臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

結社誌「かりん」8月号より(其のⅡ)

2016年09月25日 | 結社誌から
[岩田欄]

○  汚染土をひき受けたるは子どもらの学校といふ、黙すほかなし  (横浜)池谷しげみ

 「子どもらの学校」が、「吾が愛し子たちが通学している学校」という意味だとしたら、五句目の「黙すわかなし」は、一般的には、エゴ丸出しの言い方とも受け取られましょうが、「ごく平凡な母親の言い方としては、格別に非難するには当たらない」と評者には思われます。


○  一年の半分が夏のような島何か少し憎み始める  (沖縄)松村百合子

 この作品の鑑賞を通じて、「作者・松村百合子の石垣島暮らしを切り上げたい」という気持ちを伺うことが出来るので、評者の私には、短歌作品としての評価は別のこととして、とても興味深い内容の作品でした。
 大震災直後に仙台暮らしから逃亡した俵万智が、石垣島暮らしを続ける事ができた理由の一つには、「本作の作者・松村百合子があるから」だとは、短歌関係者から私が直接聴いたことであるが、その俵万智が石垣島暮らしから脱して、宮崎に転居してしまった今となっては、本作の作者にも、「そろそろ石垣島暮らしを止めようかな」といった気持ちになっているのかも知れません。
 どうせ他人のことですから、どうでもいい事かも知れませんが?


○  みづぎわに近づいてくる蟇蛙ゆるゆる地球の地軸をまわれ  (川崎)池内桂子

 歌材となっているのは、「一匹の『蟇蛙』が、松尾芭蕉作の〈古池や蛙飛び込む水の音〉よろしく、作者のご近所の古池に飛び込んだ後、その池の『みづぎわに近づいて』来て、その辺りをぐるぐると回って泳いでいる光景」である。
 作者の池内桂子は、「件の『蟇蛙』がぐるぐると回って泳いでいる古池の『みずぎわ(=平面)』を、『地球の地軸』と捉えている」のであるが、そもそも「『地球の地軸』とは、地球が自転する際の軸であり、北極点と南極点とを結ぶ、回転運動をすることがない直線」を指して言う言葉であり、北極点でも南極点でも無い古池、件の「蟇蛙」がぐるぐると回って泳いでいる古池は、「地球の基軸」であり得ようはずがないのである。
 と、言うことになりますと、本作に描かれている世界は、「老境に達しても尚、乙女のような夢を見ることを止めない老女が見た幻想世界」ということになりましょうか?
 とまで書いて来て、たった今気が付いた事ですが、私は、この作品を鑑賞するに当たって、作中の語「蟇蛙」と「みづぎわ」にこだわるあまり、ついうっかりと松尾芭蕉作の「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句を枕に置いて論を展開してしまったが、その間違いに気が付きました。
 と言うのは、件の一句を頭に置くと、作中の「みづぎわ」は、芭蕉の句に登場する「古池」の如き極めて小規模な「みずぎわ」に限定されてしまい、件の「蟇蛙」は、「地球の地軸」から遠く遠く離れた、日本のとある古池の「みずぎわ」に「近づいてくる」事になってしまい、池内桂子作の本作のスケールの大きさに気付かず、「この作品に描かれているのは、老境に在りながら、未だに夢見ることを忘れない老女、科学的知識に欠けた老女の見た夢と憧れの世界である」などという、月並みで平凡な結論に到達してしまうからである。 
 よくよく熟慮してみると、作者の池内桂子が、作中の「みづぎわに近づいてくる蟇蛙」に「ゆるゆる」「まわれ」と願い、激励している「みづぎわ」は、前述の如き「みづぎわ」、松尾芭蕉の俳句の世界の古池の「みづぎわ」、小さくて枯れていて濁った水がたまっている、哀れな「みづぎわ」などでは無く、「地球の地軸」の最北端の北極点の周りに在る、測定しようもなく広大な池の「みづぎわ」でなければならないのである。
 本作の作者・池内桂子は、その途方もなく巨大な池の「みづぎわ」に佇んで、その「みづぎわ」の水面に「近づいてくる」幻の「蟇蛙」に向かって、「蟇蛙よ、私の心の中の幻の蟇蛙よ、お前は、私の眼前に在る、『地球の地軸』の周りの巨大な池を『ゆるゆる』と「まわれ」、『地球の地軸を』『ゆるゆる』と『まわれ』」と、祈るような気持ちで願い、激励しているのでありましょう。 


○  さみどりはさやげる山の色香ともマゼンダ燃ゆる卯月尽なる  (小野田)高崎淳子

 一首の意は、「今は、空や空に漂う空気や風までがマゼンダ色に燃える卯月尽である。その空の下に在ってさやさやと音を立てて揺れている山は、さみどり色に染まっているのであるが、その爽やかな山のさみどり色は、自然の恵の色であり、香りでもある」といったところである。
 内容、形式、共に整った佳作であり、老境に在る作者・高崎敦子の明るく爽やかなロマンチシズムを短歌形式で現出した一首でもありましょう。


○  なにとなく過差を好めるその猫をたの(も)しき美女とかねて思へり  (浜田)寺井 淳

 此処にも一個のロマンチストの存在を認めることが出来た。
 かつては〈裏日本〉なる蔑称で以て呼ばれ、今となっては、県単独では参議院議員を選ぶことさえも許されていない島根県の浜田市にも、寺井淳という、猫好きのロマンチストが棲息していたのである。
 「過差」とは、「分に過ぎたこと。分不相応なおごり。ぜいたく」の意であるが、かつての裏日本の島根県の浜田市には、果たしてそんな「猫」、浜田市のロマンチスト寺井淳をして、「たの(も)しき美女」を思わしめた「過差を好める」「猫」が棲息しているのでありましょうか?
 と、言うことになりますと、一般的かつ常識的な傾向として、私たち日本の男性は、美女と呼び得るような女性に対して、「『過差を好める』性格であれ、貴女ぐらいに美しかったら、どんなに贅沢三昧の生活をしていても、私は決して文句なんか言わないぞ!」と思い願っていることになりますが、事の真実は果たして如何ならむや?

○  真顔なし猫とコロブチカ踊るわれをつまは目を細めみしにあらずや  (浜田)寺井 淳

 私としたことが、迂闊にも、事の真実を見誤ってしまったようだ!
 と言うのは、島根県の寺井淳なる男性を、ついさっき、私は「此処にも一個のロマンチストの存在を認めることが出来た。/かつては〈裏日本〉なる蔑称で以て呼ばれ、今となっては、県単独では参議院議員を選ぶことさえも許されていない島根県の浜田市にも、寺井淳という、猫好きのロマンチストが棲息していたのである。」などと、褒め称えてしまったのであるが、仮にでも、彼が「真顔なし猫とコロブチカ踊る」としたら、彼は「一個のロマンチスト」なんかでは無くて、世間によく在る、単なる〈猫好き〉〈猫きち〉の一人でしかない、ということになりましょう。
 それにしても、彼の奥さんは大変だ! 
 


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