臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

『かりん』(4月号)掲載の愛川弘文さんの短歌七首(コメント御礼宅配便)

2014年06月15日 | 結社誌から
        『夕 景』

(千葉・愛川弘文)
〇  縹から茜に変わる夕景が胸に沁み入る教室の窓

 年の頃五十代半ばとも今少し若いとも思われる男性が、二月上旬の夕方、千葉県内のとある高校の、とある部屋の窓辺に置かれた生徒用の椅子に腰掛け、辺り一面が縹色に染めて晴れ上がった冬空を眺めている。
 彼はこの高校の国語教師であり、彼の居るこの部屋は、彼の受け持ちクラスが使用している教室なのだ。
 彼は先程から身動き一つせずに、この教室の窓辺で何かを待ち続けている様子なのだ。
 彼が待っているものは何か?
 彼は、終鈴が鳴って帰宅時間が訪れるのを待っているのか?
 彼は、この高校の体育館でバレーボールの練習に励んでいる少女が、練習を終えて彼の許へ進路相談に訪れるのを待っているのか?
 否、否、彼は何かを、誰かを待っている訳では無くて、彼は先程から身動き一つせずに、この教室の窓辺の小さな椅子に座り、刻刻と変わり行く冬空の景色を眺めながら、彼自身の残り少ない、この高校の国語教師としての時間を眺めていたのかも知れない。
 彼が眺めていたものが何なのかは、彼が待ち続けていたものが何なのかは、この佳作の評者の私には勿論、作者の彼自身にさえ判然としないかも知れない。
 然し乍ら、斯くしている間にも、彼の腕に嵌められている電波式腕時計の針は少しずつ進み、先程までは縹色に染まっていた冬の大空が、今は先程よりは赤さを増して、軈ては茜色に染まって行くのである。
 「縹から茜に変わる夕景」は、彼のこの高校の国語教師としての残り少ない時間を、彼の残り少ない人生の時間を刻一刻と消耗させながら、この頃、頭髪に少しずつ白髪が目立って来た、彼のセンチメンタルな胸の奥に染み入るのである。
 帰宅時間を告げる終鈴はまだ鳴らない。
 進路相談を予約している少女は、体育館からまだ帰って来ない。
 彼に与えられた人生の時間はますます少なくなり、彼の表情と、灯りの点いていないこの教室内の光景とは、少しずつ暗さを増して行き、間も無く夜が訪れようとしているのである。
 〔返〕  縹から茜に変る夕景色 帰宅時間をスマホが告げる
      縹から茜に変る夕空を電波時計の六時が走る
 本作の表現に就いて一言することが許されるならば、評者としての私は、次の一点に就いて僅かながらも不満を感じているのである。
 即ち、作者の愛川弘文さんが、本作を「縹から茜に変わる夕景が」という色彩感覚豊かな十七音を以って詠い起こし、四句目に「胸に沁み入る」との感情表現を介在させた上で、「教室の窓」という体言止めの七音で以って収束させている点、つまり、本作に用いられている語句の全てが、修飾文節として末尾に置かれた「(教室の)窓」という名詞一語に重く圧し掛かって行く、一文一首の形式に拠って詠まれている事が、評者としての私にとっては、あまりにも惜しまれるのである。
 ならば、如何に詠むべきか?
 かく申す私にも、さしたる代案を示す事は出来ませんが、「『教室の窓』から見える『夕景』が、時間の進行と共に『縹から茜』に変り行く様子」を、「胸に染み入る」といった余計な感情表現を介在させずに、即物的かつ客観的に捉えて表現すれば、そろそろ老境に差し掛かろうとしている国語教師の追い詰められたような心境を表す事が可能だったのかも知れません。


 〇  海越しの冬の夕富士あかあかと定年近き教師と話す
 
 本作の作者の愛川弘文さんは、千葉県にお住いの高校教師であり、彼が勤務する高校は、眼下に東京湾を望む丘の上に建てられているものと推測される。
 だとすれば、彼の勤務する高校の教室からは、東京湾の「海越し」に富士山の雄姿を一望する事が出来るはずである。
 仄聞乍ら、愛川弘文さんが所属する結社誌「かりん」には、「作品締め切りは前々月の十日」といった、厳格な投稿規定が定められているとのことでありますから、愛川弘文さんが本作をお詠みになった時期は、寒さ盛りの一月下旬もしくは二月上旬と思われる。
 上の句に「海越しの冬の夕富士あかあかと」とあるが、作中の「夕富士」は、折からの夕陽を受けて「あかあかと」染まり輝いている「富士」であり、しかも「冬の夕富士」と、その季節が限定されているのであるから、葛飾北斎の描く「凱風快晴」に見られる「赤富士」とは似ていて非なる、「全山一色に真っ白な雪を戴いた上に、赤々と夕陽に染まり輝いている富士」なのである。
 本作の作者の愛川弘文さんは、そうした「夕富士」を遠望する教室の窓辺に居て、同僚の「定年近き教師」と、先刻から何事かに就いて話し合っているのである。
 愛川弘文さんと「定年近き教師」との対話の内容に就いては、評者の私としては、いちいち忖度するつもりはありません。
 だが、本作に接して、私が拘ってみたいのは、三句目の「あかあかと」という5音の「係り」及び「働き」に就いてなのである。
 即ち、作中の「あかあかと」という5音は、「海越しの冬の夕富士」という連文節を受け、それを修飾しているのであるから、作中の「冬の夕富士」が、単なる雪の綿帽子を被った「夕富士」であるばかりでは無くて、「山麓から山頂まで皚皚と雪化粧した上に、折からの夕陽に染まって『あかあかと』光り輝いている夕富士」である事を示しているのであるが、それと共に、この「あかあかと」という修飾語には、後続の「(定年近き教師と)話す」の連用修飾語としての役割りもあるから、作者と「定年近き教師」との間で交わされている対話の内容や彼ら二人の対話の様子が、「あかあかと」熱を帯びたものであることをも示しているのである。
 〔返〕  海越しに冬の赤富士望みつつ窓際教師の語る繰り言


〇  あと四年 定年までの年月を想い夕べの富士に向かえり

 開口一番、本作の作者は「あと四年」と、覚悟とも諦念ともつかない一言を発してしまうのである。
 その言葉通りに、作者の愛川弘文さんに残された「定年までの年月」は、まさしく「あと四年」でしかないのである。
 その、ほんの「四年」でしかない「定年までの年月を想い」ながら、本作の作者の愛川弘文さんは、この三月末に定年退職の日を迎える先輩教師の方と、赤々と光り輝く「夕べの富士」に向かいながら、あれこれと尽きなき思い出話に耽っているのである。
 赤々と燃え輝いているのは、何も東京湾の海越しに一望される、名峰・富士山ばかりではありません。
 定年退職後に遣ろうとしている事に就いて語る時の先輩教師の頬や目、また、在職中に果たそうとして果たし得なかった事柄に就いて語る時の先輩教師の頬や目、そして何よりも、彼の心の奥底に未だ消えずに残り燻っている胸の燠は、折からの夕陽を受けて、赫赫として燃え輝いていたはずである。
 また、先輩教師の話に耳を傾けつつも彼の心の奥底を慮っている、本作の作者・愛川弘文さんの胸底の燠も、赫赫として燃え輝いていたはずである。
 〔返〕  あと二年待たねばならぬ初戦にて心ならずも負けたるジャパン


〇  両肺に針先ほどの転移ありと父は努めて明るく語る

 題材が突如として、勤務校での体験に取材したものから、身辺事情に取材したものに移り変わったのは、如何なる事情に因るものなのか?
 冒頭に本連作の総題として置かれた「夕景」の二字が、単なる形式的なものでは無いとしたら、十首連作中の六首のみが選歌されて、結社誌「かりん」誌上に掲載させれたものとも判断されるが、本作の内容が、不治の病とも言われる癌を患っている作者の父親の健康事情に取材したものであることを思うと、総題としての「夕景」と本作の内容との間には、それ程の齟齬
が認められないものとも判断されるのである。
 それともう一点。
 前掲の二作品と本作の間には、「夕景」という連作のタイトルに相応しく、「薄暗闇の中で、静かに静かに流れて行く時間の気配」が窺われ、後出の三作品も含めて、そうした点に於いても亦、作者の愛川弘文さんが、本連作の総題として「夕景」の二字を置いた事に、評者の私は納得する事が出来るのである。
 「両肺に針先ほどの転移あり」という、必ずしも平常心では語れない事柄を「努めて明るく語る」「父」こそは、いかにも本作の作者の父親に相応しい父親であり、平常からの「父」と「子」との語らいの様子なども窺わせて、連作中第一番に推奨するべき作品かと判断されるのである。
 〔返〕  「両肺」と「針先ほどの」に覗える父の思いと子の思いやり


〇  いじらしき重さありけり揺れ残る小枝を去れる冬の雀に

 一首の意は「父の病室の窓から見える、椿の木の『小枝』が、未だ微かに『揺れ残』っているが、それはこの木の枝に止まって花を啄んでいた『冬の雀』が、ついさっき、飛び去っていったからであろう。とすると、あの小さな『冬の雀』の身体にも、いじらしいくらいにささやかな『重さ』というものがあったのだなあ」といったところでありましょう。
 「冬の雀」のいじらしい程の身体の「重さ」に心を寄せる作者は亦、父の病状にも心を寄せている作者でありましょう。
 作品の背景となった場所や作者の立ち位置をそれと指定していないところが、一首の内容に深みと温かみを持たせていて素晴らしい。
 前掲の「両肺に針先ほどの」と比較しても、甲乙付け難い程の秀作であり、評者好みの作品でもある。
 〔返〕  いぢらしき心なりせば若草の雀の子らを犬君が逃がす


〇  さりげない言葉のうらにさす潮の満ち干を感じ生徒相談

 ついさっき、私は、この連作の一首目の鑑賞文を記すに際して、「彼は、この高校の体育館でバレーボールの練習に励んでいる少女が、練習を終えて、彼の許へ進路相談に訪れるのを待っているのか?」という件を、「彼は、この高校の体育館でバレーボールの練習に励んでいる少年が、練習を終えて、彼の許へ進路相談に訪れるのを待っているのか?」としようか、それとも、そのままにして置こうかと迷ったのであるが、そのままにして置いたのが、やはり正解でありました。
 と言うのは、この傑作の三句目から四句目への渡りの叙述が「(さりげない言葉のうらに)さす潮の満ち干を感じ」となっているからである。
 「さす潮の満ち干を感じ」とは、作者・愛川弘文さんのご勤務なさっている高校が、海端に位置する事をさりげなく示しているのかも知れませんが、私たち読者は、それと共に、「潮の満ち干」と女性の生理との関わりを忘れていてはなりません。
 という事になると、謹厳実直を以って知られる、国語教師・愛川弘文教諭が、定年退職を四年後に控えているにも関わらず、「今、目前の小さな椅子に腰掛けて、担任教師である彼に進路相談を持ち掛けている少女に微かな性欲を感じている」という事にもなりかねませんが、人間誰しも生殖機能を持ち、特に男性の場合は、遣い古し、貪り尽くした古女房よりも若い女性の方が良い、と考えがちでありますから、それはそれで致し方の無い事でありましょうし、その上、そうした点が少しぐらい在るのが、この連作の魅力でもありましょう。
 〔返〕  さりげなき言葉の裏に射す影を感じられつつ進路相談


〇  「先生は」で途切れたままの作文の続き聞きたく聞かずに過ぎぬ

 本作鑑賞の要諦は「『先生は』で途切れたままの作文の続き」を、あれこれと推測してみることにもありましょうか?
 「先生は」と言い差した後、一刹那の間を置き、その後、何を言い出すのかと、身体を堅くして待ち構えていると、それっきり何も口にしなくなる少女が居て、私も現役教師の頃にさんざん悩んだものでありましたが、本作の作者の愛川弘文教諭も亦、同じような思いをなさったのでありましょうか?
 〔返〕  先生は潮の満ち干に教え子の生理を感じ慄いている


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