[特選一席]
○ 幼等が捏ねては投ぐる泥土にまじる蓬のわか葉匂へる (うきは市) 大津留直
「投ぐる」「まじる」「匂へる」などと文語を用いているが、それに対応した“古典仮名遣ひ”の正しさも見逃してはなりません。
うろ覚えの者ならば、「まじる」を「まぢる」とし、「匂へる」を「匂える」として、鑑賞者に笑われる場面もありましょう。
〔返〕 泥んこの子供らと群れ帰る道よもぎ若葉の香も芳しく 鳥羽省三
[同二席]
○ 何万年変わらぬ姿石にありメタセコイアの葉はやはらかし (鳥取市) 林美奈子
「やはらかし」は“古典仮名遣ひ”を用いての表記である。
したがって、「変わらぬ」は「変はらぬ」とするべきでありましょう。
生田緑地「岡本太郎美術館」前にて
〔返〕 屋上の「母の塔」撫で吹く風の冷たき朝をメタセコイアは佇つ 鳥羽省三
[同三席]
○ 一枚の葉もなき児童公園よコンクリートにきしむブランコ (世田谷区) 芹澤弘子
「一本の樹もなき」と言わずに、「一枚の葉もなき」と言っているのである。
そんな「児童公園」が、世田谷区内に実在するのでありましょうか?
一昨年、私たちが仮住まいをしていた埼玉県川口市には、そんな感じの小さな「児童公園」が確かに在ったのですが、それでも、数本の植樹がなされ、真夏にはささやかな木陰を作っておりました。
世田谷区内の公園と言えば、私にとって忘れられないのは、関東中央病院の行き帰りに必ず目にした“砧公園”の緑の佇まいである。
あの公園には、いつもいつも緑の風が吹いておりました。
〔返〕 一枚の歯も無き老婆が口空けて「ほっちさえげ」と犬に吼えてる 鳥羽省三
[入選]
○ お茶の葉を茶筒に満たしおくくらし貧しき日日の姑(はは)の夢なり (むつ市) 立花惠子
「米櫃に米をきらさないようにする」とか、「お茶の葉を茶筒に満たしおく」とかが、本作の「姑」ならずとも、「くらし貧しき」昔の女性たちのささやかな願望の一つであったのでありましょう。
私の父方の伯母の一人の願望は、「台所に二級酒が入った酒瓶をきらさないようにしたい」ということでした。
とは言っても、彼女が酒飲みだった訳ではありません。
彼女の夫が無類の酒飲みで、「仕事から帰って来て直ぐに、妻の私がコップ酒を出さないと暴れだすから」という切ない思いからの哀しい願望に因るものでした。
〔返〕 哀れなる伯母の願ひの一つにて封を切らない酒瓶二本 鳥羽省三
○ 悉く枝葉払はれし街路樹は兵馬俑のごと雨に小暗し (堺市) 梶田有紀子
「街路樹」を整然としたものに育成する為とは言え、毎年初冬になると残酷な思いをするのは、あの「街路樹」を剪定している様である。
つい昨日まで街の景観を作っていた「街路樹」の枝葉を切り払い、「お前は、こうして街路を往く人や車を眺めていれば良い。決して手出ししたり口出ししたりしてはいけないぞ」とばかりの冷酷無情なことをするのが、「街路樹」の剪定という作業の本質である。
剪定作業が済み、枝葉を切られてしまった後の「街路樹」の様子には、数千年の間、一定のスタイルを強いられて地下に眠ることを余儀なくされた「兵馬俑」のイメージと重なる何かが在ったのでありましょう。
末尾の「雨に小暗し」という七音が、その暗いイメージに追い討ちを掛けているような感じである。
〔返〕 悉く原発を停め日本はドイツイタリアと同盟を組め 鳥羽省三
○ おおい雲ようたの浮かばぬ木偶ひとつ乗せてってくれ言葉の森へ (三原市) 岡村禎俊
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか 山村暮鳥作『雲』より
歌を詠めない歌人ともなれば、あの詩人・山村暮鳥にでも相談するしか無いのでありましょう。
〔返〕 おーい、歌人よ。詠めない時には、無理して詠まなくてもいいんじゃないの。 鳥羽省三
○ 葉の長さ測るがに這ふ天道虫葉先に行きて飛び立ちにけり (阿波市) 川村文雄
「葉の長さ測るがに這ふ」のは、「天道虫」よりもむしろ「尺取虫」の役割でありましょう。
だが、「葉先に行きて飛び立ちにけり」という下句の表現は、小さな身体で「葉」の上を這う「天道虫」の様子を観察しての表現である。
〔返〕 容疑者の腹量るがに目を見つめ自白を迫る刑事の遣り口 鳥羽省三
○ 見遣れども霞掛かった未来なれば剥がせ鱗を私の目から (宗像市) 内田満帆
「見遣れども霞掛かった未来なれば」、絶望して何もかも諦めてしまうのが当然の遣り方である。
然るに、本作の作者は、決して諦めることをしないで、「剥がせ鱗を私の目から」と、観察眼を百八十度変えて展望を図ろうとするのである。
〔返〕 見遣れども見えないはずだ霞立ち雲に隠れた吉野の桜 鳥羽省三
○ 顔上げて気づけば光る葉桜に日にち薬の効用を知る (鹿児島市) 和田真由美
本作の是非は、今では死語同然となった「日にち薬」という言葉の解釈、及び「葉桜」という語の解釈に係っていると思われる。
で、「日にち薬」とは、「どんなに悲惨な経験をしても、『日にち』が経てば、心は自然に癒される」という意味でありましょう。
また、「葉桜」はただの「葉桜」であるが、通常ならば、「葉桜」では無く「満開の桜」を見て「日にち薬の効用を知る」ということになるのであり、それを「満開の桜」としないで「葉桜」として点に、本作の趣きの深さが在るのでありましょう。
〔返〕 顔上げて鏡を見れば禿げ頭日にち薬も効くはずが無い 鳥羽省三
○ 幼等が捏ねては投ぐる泥土にまじる蓬のわか葉匂へる (うきは市) 大津留直
「投ぐる」「まじる」「匂へる」などと文語を用いているが、それに対応した“古典仮名遣ひ”の正しさも見逃してはなりません。
うろ覚えの者ならば、「まじる」を「まぢる」とし、「匂へる」を「匂える」として、鑑賞者に笑われる場面もありましょう。
〔返〕 泥んこの子供らと群れ帰る道よもぎ若葉の香も芳しく 鳥羽省三
[同二席]
○ 何万年変わらぬ姿石にありメタセコイアの葉はやはらかし (鳥取市) 林美奈子
「やはらかし」は“古典仮名遣ひ”を用いての表記である。
したがって、「変わらぬ」は「変はらぬ」とするべきでありましょう。
生田緑地「岡本太郎美術館」前にて
〔返〕 屋上の「母の塔」撫で吹く風の冷たき朝をメタセコイアは佇つ 鳥羽省三
[同三席]
○ 一枚の葉もなき児童公園よコンクリートにきしむブランコ (世田谷区) 芹澤弘子
「一本の樹もなき」と言わずに、「一枚の葉もなき」と言っているのである。
そんな「児童公園」が、世田谷区内に実在するのでありましょうか?
一昨年、私たちが仮住まいをしていた埼玉県川口市には、そんな感じの小さな「児童公園」が確かに在ったのですが、それでも、数本の植樹がなされ、真夏にはささやかな木陰を作っておりました。
世田谷区内の公園と言えば、私にとって忘れられないのは、関東中央病院の行き帰りに必ず目にした“砧公園”の緑の佇まいである。
あの公園には、いつもいつも緑の風が吹いておりました。
〔返〕 一枚の歯も無き老婆が口空けて「ほっちさえげ」と犬に吼えてる 鳥羽省三
[入選]
○ お茶の葉を茶筒に満たしおくくらし貧しき日日の姑(はは)の夢なり (むつ市) 立花惠子
「米櫃に米をきらさないようにする」とか、「お茶の葉を茶筒に満たしおく」とかが、本作の「姑」ならずとも、「くらし貧しき」昔の女性たちのささやかな願望の一つであったのでありましょう。
私の父方の伯母の一人の願望は、「台所に二級酒が入った酒瓶をきらさないようにしたい」ということでした。
とは言っても、彼女が酒飲みだった訳ではありません。
彼女の夫が無類の酒飲みで、「仕事から帰って来て直ぐに、妻の私がコップ酒を出さないと暴れだすから」という切ない思いからの哀しい願望に因るものでした。
〔返〕 哀れなる伯母の願ひの一つにて封を切らない酒瓶二本 鳥羽省三
○ 悉く枝葉払はれし街路樹は兵馬俑のごと雨に小暗し (堺市) 梶田有紀子
「街路樹」を整然としたものに育成する為とは言え、毎年初冬になると残酷な思いをするのは、あの「街路樹」を剪定している様である。
つい昨日まで街の景観を作っていた「街路樹」の枝葉を切り払い、「お前は、こうして街路を往く人や車を眺めていれば良い。決して手出ししたり口出ししたりしてはいけないぞ」とばかりの冷酷無情なことをするのが、「街路樹」の剪定という作業の本質である。
剪定作業が済み、枝葉を切られてしまった後の「街路樹」の様子には、数千年の間、一定のスタイルを強いられて地下に眠ることを余儀なくされた「兵馬俑」のイメージと重なる何かが在ったのでありましょう。
末尾の「雨に小暗し」という七音が、その暗いイメージに追い討ちを掛けているような感じである。
〔返〕 悉く原発を停め日本はドイツイタリアと同盟を組め 鳥羽省三
○ おおい雲ようたの浮かばぬ木偶ひとつ乗せてってくれ言葉の森へ (三原市) 岡村禎俊
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか 山村暮鳥作『雲』より
歌を詠めない歌人ともなれば、あの詩人・山村暮鳥にでも相談するしか無いのでありましょう。
〔返〕 おーい、歌人よ。詠めない時には、無理して詠まなくてもいいんじゃないの。 鳥羽省三
○ 葉の長さ測るがに這ふ天道虫葉先に行きて飛び立ちにけり (阿波市) 川村文雄
「葉の長さ測るがに這ふ」のは、「天道虫」よりもむしろ「尺取虫」の役割でありましょう。
だが、「葉先に行きて飛び立ちにけり」という下句の表現は、小さな身体で「葉」の上を這う「天道虫」の様子を観察しての表現である。
〔返〕 容疑者の腹量るがに目を見つめ自白を迫る刑事の遣り口 鳥羽省三
○ 見遣れども霞掛かった未来なれば剥がせ鱗を私の目から (宗像市) 内田満帆
「見遣れども霞掛かった未来なれば」、絶望して何もかも諦めてしまうのが当然の遣り方である。
然るに、本作の作者は、決して諦めることをしないで、「剥がせ鱗を私の目から」と、観察眼を百八十度変えて展望を図ろうとするのである。
〔返〕 見遣れども見えないはずだ霞立ち雲に隠れた吉野の桜 鳥羽省三
○ 顔上げて気づけば光る葉桜に日にち薬の効用を知る (鹿児島市) 和田真由美
本作の是非は、今では死語同然となった「日にち薬」という言葉の解釈、及び「葉桜」という語の解釈に係っていると思われる。
で、「日にち薬」とは、「どんなに悲惨な経験をしても、『日にち』が経てば、心は自然に癒される」という意味でありましょう。
また、「葉桜」はただの「葉桜」であるが、通常ならば、「葉桜」では無く「満開の桜」を見て「日にち薬の効用を知る」ということになるのであり、それを「満開の桜」としないで「葉桜」として点に、本作の趣きの深さが在るのでありましょう。
〔返〕 顔上げて鏡を見れば禿げ頭日にち薬も効くはずが無い 鳥羽省三