「人はなぜ追憶を語るのだろうか。どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ」という美しい文章で始まる本書。
青年の心に浮かび上がる幼年期の記憶をつづった著者初の処女長編。
物語ははっきり言って、あって無いような物だ。
本書は少年期の記憶を中心に描かれている。その文章が繊細で、詩的で美しい。その文章によって描かれた世界も、文章とマッチした叙情的なものに仕上がっており、極めて印象深い。
例えば、この中で繰り返し語られている死に対する親近感、蝶に対する偏愛などはその端的な例だろう。その夢幻の風味さえ漂う描写には感嘆しっぱなしだ。それに少女たちに対する内気な少年の初々しい態度も、この繊細な文章には合っており、妙にほほえましく思う。
明確なプロット自体がほとんど存在しないため、それらの種々のエピソードが散文詩の様な趣きさえ漂っていて、浸るように読み進むことができた。
とはいえ、完全にプロットを意識せずに書かれた作品かと言うとそうでもなかったりする。
この作品のメインテーマとも言うべき少年期の記憶の使い方などはかなり巧妙で感心しきりだった。
本書の前半で語られている少年期の記憶が、長じてからふっとした拍子に甦る瞬間などは読んでいてもゾクゾクするものを感じた。何気ない情景の中でふっと甦る過去の記憶が極めて印象深く、美しくすらある。
特に鮮やかなのは霧の覆った山の上での情景だ。彼が「ママ」と呟く情景がすばらしい。彼の中で幼い内に家出をした母親の映像がいつまでも心に残り、ふとした拍子にそれが甦り、無意識のうちにその像を求めている。
記憶というものは確かに忘れたものではなく、埋もれているものなのだ。その明確なテーマ性が鮮やかに描き出されたシーンで忘れがたいものがあった。
確固としたストーリー性はこの作品には無いけれど、そのテーマ性の企みが見事な作品であった。
評価:★★★(満点は★★★★★)