臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(7月26日掲載分・其のⅢ・決定版)

2010年07月30日 | 今週の朝日歌壇から
○ 原発と火発を抱くふるさとの真野の萱原海風渡る  (下野市) 若島安子

 本作の作者の若島安子さんは、現在は栃木県下野市にお住いであるが、彼女の「ふるさと」は福井県越前市味真野町でありましょう。
 福井県越前市味真野町一帯には、2007年3月時点で十三基の「原発」が密集している他に、火力発電所も在ると言う。
 それらの発電所施設は、日本海からの「海風」が吹き付ける「萱原」の中に建てられているのでありましょう。
 「海風」の吹き荒れるに任せる他無く、水稲耕作や畑作も思うままにならない荒地に「原発」を誘致して、市財政の不足を補おうと考えた人々や利権に与ろうとした人々と、「原発」の自然破壊や健康被害を憂慮した人々の間には、激しい意見の対立や長い抗争の歴史があったのである。
 その為、「原発」誘致派が勝利して、この土地が<原発銀座>などという蔑称で呼ばれている現在に至っても、その激しい<対立>と<憎悪>の記憶が、この土地に住んでいる人々の心の中ばかりでは無く、この土地に生まれ、この土地から離れている人々の心の中にも、鮮明に残っているのでありましょう。
 したがってこの一首は、今となっては<原発銀座>となってしまった「ふるさと」に対する限りない郷愁と、複雑な心情を込めて詠まれているのである。
 「ふるさとの真野の萱原」には、日本海からの冷たい「海風」が「渡る」のであるが、その「ふるさと」は「原発と火発を抱くふるさと」なのである。
 「萱」という植物は、水田にも畑にもならないような<荒地>に生える植物である。
 <荒地>とは、単なる土地の荒れる様を言い表わしている言葉であるだけではなく、人間の心の荒れる様を言い表わしている言葉であるかも知れない。
 「原発と火発を抱くふるさと」と言う表現は、裏返しにして言えば、「原発と火発に抱かれたふるさと」という表現になる。
 人によってはこの越前市味真野町のことを、「原発と火発」に抱かれているが故に、ありとあらゆる福祉施設や文化施設が揃っていて、全国有数の暮らし易い土地として羨む向きもある。
 それなのにも関わらずに、本作の作者・若島安子さんは、その懐かしく豊かな「ふるさと」のことを、「原発と火発に抱かれたふるさと」と言わずに、「原発と火発を抱くふるさと」と言ったのである。
 「原発」を抱いている者は、何時いかなる時に、自分が抱いている「原発」に、しっぺ返しを食らわせられるかも知れない。
 本作の作者の「ふるさと」が、何時いかなる時に、チェルノブイリ化するかも知れないのである。
 ささやかとも思われるそうした表現の違いに、本作の作者・若島安子さんの「原発」に対する否定的な姿勢が感じられ、読者としては、一首全体に込めた、作者・若島安子さんの切ない心情を感得するべきでありましょう。
  〔返〕 原発に抱かれている故郷の物の豊かさ心の貧しさ   鳥羽省三


○ 屋上より見れば路上を行く人がある角度にて伸び縮みする  (豊橋市) 鈴木昌宏

 評者は、「路上を行く人がある角度にて伸び縮みする」という表現の正確な意味を把握している訳では無い。
 だが、その意味はなんと無く分かるような気もする。
 「屋上より見れば路上を行く人」が<蟻ん子のように見える>とか<豆粒のように見える>といった表現は有り触れているが、「屋上より見れば路上を行く人がある角度にて伸び縮みする」という、という風景の捉え方と表現とは、短歌表現としては全く目新しいものである。
 着眼点及び表現が素晴らしい。
  〔返〕 屋上に夜景望めば東名は赤い尻尾の蛍のラッシュ   鳥羽省三
 鈴木昌宏さんの傑作に較べれは、私の<返歌>は極めて俗っぽい。
 発想や着眼点を鈴木昌宏さんの作品に倣いながら、このような駄作しか詠めないところに、評者の歌才の限界が感じられる。   


○ スーパーに初めて並ぶ「青森牛」産地いっきに北へと移る  (防府市) 尾辻のぶほ

 これ亦、着眼点良し。
 肉牛も、これまでは<前沢牛>や<羽後牛・三梨牛>といった名称は耳にし、食べたこともあったが、それより北の「青森牛」と言う名の牛肉は、食べたことも聞いたことも無かった。
 沈むものが在れば浮かぶものが在る。
 大変不躾な言い方ではあるが、「スーパー」に「青森牛」が並び、肉牛の「産地」が「いっきに北」へと移ったのは、一種の<口蹄疫>効果、<宮崎>効果でもありましょう。
  〔返〕 大間まぐろ林檎と太宰の青森に牛が居たとはつゆも知らない   鳥羽省三


○ 鹿児島は今頃きっと梅雨ならむあの鬱陶しさがいまは恋しき  (アメリカ) 郷 隼人

 本作の作者・郷隼人さんの現在の居住地は、湿度が低くて空気の爽やかな、あのアメリカ西海岸の刑務所である。
 などと言えば、「アメリカ西海岸の空気は爽やかであっても、刑務所内の空気は決して爽やかではありませんよ」などと仰って、本作の作者・郷隼人さんや、心あるその知人の方々は、大変ご立腹なさることでありましょう。
 それはともかくとして、台風銀座とも言われ、「梅雨」がいち早く訪れる、あの「鹿児島」の「梅雨」の頃の「あの鬱陶しさ」が、今となっては、大変懐かしくて恋しいと、カリフォルニアの刑務所に服役中の郷隼人さんは仰っているのである。
 そうした気持ちは、今は塀の外に居る評者の私にも、決して解らないではありません。 
  〔返〕 刑務所は今頃は未だ真夜中で眠れぬままに隼人は歌作   鳥羽省三
 この<返歌>は、日本時間の七月二十八日午後一時に詠みました。


○ 真珠束ネルにくるみて彼の広きテキサス巡りし日々もまぼろし  (舞鶴市) 吉富憲治

 今でこそ舞鶴湾に釣り針の付いていない釣り糸を終日垂れている吉冨憲治さんではありますが、つい先年までは、アメリカ在住の傑出した歌人として、<朝日歌壇>を毎週のように賑わしていたものでした。
 その吉冨憲治さんの滞米中のご職業が、「真珠」販売業者であったことを評者は初めて知りました。
 察するに、吉富憲治さんは、日本産「真珠」を輸入して、「テキサス」に限らず、北米全土に、いや世界中に販売する商事会社の経営者であったのであり、今では功成り名を成し遂げて、故郷・舞鶴で悠々自適の生活をお楽しみになって居られるのでありましょう。
 しかし、その吉冨憲治さんの口から、「真珠束ネルにくるみて彼の広きテキサス巡りし日々もまぼろし」などと言う、渡世人めいたお言葉をお聞きすると、評者は、往年の名画『テキサス無宿』を思い出してしまうのである。
 おそらくは作者ご自身も亦、その事を多分にご意識なさった上で、この一首をお詠みになったのでありましょう。
  〔返〕 プラ製の二丁拳銃腰溜めに西部劇など演じたことも   鳥羽省三  
 この<返歌>は、若年の頃、素人劇団の<斬られ役、撃たれ役、振られ役>専門の俳優をやってたこともある、評者の実体験に基づいて詠んだ駄作である。


○ 公田さん居ること願い炊き出しの冷麺くばる寿地区センター  (横浜市) 大須賀理佳

 作者の大須賀理佳さんとしては、<朝日歌壇>の入選作たり得んとの目算があって、この作品を大真面目にお詠みになったのではありましょうが、その策略に嵌って、これを入選作とした、二人の選者の酔狂(か狂態かは存じませんが)には呆れる。
 <朝日歌壇>に、<ホームレス歌人・公田耕一>を名乗る人物が投稿し、毎週のように入選していたのは、今となっては半年以上も前の出来事であり、インターネット歌壇の一部や他紙の読者からは、<ホームレス歌人・公田耕一架空説>なども囁かれていたのである。
 それを今更、何をか言わんや。
 仮に、<ホームレス歌人・公田耕一>が実在していたとしても、それはあくまでも<朝日歌壇>内での実在に過ぎなかったのである。
 それなのに、事もあろうに、「公田さん居ること願い炊き出しの冷麺くばる寿地区センター」とは何たる言い条。
 仮に、「寿地区センター」の「冷麺」の「炊き出し」が、本作に詠まれた如く、「公田さん」が「居ること」を願って行われたものだとすると、「寿地区センター」という行政機関の行事が、一個人の為に行われたことになり、この「炊き出し」の恩恵に与った「公田さん」以外の人々は、「公田さん」の余禄に与ったことになりましょう。
 そんなことでは、「寿地区センター」という行政機関が、「公田さん」以外の<ホームレス>の方々を、どのように考えているか、と言うことが問われることになりはしませんか?  
 いずれにしろ、この作品が<朝日歌壇>の二人の選者によって選ばれて紙面を飾ったのは、<夢よもう一度>という、朝日新聞社の愚劣な宣伝策以外の何ものでも無い、と評者は思うのである。
  〔返〕 看板に「公田さんへ」と書いてたか? 地区センターの冷麺炊き出し   鳥羽省三 


○ 観光バスにわれらは行けり山道の歩き遍路を追ひ越しながら  (東京都) 長谷川瞳

 私が<四国霊場・八十八ヶ所>の巡礼を企てた頃には、「遍路」と言えば、<自転車遍路>も<タクシー遍路>も無く、ただひたすら自前の足で歩くしか無かったのである。
 だが、<国家財政の危機>が声高に叫ばれているわりには、人々が贅沢な暮らしをしている昨今では、かつての私のように自前の足で歩く遍路を、(尊んでのことなのか卑しんでのことなのかは判然としないが)「歩き遍路」などと、二重表現とも思われるような言い方をしていて、その他に、<バスツァー遍路>や<タクシー遍路>や<自家用車遍路>といったような、およそ「遍路」の名に相応しくない紛い物の「遍路」も在り、察するに、紛い物のそちらの方が、<四国霊場・八十八ヶ所巡り>の主流を占めているらしい。
 本作の作者・長谷川瞳さんは、どうやら昨今の主流派の<バスツァー遍路>であったらしく、その途中で、本来の意味での「遍路」たる「歩き遍路」を「追い越し」たと、(得意げにか、得意げにでは無いか、その胸の内は判然としないが)仰っているのである。
 斯く仰る、<似非遍路・長谷川瞳さん>の胸の内や如何に。
  〔返〕 歩き遍路の貧乏たかれを追い越すとスカッとするねベンツ遍路は   鳥羽省三
 本当は、「ベンツ遍路」よりも「歩き遍路」の方が数倍も経費が掛かり、数十倍もありがたいのである。
 ところで、「歴代の総理大臣中、最も<貧乏たかれ>の総理大臣」と言われている、現在の総理大臣は、あの<四国霊場・八十八ヶ所>のごく一部を巡った時、<テクシー遍路>だったのでしょうか、<タクシー遍路>だったのでしょうか?
  〔返〕 建前は<テクシー遍路>現実はバスもタクシーも使った遍路   鳥羽省三


○ 空高くドクターヘリで運ばるる吾が身に響くエンジンの音  (八戸市) 山村陽一

 本作から「ドクターヘリ」という言葉を除いた時、一体何が残るのだろうか?
 仮に、「ドクターヘリ」を除いて、<護送用ヘリ>にすると、「空高く護送用ヘリで運ばるる吾が身に響くエンジンの音」となり、作者が山岳犯罪の容疑者みたいな感じの一首となり、物語性が更に増大するかと思われる。
  〔返〕 空高く「警察ヘリ」で運ばるる我が身は願ふ墜落すること   鳥羽省三


○ 人、車、猫も通らぬ夜半の辻に信号四機が和して色変う  (和泉市) 長尾幹也

 着眼点や発想は大変宜しいが、「信号四機が和して色変う」という下の句の表現中の「変う」に疑問在り。
 「変う」とは、「変える」の意の文語「変ふ」を、現代仮名遣いで表記したものでありましょうが、それは幾らなんでも、あんまりな仮名遣いでありましょう。
 評者は必ずしも、短歌の表現中に文語を用いるのを否とする者ではありません。
 しかしながら、一首中に助動詞や動詞など、やむを得ず文語を用いなければならないような場合は、一首全体の仮名遣いを、<古典仮名遣ひ>に統一するべきであると思う。
 それが道理というものであるが、その道理が道理で無くなっているのは、昨今の短歌結社の選者や幹部クラスの歌人の不勉強と怠慢と会員獲得への飽く無き執念の賜物以外の何ものでもありません。
 評者がこんなことを言い出すと、「そんな些細なことはどうでもいいでは無いか。短歌表現とは、もっと気楽で自由なものだ」などと異論を称える者が続出し、中には、血相を変えてコメントを寄せたり、メールを遣したりする者も居りますが、そんなお馬鹿な<自由党員>の言い分を、私は一切認めませんから悪しからず。
 一首の短歌が、口語短歌であるか、文語短歌であるかを判断する材料は、ひとえに使用している語に依るべきでありましょう。
 本作の場合は、第五句目が「和して色変える」では無く、「和して色変う」となっている以上は、これは明らかに<文語短歌>と看做すべきでありましょう。
 それを「色変ふ」と表記しないで、敢えて「色変う」と表記したのは、不勉強が原因の小手先細工としか言いようがありません。
 この作品を投稿した作者も愚かであり、これを入選作とした選者も亦、愚かである。
 <朝日歌壇>の長尾幹也さんと言えば、その詠歌力は、今や日本全国有数のものである。
 今からでも遅くはありません。
 糾すべきところは、潔く糾しましょう。
 この傑作の表現について、もう一言申し述べると、三句目の「夜半の辻に」は、場所を示す格助詞
「に」を除いて、「夜半の辻」とするべきかも知れません。
 この点は、好みの問題でもありましょうが。
  〔返〕 人、くるま、蟻も通さぬ非常線 口蹄疫が易々越える   鳥羽省三


○ 本当に時間はあるの? さわれるの? めぐる円環? 永遠の直線?  (八尾市) 水野一也 

 こんな場所で、こんな大きな声では言えないような事なんですけれども、「時間」というものは、「本当」は、砲丸をもっともっと大きくしたような<球>が坂道を転がって行く状態なんですよ。
 中に人が入れるような空洞が出来ている巨大な球が、緩やかだったり急だったりする坂を転がって行く状態が「時間」なんですよ。
 その中に僕らが入って坂を下る時、ぼくらは「時間」を感じるのである。
 巨大な球の空洞の部分に入って坂を下る時、恐怖の余りに僕らは思わずその巨大な球の内側に触れる。
 僕らが「時間」を感じるということは、要するにそういう事なんですよ。
 したがって、「時間」というものに、僕らは「さわれる」。
 いや、僕らが「時間」に「さわれる」と言うよりも、僕らが巨大な鉄の球の中に居て、その内側の部分に触っていること自体が、「時間」を感じるということですから、「さわれる」とか<さわれない>とかについて、あれこれと議論するべきではありません。
 それから、時間は「めぐる円環」か、それとも「永遠の直線」か、という点ですが、それは「時間」というものを感じる、各個人の認識の問題でありまして、何とも言えません。
 あのウィーン名物の観覧車に乗って、円環状の空間をひたすら前へ前へと向かって行く間だって、「時間」というものは、確実に、直線的かつ円環的に過ぎて行くのですから。
  〔返〕 時間とは有限にしてかつ無限百年生きても一睡の夢   鳥羽省三  


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