「母」のご亭主殿の<父>である。
 その<父>の妻である「母」は、哀れにも、「田植機の後ろ」から「早苗」を「持ち」、泥濘に「足」を取られながらも、身を「擦るやうに」して、「早苗」を水谷に補植して行くのである。
 「農家に嫁にやるな、農家から嫁を貰え」という諺がある。
 農業の機械化が進んだ挙句に農業が基幹産業の座を退いた今、「田植機」が植えた水田の<補植>は、農家の主婦か、主婦に代わる女性の仕事であり、絶滅寸前の日本の農家の家族制度や農村の後進性のシンボルのような仕事である。
 「足擦るやうに」が、<補植>という仕事の困難さと農家の主婦の座に在る者の辛さを物語っているのである。
 「補ふてゆく」と言うだけの表現は、一般読者にとっては、意味が極めて不分明であると思われるから、「補植して行く」にした方が宜しいかも。
  〔返〕 補植する母の姿は騎馬武者の後に随ふ家来の如し   鳥羽省三              


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