極端な自意識過剰から一般社会との関係を絶ち、地下の小世界に閉じこもった小官吏の独白を通して、理性による社会改造の可能性を否定し、人間の本性は非合理的なものであることを主張する。人間の行動と無為を規定する黒い実存の流れを見つめた本書は、初期の人道主義的作品から後期の大作群への転換点をなし、ジッドによって「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」と評された。
江川卓 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)
この小説に出てくる主人公は小心者で独善的で自意識過剰な気分屋だ。
地下室に引きこもっている彼は手記というタイトルの通り、小説内で彼自身の思想を余すところなく伝えている。その思想は幾分偏屈な面はあるものの、核心をついているものも多い。
直情型の人間は壁にぶつかると本心から挫折するとか、人間が復讐をするのは、そこに正義を見出すからだとか、社会主義的な理性が生み出した理想主義は続かないという卓見や、人間が愛するのは太平無事だけではないとか、その視点は鋭い。彼自身が自負しているように決して頭が悪いわけではないのだろう。
しかしそれらは地下室という自身の楼閣の中でつくり上げたものであり、ただの脳内の運動が生み出した抽象的な言説だ。彼が一旦外の世界に出れば、そういった論旨の鮮やかさとは裏腹な空回りした行動を取るだけでしかない。
将校と肩をぶつけるという話や、シーモノフたちと酒を飲んで相手を侮辱したり、かまってほしくて、うろうろと歩き回る姿には本当にバカバカしくて笑ってしまう。
自意識を肥大化し、自分の誇りが傷付けられたのをいつまでも恨み、他人にどう見えるか異様なくらい意識し、それでいてさびしがり屋でもある小心者らしい行動だが、地下室に生きる彼はでかいことを言うが、決して器用に立ち回れることができない。こういうタイプの人間は現代にも多くいそうである。僕を含め。
彼の問題点は(偉そうで、人のことを言える立場でないことを承知で述べるならば)、他人の立場になって物事を考えられないことに問題があるのだろう。
それもすべては他人と、まともに真正面からぶつかったことがないことを意味しているのかもしれない。
たとえばリーザとの会話などはその典型ではないだろうか。彼は自分の意見を語りたいがために、リーザに向かってずいぶんひどい口を利いている。それでいて彼はリーザに自分がどれだけひどいことを言っているか最後の方になるまで気付こうとしない。
空気が読めない、と言えばそれまでだが、彼は結局のところ、自分のこと以外には思いが回らないのだろう。
そんな彼ではあるが、リーザに自分の本心をぶちまけるという、まさに他人と真正面からぶつかることによって、相手と心が通じ合いそうな奇跡的な瞬間が訪れる。しかし結局彼はそれを踏みつけてしまう。
僕はこの作品は再読ではあるが、そんな彼の姿を以前と同様、哀れだと思わずにはいられなかった。彼はそういう形で自分自身の心を守ることに汲々とすることしかできない人間なのだろう。そういう思考法に陥ることしかできない彼の姿に対して悲しい感情を僕は抱いた。
中篇であるが、ドストエフスキーらしさの出た優れた一品である。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)
そのほかのドストエフスキー作品感想
『悪霊』
『カラマーゾフの兄弟』
『虐げられた人びと』
『白痴』
それにしても、100年以上前の作品にも関わらず、いま生きている僕らのトラウマをえぐるような作品を残しているって時点で、ドストエフスキーの底知れなさを感じます。
そこが僕に似ていて、読んでいて嫌な気持ちになりました。
そして自分よりも強い相手には何も言えない。
>頭でっかちで、自意識過剰で、自分のプライドを守るために攻撃的で。
その通りです!大学時代の僕がまさにそうでした。
こう言う作品も書けるドストエフスキーは凄いです!
僕も、この小説の主人公に似ている部分があるので、苦笑しつつも、読んでいて痛いものがありました。
頭でっかちで、自意識過剰で、自分のプライドを守るために攻撃的で。
ドストエフスキーにはいい作品が多いですが、『地下室の手記』は個人的には、ドストエフスキーの中では上位に入ります。
主人公があまりにも僕に似ているからです。
自分の弱さを認めない。
屁理屈こねて誤魔化す。
「罪と罰」「永遠の夫」「カラマーゾフの兄弟」とは全く違う作品。
参りました・・・。