臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

結社誌「かりん」8月号より(其のⅠ)

2016年09月24日 | 結社誌から
[岩田欄]
○  わが部屋に仏壇あれば不信心のわれも亡き父母とともに寝起きす  (川崎)岩田正

 「わが部屋に仏壇あれば不信心のわれも亡き父母とともに寝起きす」という一首は、読んで字の如し、格別なる解説や解釈を要しない作品と思われる。
 だが、私たち読者は、本作を鑑賞するに当たって、これを構成する、「わが部屋(に)→仏壇あれ(ば)→不信心のわれ(も)→亡き父母(と)→ともに寝起きす」いう、四個の連文節に込められた、岩田短歌一流の屈折した心理や批評精神や反骨精神、更には、斯かる事態が現出するまでに至った、経過や事情に対する怨念の情をまで感得せざるを得ません。
 そして、それと同時に、岩田短歌の傑作・代表作として知られている、「イブ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年」、「妻は書きその腰の辺にわれ眠る妻夜遅くわれ朝早し」、「オルゴール部屋に響けり馬場さんよ休め岩田よもすこし励め」、「妻にのばす稀となりたる両の腕どのやうに寝てもつくづくと邪魔」などの作品を鑑賞する場合と同様に、一首の表現の中に込められたユーモア精神や人間愛を読み取ることも忘れてはいけません。
 ところで、昨今の我が国の都市住民の住居・即ち〈食う寝る所、住む所〉は、秋田県などの辺鄙な地方のそれと比較した場合は、地価の高さが主たる原因となって、あまりにも狭小であり、彼ら、都市住民の間では、当座の暮らしに不必要な家具や家財道具などは、出来る限り買わないようにする事、室内に置かないようにする事が、家族同士で交わされた暗黙の約束事項のようなものとなっている。
 従って、本作にも登場する「仏壇」などは、信仰の如何を問わず、都会生活には不必要なものとして認識されていて、可能な限り小型化する傾向にあり、先祖代々伝えられるそれなどは、〈家庭生活を現代化し合理化し、便利なものにする為の余計者・邪魔者以外の何者でも無い〉という共通認識が広く行き渡っているのである。
 私は、容貌や姿かたちはともあれ、その内実は、決して、決して盗鼠小僧次郎吉や鬼平犯科帳に登場する〈引き込み女〉の如き存在ではありませんから、岩田・馬場ご夫妻の邸内に忍び込んんだり、その周辺を探索したりした経験はありませんし、ましてや、岩田・馬場ご夫妻の所持する、父祖伝来の「仏壇」が、どれくらいの大きさなのかも知りませんが、ご夫妻の年齢は、「足して二で割っても九十(歳)以上の数値を示す」ことになる訳ですから、それ相当の大きさであり、豪勢さでありましょう。
 ならば、その置き場を巡っての問題が、ご夫婦間の〈喫緊に解決すべき大問題〉としてクローズアップされること必定であり、そうした場合の判断の基準は、ご夫妻相互の力関係や来客の頻度などに依って決定されるのが、一般的かつ常識的かつ合理的な傾向でありましょう。
 とすると、岩田・馬場ご夫妻の場合は、その力関係から判断しても、来客の頻度から判断しても、その「仏壇」は、妻・馬場あき子の私室にも、来客の多いリビングルームにも、応接間にも、廊下や風呂場やトイレの隅などのも置くことが出来ないということになり、結果的には、我が国を代表する短歌作家であり、短歌評論家であり、歌人・馬場あき子の夫でもある、岩田正の〈寝室兼プライベートルーム〉が、岩田正・馬場あき子家の仏間を兼ねるということになり、夫・岩田正ご本人の父祖代々、ご両親のご位牌は勿論のこと、妻・馬場あき子のご両親や継母のご位牌までがぎっしりと詰まって置かれた「仏壇」が、必ずしも広くない、その室内に置かれる結果となるのは必定でありましょう。
 ところで、本作の二句目に「不信心(のわれ)」とあるのは、決して、決して、彼・岩田正が父祖を敬う心に欠けた人間、ご両親のご恩を忘れた人間であることを説明している訳ではありませんし、また、四、五句目が「われも亡き父母とともに寝起きす」となっているからと言って、彼・岩田正が妻・馬場あき子のご親族の霊を無視し、冷遇し、それと「ともに寝起き」することを嫌っている、せめてもの抵抗精神の発露として拒否している、と解釈する必要はさらさらにありません。
 とまで、岩田正・馬場あき子ご夫妻に対する、いわれの無い悪口雑言めいたことを、あれこれと書き連ねて参りましたが、本作に対して、こうした論評を為すことは、ややもすると大きな誤解を生む虞れ無しとしませんから、この論評の筆を措くに当たって、一言釈明させていただきとう存じます。
 こうした軽口めいた論評を為すことに依って、私・鳥羽省三は、何も、「岩田・馬場ご夫妻の間で、仏壇設置場所をめぐって、冷たく見苦しい陣取り合戦が交わされいる、その勝利者となったのは、短歌結社〈歌林の会〉の主宰の馬場あき子であり、夫・岩田正は、歌壇に於けるその地位や序列が低く、かつ、歌人としての力量や指導力が、妻・馬場あき子より劣っているが故に、自室を仏間とされるような惨めな立場に立たされている」などと主張している訳ではありません。
 その点に就いては、結社誌「かりん」に結集なさって居られる方々や、満天下の短歌ファン、馬場あき子ファン、岩田正崇拝者の方々には、よくよく申し添えておかなければなりません。
 何卒、宜しくご理解賜りたく、衷心よりお願い申し上げます。


○  雨の匂ひしんしんと身にしみとほり六月われはかならず病める  (市川)日高堯子
   じんましん夜の総身に噴き出でてかきむしる背を蛾があまた飛ぶ

 「六月われはかならず病める」とあるところから判断すると、歌人・日高堯子の胸底は、「梅雨期『六月』ともなれば、『われはかならず病める』ということが、〈確信〉と言うか、〈諦め〉と言うか、ほぼ間違いの無い確定的かつ自虐的な心理」に、占領されているのでありましょう。
 ところで、歌人・日高堯子が「じんましん」に罹ったのは、巷間にいわゆる、〈弱り目に祟り目〉という俗信の如く、「六月」になって、彼女の内蔵が弱ったからでありますが、それへの対応策として、傑出した歌人・日高堯子ご自身が、痒くて痒くてたまらなくなってしまって、我が背中を掻くことになり、そうした彼女の身体回りを、彼の憎っくき『蛾』どもが、ばたばたと奇しき羽音を立てて、『あまた飛』び回る光景こそは、まさしく〈六月の日高家の怪談〉であり、〈千葉県市川市の都市伝説〉の一つでもありましょうが、それにしても、お可哀想な一事ではありましょう。
 一首目に見られる「雨の匂ひしんしんと身にしみとほり」という表現、及び、二首目に見られる「じんましん夜の総身に噴き出でて」や「かきむしる背を蛾があまた飛ぶ」などの表現などは、ややもすると、わがままに生きんことを望む老女がよくする大袈裟な表現、過激にして自己本位な表現とも受け取られましょうが、決して、決して、そのような性質のものではありませんし、こうした表現こそは、傑出した歌人・日高堯子を特徴付ける傑出した表現として賞賛すべきでありましょう。


○  マツコデラックス消せばもひとりマツコデラックスあらはれてをり夜のテレビに  (千葉)川野里子

 「マツコデラックス消せばもひとりマツコデラックスあらはれてをり夜のテレビに」とは、「『夜』になって、他の家族の者たちも寝静まり、自分も格別に遣ることがないから、ひさしぶりに『テレビ』でも見ようかと思ってリモコンのボタンを押したところ、たまたま現れた画面に、格別に好きなタレントでもない『マツコデラックス』の大きな図体が現れたので、「ああ、初っ端から嫌なものを見てしまった!」という気持ちになり、他のチャンネルボタンを押してみたら、其処にもあの『マツコデラックス』の巨大で醜悪な図体が映し出された」という感じの言い方であり、描写である。
 こうした私の解釈とは別に、本作の作者・川野里子さんにとっての「マツコデラックス」という存在は、格別に嫌悪するべき存在として、この作品に登場させているのでは無いかも知れません。また、彼(彼女か?)の存在が格別に大きいと言いたい訳では無いかも知れません。
 即ち、「遣ること無しの深夜に、たまたま点けてみたテレビの画面にあの大きな図体が映っていて、そのことを格別に嫌悪した訳でも無しに、他のチャンネルボタンを押してみたら其処にもあの大きな図体が現れた、という偶然が、作者をして一首を為さしめたのでありましょう。」
 それはそれとして、昨今の民放テレビの「マツコデラックス」ブームには呆れ果ててしまって、ゲテモノ嫌いな私としては、「民放テレビの画面に、あの巨大で醜悪な図体が存在するが故に民放テレビは低俗である」と言いたい気持ちにさえなってしまいます。
 斯くして、私・鳥羽省三は、あの巨大で醜悪な図体に向って叫びたくなるのである。
 人間は〈シン・ゴジラ〉でも〈シロナガスクジラ〉でもないから、大きければいいと言うものではありません!
 また、特に女性は、一貫目いくらで売る〈豪州産の牛肉〉でも、〈隣国製の豚肉入り餃子〉でもないから、肥っていれば太っているほど喜ばれると言うものでもありません!
 しかも、あの「マツコデラックス」と言ったら、いつもいつも、吉野熊野の山奥に捨て置かれている、何だか知らない古代宗教の御神体の守護神が怒ったような、あの醜い面貌をしているのである。
 我が家のテレビには、あの肥満体は、絶対に絶対に映らせたくはありません!
 何がデラックスだ!
 何が人気タレントだ!
 「マツコデラックス」よ、お前はこの際、三途の河原まで彷徨って行き、此岸と彼岸の隙間を塞ぐ役割でも果たしなさいよ!
 「マツコデラックス」よ、お前は地獄の底まで墜ちて行き、閻魔大王の尻の穴でも拭いていなさいよ!
 斯くして、本作の作者のそれはともかくとして、本作の偏屈な評者・鳥羽省三の、「マツコデラックス」に対する嫌悪の情の披瀝は、いつ果てることもなく続いて行くのである。 


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