二十歳の旧制高校生である主人公が孤独に悩み、伊豆へのひとり旅に出かけるが、途中旅芸人の一団と出会い、一行中の踊子に心を惹かれてゆく。人生の汚濁から逃れようとする青春の潔癖な感傷は、清純無垢な踊子への想いをつのらせ、孤児根性で歪んだ主人公の心をあたたかくときほぐしてゆく。雪溶けのような清冽な抒情が漂う美しい青春の譜である。ほかに『禽獣』など3編を収録。
出版社:新潮社(新潮文庫)
『伊豆の踊子』は名作と呼ぶにふさわしい作品である。
最初に本作を読んだのは、高校生のころで、そのときはほんのり切ない話だな、としか思わなかった。
だが三十過ぎてから読み直すと、そのポテンシャルの高さに気づかされる。
その理由の一つは、情感に訴えるような抒情性にあることは言うまでもない。
だがそれ以上に今回目を引いたのは、構成力の上手さにあるのだ。
主人公は若き川端を思わせる学生である。
彼は、旅先で旅芸人の一行と出くわし、一人の踊子に目をつけることとなる。
この当時の旅芸人はどうも蔑視されていたらしく、旅芸人村に入るべからず、という立て札が立てられているように、差別意識は露骨だ。
そしてそれは、旅芸人の中には、娼婦の役割を果たす者もいたことが大きいだろう。
だから「私」も最初踊子を目にしたときは、「踊子を今夜は私の部屋に泊らせるのだ」なんて、下心丸出しのことを考えたりしている。
しかし実際に踊子と話してみると、この踊子が実にうぶなのである。
それを見て、「私」は「峠の婆さんに煽り立てられた空想がぽきんと折れ」てしまう。
この転換が個人的にはおもしろかった。
そしてそれ以降「私」は、性欲ではなく、純粋な意味合いで、どこか子供じみたところの残る踊子のことをいとおしく思うようになる。
高校生のころの僕は、それをプラトニックな恋愛感情と思っていた。
けれどどちらかと言えば、妹を慈しむ兄、もしくは姪っ子にかまう伯父に近いように感じる。
何にしろロリコンっぽくは見えるが、思いつめたもののない分、慈愛?の側面が出ており、それが少し心地よくもある。
そして「私」は幼さの残る踊子の、純粋な姿に接するにつれて、偏見や、旅に出る前に抱いていた憂鬱が洗い流されていくこととなる。
「私」は短く触れられてはいるが、自分は「孤児根性で歪んでいる」という自己評価を抱いていた。
だがそんな彼も、「世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなく有難いのだった」という程度にまで、虚心な感慨に至ることとなる。
その流れが抜群に上手く、その構成力の卓越さには感服するばかりだった。
もちろん見ようによっては、「私」の考えは、傲慢なものとも言えなくはない。
インテリの高等遊民が、苦労しながら生きている旅芸人に勝手に幻想を重ねているだけという見方もできるからだ。
しかしそれを抜きにしても、この清新さと癒しの爽やかさと、それを導き出すまでの物語の運び方のすばらしさは見事というほかない。
そしてそう思うからこそ僕は、『伊豆の踊子』は名作と呼ぶにふさわしい作品である、と心から思うのである。
そのほかの作品もそれなりに楽しめる。
『温泉宿』
温泉地に住まう娼婦や女中の人生模様が、どこか物悲しい。
ずっと処女を大事に守っていながら、つまらない男と一緒になるお雪。
死ぬときは面倒を見てきた子どもたちに見送られることを夢見ていたのに、結局捨てられるように葬られるお清、など。
状況に左右されて、理想通りにいかない女たちの姿は、冬に向かう風景と相まって、哀愁を感じた。
『抒情歌』
独特の死生観に満ちており、その変てこな雰囲気が忘れがたい。
死んだ愛人を植物に見立て、呼びかけているが、たぶんそれは自分の恨みつらみといった情念が、男を殺したのではないか、という恐れを回避するための手段では、なんて思ったりする。
それはともあれ、変わった考えの独白がおもしろかった。
『禽獣』
主人公の男の冷淡な感じが印象的。
犬の出産や、雲雀の子、菊戴に対する彼の態度は、愛情をもって接しているように見えながら、捨てるときは、一抹の後ろめたさもなく、ゴミのように捨てている。
そしてそういった態度は人間に対しても同じだ。
彼は別れたむかしの女に対して、ずいぶん皮肉で冷たい見方をしているが、同じ女を愛した別の男は、いまでも別れた女のことを絶賛している。
そこから、人としてのある種の欠陥が浮かび上がってくるようで、少し悲しくもあった。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
そのほかの川端康成作品感想
『古都』
『眠れる美女』
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