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私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

折口信夫『死者の書・口ぶえ』

2013-11-20 19:54:53 | 小説(国内男性作家)

「した した した。」雫のつたう暗闇、生と死のあわいに目覚める「死者」。「おれはまだ、お前を思い続けて居たぞ。」古代世界に題材をとり、折口信夫(1887-1953)の比類ない言語感覚が織り上げる物語は、読む者の肌近く忍び寄り幻惑する。同題の未発表草稿「死者の書 続編」、少年の眼差しを瑞瑞しく描く小説第一作「口ぶえ」を併録。
出版社:岩波書店(岩波文庫)




『死者の書』は、幾分難解な作品である。
しかし同時に変に心をゆさぶる作品でもあった。

それもすべて、物語の雰囲気と世界観に依るものが大きい。
まるで長い詩を読み終えた後のような、ふしぎな読後感が深い余韻を残す一品だ。


舞台は古代で、主要な人物は、滋賀津彦こと持統天皇に殺された大津皇子であり、藤原南家の郎女ということになろう。
しかし時間軸がぐちゃぐちゃなせいか、二人の関係が見えづらく、関連もわかりにくい(もちろん何となくの想像はつくが)。

それに家持が出てきたのが中途半端に感じるし、結局、耳面刀自は思わせぶりに口にされたわりには、ほとんど触れられないままに終わるのも少し不満だ(たぶん耳面刀自の血縁者である郎女とシンクロさせるファクターとして使われたのだろうとは思うけれど)。


だけど物語の世界観は独特で、読んでいると引き込まれるものがある。
国文学者でもあった折口信夫の豊富な知識と、衒学的で擬古的な文章が、独自の味わいを生んでいるのはまちがいない。

それに擬音の使い方も、特徴的で目を引く。
冒頭の、した した した という水の滴る音もそうだし、機を織るとき、はた はた ちょう ちょう など、リズミカルでユニークでそれだけでも心に残る。

風景の描写もすばらしく、郎女が堂伽藍から奈良の山々を見渡すところなどは、雄大な雰囲気が出ていて、変に胸に響く。
これは作者が歌人でもあるからかもしれない。


もちろん物語全編を覆う幻想的な味わいも忘れがたい。
墓の中で目覚める滋賀津彦のイメージや、山田寺にやって来て、そこから機を織るまでの郎女の行動には、どこか幻想味があって、忘れがたい。
まるで抒情的な叙事詩を読んでいるような感覚を覚えてしまう。

そしてもっとも幻想的なのは、やはり最後のシーンだろう。
郎女が筆に載せて現した幻はたぶん滋賀津彦なのだ、と思う。

その解釈はともかく、その場面の映像の美しさと、郎女と滋賀津彦の時を越えた思いの交感を感じさせる内容は、非常に興味深く読めた。


この作品を理で説明することは恐ろしく難しい。
けれど、少なくとも心に届く。それだけでもすてきな作品と言えるだろう。



併録の『口ぶえ』は、個人的にはあまり合わなかった。
説明が不足しているように見えるし、イメージが汲み取りづらく、いくらかストレスを感じる。
しかし繊細さを感じさせる少年の姿や、自死を願う二人の姿はそれなりに印象に残った。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

中上健次『岬』

2013-11-02 06:09:45 | 小説(国内男性作家)

郷里・紀州を舞台に、逃れがたい血のしがらみに閉じ込められた一人の青年の、癒せぬ渇望、愛と憎しみを鮮烈な文体で描いた芥川賞受賞作。「黄金比の朝」「火宅」「浄徳寺ツアー」「岬」収録。
出版社:文藝春秋(文春文庫)




僕はこの本に★を5つつけるが、それもすべて表題作『岬』に負うところが大きい。
内容は重いけれど、エピソードの一個一個が大変力強く、物語のパワーを見せつけられる。そんな一品だったからだ。


主人公の秋幸の家族は、大変複雑である。
秋幸の実の父親は、彼が生まれる前に母と別れているし、彼には二人の姉と一人の兄がいるのだが、それも父親違いである。そして現在は実父とも兄たちの父親とも違う別の義父と連れ子の義兄と一緒に暮らしている。ずいぶんややこしい。
加えて、兄と姉と、母と秋幸とは、秋幸が幼いころ、別々の家に住んでいたという過去がある。それが事態をさらに複雑にしている。

家族は言うまでもなく、人間集団の中でも、根源的なものだ。
それゆえにそこにはいろんな感情が生まれるけれど、事態が複雑だと、生まれる感情もかなりややっこしくなるらしい。


そんな中でことさらに明確なのは、秋幸の父に対する憎悪だ。
彼が生まれるとき、父は別の二人の女にも、同時に妊娠させていた。加えて実の娘を娼婦にさせて、平気でいるような始末。

そんな父を、秋幸はろくでなしだと思っているらしく、妹が娼婦になっていることに、不愉快な思いを抱いていることが伝わってくる。
そのせいか、父と同じになりたくない、という思いから女を知らないまま生きてきた。

父への憎悪が、そのまま性への恐怖と結びついているように映り、その切羽詰まったような感情が、ひたすらに息苦しい。


そしてその息苦しさは、彼が育った町とも深く関係していることだろう。

彼が育った紀州は、山々と川と海に閉ざされた町でせまく、自分の別れた父とも簡単に顔を合わせることができる。
一言で言えば、そこには逃げ場がないのだ。
どれほど父に憎悪を抱えていても、娼婦の妹に困惑にも似た思いを抱いていても、せまい町で生き続ける限り、それを否応なく見せつけられてしまう。

その閉そく感が、小説全体を支配していて、忘れがたい。


だが親を憎んでいるのは、何も秋幸だけではないのだ。
秋幸の父違いの兄は、かつて自分を捨てた母を恨み、包丁を持ち出す事態にまで及んだこともある。

実際母は結構冷たいところもある。
寝込んだ末におかしくなってしまった娘の美恵に対して冷たい態度を取っていたし、わりあい関係も良さそうな芳子からも、母さんらしいにせえ、となじられている。

秋幸は父を、そして兄や姉たちは母を恨み、身勝手にふるまう親によって、ツケをはらわされていることを憎んでいる。
それもまた一つの閉そく感だろう。

そしてそれはたとえ、人が死んだとしても、途切れることなく襲ってくるのだ。
生きている者は、自殺した兄や、亡くなった父を追慕し、あるいは囚われてもいる。それはまるでトラウマのようだ。

そういった重層的に取り囲まれた物語の雰囲気が、胸苦しく、圧迫するようにこちらまで迫って来る。


そして最後の秋幸の行動は、そんな不幸な空気から生まれたものだと思うのだ。
言うなれば、それは破壊願望なのである。
娼婦になったかもしれない実妹という存在を、彼はその行為を通してある種否定したかったかもしれない。そんな風に僕には見える。

もちろん彼の行動は、先々さらに彼を苦しめることだろう。
だが背徳に走ることで不幸を背負った彼は、結局不幸に走らざるをえないまでに追い詰められていたとも思えてならない。

そしてそれだけに、そこには鬼気迫る空気にあふれて、忘れがたいものがある。
ともあれ、狭い空間の中に凝縮されたような重たい雰囲気が、胸に突き刺さる一品である。



そのほかの作品も、不幸な家族関係ゆえに、屈折を抱えている者たちが多く登場して読み応えがあった。


『黄金比の朝』

こちらの主人公は母を憎んでおり、縁を切りたいとも思っている。
やとなとして働き、体を売っていた母を軽蔑してもいるのだろう。
しかし料理を持ってきてくれたときのことを思い出すあたりは、憎悪だけでは語り尽せない母子の関係を思わせ、心に残った。



『火宅』

ほかの女を孕ませ、博打も好きだった父親に対する屈折した憎しみが忘れがたい。
と同時に、自分の妻に向かうその暴力性は血の因果を思わせて、どこか苦かった。



『浄徳寺ツアー』

快楽の滓が親の足を引っ張る、という親子観しかないような男、母が自殺したことに傷ついている女。
そこには家族に関する不幸があるし、負の感情がある。
しかし世の中には白痴の子の親のように、どんな状況でも子供を愛せる親もいる。
親子の関係性は一面では語り尽せない。そんなシンプルなことを読み終えた後に感じた。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

永井荷風『つゆのあとさき』

2013-10-29 20:51:35 | 小説(国内男性作家)

銀座のカフェーの女給君江は,容貌は十人並だが物言う時,「瓢の種のような歯の間から,舌の先を動かすのが一際愛くるしい」女性である.この,淫蕩だが逞しい生活力のある主人公に,パトロンの通俗作家清岡をはじめ彼女を取巻く男性の浅薄な生き方を対比させて,荷風独得の文明批評をのぞかせている.
出版社:岩波書店(岩波文庫)




永井荷風はこれまで積極的には読んでこなかった。
読んだのは『濹東綺譚』だけで、ピンと来なかったために、そのまま遠ざかっていたのだ。

それだけにこれまで、もったいないことをしてきたな、とつくづく思うほかない。
『つゆのあとさき』は、そう思わせるほど文学的にも物語的にも非常に高いレベルの作品であった。


カッフェーで働く主人公の君江は性的にだらしない女、いわゆるヤリマンだ。

当時のカッフェーがどういうものか知らないが、キャバクラみたいなものかなと想像する。
君江は店が終わった後、アフターに客たちと落ちあい、待合で関係を持っている。
それは別にいいのだが、その人数は一人や二人でなく複数なのである。やはりヤリマンと言うほかない。

当然人数が多いと上手くさばけるわけもなく、店に男たちが一斉に訪れ鉢合わせするなんてこともある。
それをうまくかわすのに、てんやわんやする場面などは少しおかしい。
仕様もない尻軽女だな、と読んでいると思うのだけど、あっけらかんとしているので、どこか憎めない。


君江のセックスに対するハードルは当然ながら低い。
初めて関係を持つ男の場合は、「思うさま男を悩殺して見なければ、気がすまなくなる」なんて思ったりしているし、純粋にセックスを楽しんでいるのだろう。

そういう人だからか、男との関係もどこか淡白だ。

実際彼女は、「嫉妬という感情をまだ経験した事がな」く、「その場かぎりの気ままな戯れを恣にした方が後くされがなくて好い」と思っていたりする。

加えて彼女は、相手に自分のことを知ってもらいたいという思いが希薄だ。

たとえば、自分が好きな男に対して、向こうが自分のことを何か知ろうとするならば、「堅く口を閉じて何事も語らない」でいたりする。
基本的に、相手に関心はなく、他者からの承認欲求も低い。
普通は相手が好きなら、相手をもっと知りたくなるし、知ってほしくなるものだけど、そういう感興は湧かないらしい。


言うなれば彼女は快楽主義者なのだろう。
「君江は新に好きな男ができると忽ち熱くなって忽ち冷めてしまうという、生まれついての浮気者」と述べられている部分があるが、まさにそうだと思う。

その淡白さは、首尾一貫、徹底しており、それがかえってすがすがしいくらいだった。

そういう淡白さもあってか、嫉妬でストーカー行為に走る清岡よりも、したたかに世渡りをしているように見えて、にやにやしてしまう。
君江という女の強さが感じられてそれだけでもおもしろい。


一方の清岡はどこか愚かしく、読んでいると苦笑してしまう。
君江にいいようにあしらわれ、性欲と嫉妬に翻弄される彼の行動はさながらコメディのようでおかしくも物悲しい。

清岡は淡白な君江が自分のことを大事にしてくれないと感じ、腹立たしく思っている。それに淫蕩にふけっている彼女をどこか苦々しく思っているらしい。
それがゆえに、どんどん君江への憎悪を募らせていく。

彼には鶴子という立派な嫁としっかりした父がいるのに、彼はその大事さも気づかずに結果的には奥さんにも逃げられてしまう。
自業自得と言えばそうだけど、そこには人間の業のようなものもにじみ出ていて悲しい。

だから清岡からすれば、君江はファム・ファタールでしかないのだろう。
しかも彼女が無自覚なだけに、清岡からすれば性質が悪いにちがいない。


だが君江は、あくまで自分のやりたいようにして日々を生きている。

とは言え、その性的なだらしなさのために、清岡から恨みをかけられているし、円タクの運転手からひどい仕打ちを受けてもいる。
田舎に帰ろうかと本気で思うほどに追い詰められてもいる。

しかしそう思いながらも、川島と出会った後で関係を持つあたり、君江らしいとと言えば、君江らしい。


そしてその性的奔放さが、最後の場面で、思いもよらぬ転換劇を与えているように僕には見えるのだ。

最後の川島の手紙を読み終えたとき、僕はキム・ギドクの「サマリア」を思い出した。
その映画の中で、一人の少女が、一緒に寝た者は仏教徒になるというバスミルダという娼婦の話をする場面がある。

僕が『つゆのあとさき』を読んで感じたのは、君江はまさにそのバスミルダではないだろうか、という仮説なのだ。

少なくとも川島は死ぬ前に幸福を得ることができた。
すなわちセックスを通して、君江は悪女から聖女へと転換したのである。僕にはそう見えてならない。

それはもちろん誤読の可能性は高い。
しかし性的奔放さが、人間の悪ばかりではなく、聖性さえ呼び起こす、とも見える内容は、僕の胸に深く響いてならなかった。


それでなくても、キャラクターや物語のおもしろさなど、高いレベルにある作品ということはまちがいない。
永井荷風が文豪と見なされる理由を、この作品によって、初めて知らされた思いだ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

幸田露伴『五重塔』

2013-09-28 05:29:44 | 小説(国内男性作家)

技量はありながらも小才の利かぬ性格ゆえに、「のっそり」とあだ名で呼ばれる大工十兵衛。その十兵衛が、義理も人情も捨てて、谷中感応寺の五重塔建立に一身を捧げる。エゴイズムや作為を越えた魔性のものに憑かれ、翻弄される職人の姿を、求心的な文体で浮き彫りにする文豪露伴(1867‐1947)の傑作。
出版社:岩波書店(岩波文庫)




『五重塔』を読んでいて、真っ先に目を引くのは、何と言っても文体だろう。

「木理美しき槻胴、縁にはわざと赤樫を用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話し敵もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女」
で始まる文章はとにかくリズムが良くて、読んでいるだけで景気のいい気分になる。
さながら講談調といった感じだ。

その分、現代を生きる僕からすると、リズムに気を取られて、文の内容を追うのがおろそかになりがちになるが、それも読み進めるうちに慣れてくる。
ともあれ、この文章自体は非常に目を引いた。


物語は、のっそりという不名誉なあだ名をつけられた大工十兵衛が、寺で五重塔を造るという話を聞き、その仕事を自分で手掛けたいと思い、行動するっていう感じの話だ。

この作品を読むまでは、五重塔を建設する過程を描いた作品かと思っていた。
だが、どちらかと言うと、五重塔を建設するまでに起きる人間関係のごたごたを描いた作品といったところである。

そのごたごたの中心にいるのは、常にのっそり、こと十兵衛である。
十兵衛は自分には腕があると確信を抱いているものの、仲間内からは軽んじられて、そのことに屈辱を感じている。
そして自分よりも腕が下のやつが大きな仕事をしているのに、自分は羽目板の繕いなどをしていることに忸怩たる思いを抱いてもいる。

だからだろう。五重塔建設という大事業を自分の手で成し遂げてみたいという功名心に突き動かされているのだ。


そのために、世話になっている源太を押しのけてもいいと考えている節がある。

源太は十兵衛の顔を立ててもいいと思い、共同で仕事をしようと持ちかけているが、それをはねつけ、「人の仕事の寄生木になるも厭」と言い、自分一人で仕事をすると主張する。
さらには源太が親切に図面も持ってきてくれるのに、それをはねつける。

はっきり言って、彼は人づきあいが不器用にすぎる。
そのため我を張った途端、要らぬ誤解を招き、騒動を引き寄せてしまっているのだ。
挙句に刃傷沙汰にまで発展するからかなわない。


正直な話、もうちょっと上手くやれよ、と読んでいる間感じてしまう。
だが十兵衛はそういう人なのだろう。そう思うだけに、その不器用さが見ていて痛ましい。

しかしその執念の果てに造り上げた五重塔は、大風が吹き荒れても倒れなかった。
十兵衛の仕事がその瞬間に報われたと言えるだろう。


もちろん十兵衛のその後が明るいとは言い難い。
五重塔を造り上げた仲間は、十兵衛の仕事を見て、ついて来てくれたが、ここまで周囲とこじれては、その後の仕事もやりづらかろう。奥さんもきっと大変だと思う。

だが十兵衛は、先のことなど関係なく、ただ成し遂げたいものを成し遂げ、きっちりと結果を残した。
それが少なくとも、彼にとっては、大きな意味合いがあるのだろう。
そう思えたことが、この作品における救いなのかもしれない。

評価:★★★(満点は★★★★★)

色川武大『百』

2013-09-26 20:26:00 | 小説(国内男性作家)

「おやじ、死なないでくれ――、と私は念じた。彼のためでなく私のために。父親が死んだら、まちがいの集積であった私の過去がその色で決定してしまうような気がする」 百歳を前にして老耄のはじまった元軍人の父親と、無頼の日々を過してきた私との異様な親子関係を描いて、人生の凄味を感じさせる純文学遺作集。川端康成文学賞受賞の名作「百」ほか三編を収録する。
出版社:新潮社(新潮文庫)




作者、色川武大の家族をモデルにした私小説である。
そのせいか、そこにある家族の姿と、そんな家族に対して抱く葛藤や感情の動きが大変生々しかった。その様がまず目を見張る。


主人公の「私」は四十過ぎの父の子として生まれた。
父は軍人恩給で生活をしている。しかし敗戦を迎えたことで恩給は停止。生活のために母が外に働きに出るが、父はそんな母が稼いでくることをかたくなに認めようとしない。
一方「私」はアウトローの生活を選択し、まっとうな職にもついていない。
「私」の弟は、強権的な父とも上手くいなし、普通の会社員としての暮らしを送る。

そんな一家をモチーフに、四篇の作品が、連作の形式で掲載されている。

最初の『連笑』は兄弟の話で、残りの『ぼくの猿 ぼくの猫』『百』『永日』は「私」と父の話と言っていいだろう。



『連笑』は、男兄弟で育った自分ともかぶる部分があり、どこかしんと胸に響く。

この小説の兄と弟は好対照の存在だ。
兄がギャンブルなどを行なう無頼の生活を生きているのに対し、弟はどちらかと言うと、真面目な生活を送っている。
だが弟は兄を慕っているという感じは存分に伝わる。

もともと弟は兄に親しんでいる子どもだった。
兄は弟を殴ることもあったけれど、それでも弟は兄のあとをついてくるような子どもだった。
そしてそういう弟に対し、兄は幼いころから、自分の世界を押し付けていた。

兄は無頼な性格もあり、親から保護を与えられると、反発する傾向にある。
そのくせ、弟に対しては保護し影響を与えようとしているのだ。
その関係がどこかおもしろい。


だがそんな自分の行動に、どうも「私」は引け目のようなものを感じているらしい。

そして弟に自分の影響が現れてほしくないとも考えているようだ。それは自分の与えた影響が性格形成に影響があると判明し、それを「のぞきこんでしまえば、とりもなおさず、その下側にある私自身の欠落とまともに向き合ってしまう」ということも大きいのだろう。
そのために、一緒に暮らすことがあっても、儀礼的言動は排除し、ストレートな話もしないようにしている。

そう書くと、素っ気ない関係のようにも見えるけれど、どうやらいまだ互いに親愛の情を持っているらしいからおもしろい。


だがその微妙な距離感こそ、男兄弟らしい距離の取りかたなのだろう。
僕も男兄弟で育ってきたために、二人の距離の取り方などは、自分に重なる部分がある。
それだけに読んでいて、しんしんと胸に響く部分があった。



一方の三作品は、父と子の関係を描いている。

この父子の関係がおもしろい。
まず父親だが、これはいかにも明治生まれの人らしく、自分の律を持っており、その偏った考えを、何かと息子に押し付けようとする。
息子としては大変だったろう、と思う。

実際そう語る「私」の口調も、父に対しては批判めいたことを言っていると見えなくもない。
そもそも「私」はアウトロー傾向の強い人で、他人に何かを強制しない代わりに、他人も自分の領域に踏み込んでほしくないと考えている人だ。
それだけに家族を支配しようとする父と、若いころは衝突することもあった。

しかしそんな「私」は、家族の中で父に一番共感意識を持っているのだ。
この微妙に屈折したところが、楽しく読める。


しかし終戦で、金のつてを失くした父は、やがて家庭内での権威を失墜させていく。
だが父は、自分の権威に固執し、妻が金を稼いでも、彼の中ではなかったことにしてしまう。

そこにあるのは、まちがいなく、人間の愚かさであり、弱さだ。
その描写がたまらなく良い。


そして父はやがて老耄の気配を見せるようになる。
それでも父は家長としてふるまいたいと考え、それを老いてなお行使しようとしている。

「私」はそんな父を理解し、受け入れようとしている。
しかしそうしながらも、彼は父の世話から、結果的に逃げているようなものだ。

それに父が、自分の知っている父から変わっていくことをなかなか受け止めきれずにもいるらしい。
精神病院では、父は他人から管理されない、と思っていたのに、思いもよらず、そこに適応しているのを見てショックを受けているのがその例だ。
それに、「私」が弟に語った「契約」の話も、親に対して家長然としてふるまってほしい、彼の願望も混じっているような気が、僕にはする。

「おやじ、死なないでくれ」と最後に、彼は祈っているが、そこには彼の、そんな自分の思い込みを否定されたくないという思いも混じっているように見えた。


ともあれ、読んでいると、理屈では片付けられない、親子の関係性をまざまざと見せつけられる。
その生々しく屈折した父子関係が突き刺さる作品集であった。

評価:★★★(満点は★★★★★)

吉村昭『零式戦闘機』

2013-07-25 05:23:45 | 小説(国内男性作家)

昭和十五年=紀元二六〇〇年を記念し、その末尾の「0」をとって、零式艦上戦闘機と命名され、ゼロ戦とも通称される精鋭機が誕生した。だが、当時の航空機の概念を越えた画期的な戦闘機も、太平洋戦争の盛衰と軌を一にするように、外国機に対して性能の限界をみせてゆき……。機体開発から戦場での悲運までを、設計者、技師、操縦者の奮闘と哀歓とともに綴った記録文学の大巨編。
出版社:新潮社(新潮文庫)




吉村昭は淡々と物語を叙述する、という印象が強い。
それがときに物足りなく感じるけれど、この作品は、それがいい方向に出ていた。

零戦は日本軍を象徴する戦闘機である。その隆盛と衰退を描くことで、高揚感と悲哀が文脈から立ち上ってきているのだ。
そしてそれが淡々としているだけに、深く心に響く作品となりえているのである。


戦闘機に関してはくわしくはないけれど、零戦というものが相当ポテンシャルを持った戦闘機だったというのは知っている。
そしてその裏にこのようなドラマがあったと知って驚くばかりだ。

海軍からの要請で、要求ばかり激しい戦闘機をつくることになった三菱重工の航空機部門の面々。そんな無茶な要求を堀越二郎たちのチームは一丸となって、新規戦闘機の開発に取り組む。
堀越たちのプレッシャーは相当のことだったろう。
その過程で、試験飛行を行なった人員が亡くなってもいることも、その大変さに拍車をかけているように思う。

それだけに飛行機が完成したときの堀越の感慨は、何かを成し遂げたときの思いが伝わってくるようで、しんしんと胸に迫ってならない。


そして完成した零戦が、とてつもないスペックだったという点にはすなおに興奮させられた。
重慶での最初の戦闘などは、零戦のハイスペックっぷりが存分に伝わってきて、読んでいるだけで、熱くなり、ぞくぞくさせられる。
その後の戦闘でも、零戦が他国の戦闘機に対して圧勝しており、そのレベルの違いには高揚感をあおられた。

戦闘機の後進国だった日本がここまでのものをつくりあげたことに、良かったね、と読みながらすなおに呼びかけたくなる。
海軍が零戦に絶大な信頼を寄せたことも当然だろう。


だがそんな世界最先端の戦闘機を手にしたにもかかわらず、日本は精神主義的風潮も相まって、それをいかせないままに没落していくこととなる。

そもそも零戦は設計当初から、敵弾を防ぐことが無視されているのだ。
これこそ、攻撃こそ最大の防御と考える日本軍の思考の象徴的な表れとも言えるだろう。

またその零戦を生みだす過程でも、いくつかの問題がある。
最大の問題は、飛行機の輸送手段が当初は牛だったという点にある。
もちろん飛行機を傷つけずに運ぶためという理由はあるが、道を直さず、終戦直前まで牛や馬、最後は人力に頼っている時点でもうダメなのである。
アメリカとの物量差は明確すぎよう。これでは勝てるわけがない。
量より質という観念が強い日本軍の悪い部分がそういう点からもほの見えるようだ。

それに零戦の後継機をつくれなかったことも、読んでいて痛ましく感じる。
海軍側は改良の要求をするばかりで、いずれ時代遅れになる零戦の先のことを考えず、三菱も後継機をつくる余裕を持てない。

そういった種々の問題点から、日本の限界が見えるようで悲しくもある。


そして終戦が近付くにつれて、どんどん悲惨な状況になっていくのが痛ましい。

戦争終盤には零戦による特攻が計画され、若い命が次々と奪われていった。
そして零戦をつくる工場でも、地震と空襲といった悲劇が襲うのである。

この地震と空襲のシーンは本当に悲しかった。
勤労動員で駆り出された中学生たちが死んでしまうところなどは、本当にむごい。

それでも日本の若者たちは、飛行機をつくり、飛行機で特攻し続けていく。それもこれも国のことを信じているからだ。
しかし日本はやがて負けてしまう。
そこにあるどうしようもない虚しさが、淡々とした文体だけに深く胸に突き刺さる。


零式戦闘機は本当にすごい戦闘機だったということがわかる。
そしてそれを生かせず、悲劇を生みだしてしまったのは、精神的主義的な考えによるところが大きいのかもしれない。
高揚と悲哀。零戦はまさに太平洋戦争時の日本を物の見事に象徴している。そのことに改めて気づかされた次第だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの吉村昭作品感想
 『高熱隧道』

安部公房『壁』

2013-07-23 20:05:56 | 小説(国内男性作家)

ある朝、突然自分の名前を喪失してしまった男。以来彼は慣習に塗り固められた現実での存在権を失った。自らの帰属すべき場所を持たぬ彼の眼には、現実が奇怪な不条理の塊とうつる。他人との接触に支障を来たし、マネキン人形やラクダに奇妙な愛情を抱く。そして……。独特の寓意とユーモアで、孤独な人間の実存的体験を描き、その底に価値逆転の方向を探った芥川賞受賞の野心作。
出版社:新潮社(新潮文庫)




安部公房はシュールな作品を書く人だな、と感じる。
これまで読んできたのは、『砂の女』『他人の顔』『箱男』だけだが、どれも設定や展開は余人の発想と違いぶっ飛んでいる。
そんな奇抜な定と、メタファーに満ちた道具立てを楽しめるかどうかが、この作家の好き嫌いを分かつポイントなんだろう。

個人的なことを言うなら、安部公房は熱心に読み続けたいタイプではない。
しかしシュールな展開がポンポンと飛び出すお話自体は意味がわからないながらも、変に心惹かれる。
理解できないにもかかわらず、少なくとも途中で投げ出そうと思わなかったのは、そういったイマジネーションの豊かさがそれなりに心に訴えかけてくるからだろう。

そしてそれが『壁』という作品に対する感想の、ほぼすべてだ。


物語は一応三部構成となっている。
だがそれぞれに明確なつながりがあるわけでもない。共通するのは壁というメタファーを背後に隠したストーリーという点だ。

正しいかは知らないが、この壁というのは、自分という内的世界と、他者を含む外的世界を分かつ境界なんだろう、という風に感じた。


たとえば第一部の『S・カルマ氏の犯罪』。

ここで「ぼく」が失くすのは名刺だ。名刺はそこで「ぼく」にとって代わるような行動をとり、「ぼく」のアイデンティティが見事に失われてしまう。
しかしそうして無名な存在となった彼は、ラクダのように外界に実際に存在するものを自分の内部に吸収して消してしまうようになる。さらには名刺だけでなく、メガネのような「ぼく」が身につけているものが彼に対して反抗するようになっていく。

説明が下手だからというのもあるけれど、自分で書いてて、内容がまったく理解し、意味がわからない。
だけど、そのわからなさが変におかしくもある。

そして、そんな意味不明な物語からあらわになるのは、自分が自分であることの根拠の喪失でもあるのだ。
「ぼく」と親しいY子は作中なぜかマネキンに変貌しているけれども、それも一つのメタファーなのだろう、と思う。

つまりは名を失い、自分が身にまとうものをはぎとられたとき、自分に残るのは何なのか、ということではないだろうか。

名前などを身にまとうことで、人は自分自身のアイデンティティをつくりあげていく。
しかし同時に、名前や服などをまとうことで、まるでマネキンのような人工めいたある種のペルソナをかぶって、人は生きていくのかもしれない。

そんなことを象徴的に描き上げているように僕には見えた。
それが正しいかはともかく、そこからは人という存在のこっけいさがあぶりだされているように感じる。
そのへんてこさが、いい意味で気になる作品だった。


一方の第二部の『バベルの塔の狸』は、目だけを残して肉体が消える男の話だ。
こちらもアイデンティティを喪失した男の話とも読める。

この章で一番すばらしかったところは、狸の言動に誘導されて、徐々に自分の意志とはちがうことをさせられそうになっていくところだ。
まるで戦前の時代の空気を象徴的に描いているようだ。
周囲の抑圧めいた空気に皆が乗せられていく様を暗喩しているようでおもしろい。
そしてそういった空気もまた、人のアイデンティティを奪っていくことを示しているようにも見え、感心しながら読んだ。


たぶんこの手の作品は理解しようと思ったらダメなのだろう。
わからないなりに伝わってくるふしぎなイマジネーションと、何とはないメタファーの手ごたえをこそ楽しめばいいのかもしれない。

この作家の作品は必ずしも趣味ではない。
だが、少なくとも読み手をふしぎな領域へと運んでくれる。
そういった不可思議で不可解な感覚が、心に残る作品だった。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかの安部公房作品感想
 『箱男』

太宰治『人間失格、グッド・バイ 他一篇』

2013-07-09 05:43:00 | 小説(国内男性作家)

「恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」―世の中の営みの不可解さに絶えず戸惑いと恐怖を抱き、生きる能力を喪失した主人公の告白する生涯。太宰が最後の力をふりしぼった長篇『人間失格』に、絶筆『グッド・バイ』、晩年の評論『如是我聞』を併せ収める。
出版社:岩波書店(岩波文庫)




太宰の代表作『人間失格』は、十代のときに2回、二十代のときに1回読んでいる。

十代で読んだときは、主人公に対していらいらし、二十代で読んだときも主人公に対していらいらし、そして三十代で読んだ今回も、主人公に対していらいらした。
どうやら僕はこの小説の主人公が嫌いであるらしい。

だが読み終えた後には、ふしぎと悲しみも覚えるのである。
それはこんな生き方しかできなかった、大庭葉蔵に対する憐みなのかもしれない。


大庭葉蔵はめんどくさい人である。
もちろん表面だけを見れば彼ほど印象のいい人はいないかもしれない。
周りにおべっかを使い、愛嬌は良く、おもしろいことを言う。見るからにネアカって感じだ。

だが彼は人間の営みというものが理解できない。
そしてそれゆえに自分が変わっているのかもしれない、と思いこみ、それをごまかそうとして道化を演じている。

彼がそんなことをするのは、基本的に人の目を気にするがためだろう。
人である以上、多かれ少なかれ、他人の目は多少は気にする。それはわかっているけれど、彼の場合は結構、自意識過剰の傾向は強いように思う。

そして同時に自己愛性が強い人とも感じた。
人目を気にして、嫌われないようにと願うあたり、人から愛されたいという願望が強いのではないだろうか。

ある意味、大庭葉蔵はパーソナリティ障害なのかもしれないと読んでいて感じた。
むかしはそんな便利な言葉もなかったから、それを抱えている人はしんどかったことは想像に難くない。


そんな彼の道化は時に人から見破られることもある。
たとえば竹一という同級生にはあっさり、そのことを見破られて、大いに戸惑っている。

別にいいじゃん、開き直れば、と僕は思うのだけど、彼はそういうことができない人らしい。
それゆえにいらいらするのだけど、見ていて悲しくもなる。
生きていくのは本当に大変だったんだろうな、と読んでいて感じてしまう。


だがそんな風に、他者に対する評価を気にする葉蔵が、他人のことに関心があるかと言ったらそうでもないのである。

たとえば銀座の女給が自分の身の上話をするときも、彼は興味を持てない。
彼が欲しているのは、侘びしい、と口にされて、ほかならぬ自分を求めてくれることなのではないか、とさえ思えてくる。
そういう観点からしても、やっぱりこの人は自己愛が強いのかもしれない。

だがそれをナルシストと嫌悪感をもって切り捨てるのも少し違う気がする。
彼は「友情」を感じたことがないとも言い、人間の生活がわからない、と言う。
そういう自分の感情の欠落を自覚しているからこそ、あるいは自己愛の中に逃れるしかなかったのかもしれない。

そしてその自己愛を守る(他人の自分に対する評価を守る)ためなら、自己保身よりも他者に対する献身をも厭わないのである。
いわく悲壮ですらある。本当に大変だったのだろう、とつくづく感じてならない。


そんな彼は最終的に、狂人という烙印を押されることで終わる。
しかしマダムは葉蔵のことを「神様みたいないい子」だったと語っている。

彼は他者から愛されるために、それこそ苦悶しながら戦った。
そしてその結果、彼と親しかった人は、彼にいつまでも良い印象を抱いてくれる。
そういう点、彼の努力は報われたのだろう。

それが美しいことかは別であり、皮肉にも見えなくはない。
葉蔵がその事実を知ったところで、別の場面で、彼はいろいろうだうだ考え悩むのだろう。

しかし世界の見方は主観でのみ、切り捨てることはできない。
そんなことを言っているようにも見え、なかなかおもしろい。


個人的に、『人間失格』は合わない作品ではある。

併録の『グッド・バイ』の方が、(自殺する直前に書いていたとは思えないほど)コメディタッチで、笑える箇所も多く好きだ。
『人間失格』よりもこちらを完結させてほしかったとすら思う。

それでも、太宰は自分の性癖をつぶさに観察し、描き、しかも客観的に捉え、物語としても上手く昇華していることは、伝わってくる。
何より内容について多くを語りたくなる。それだけでもすばらしい作品と言えるのだろう。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの太宰治作品感想
 『ヴィヨンの妻』
 『お伽草紙』
 『斜陽』
 『惜別』
 『津軽』
 『パンドラの匣』

中田永一『吉祥寺の朝日奈くん』

2013-07-04 05:31:42 | 小説(国内男性作家)

彼女の名前は、上から読んでも下から読んでも、山田真野。吉祥寺の喫茶店に勤める細身で美人の彼女に会いたくて、僕はその店に通い詰めていた。とあるきっかけで仲良くなることに成功したものの、彼女には何か背景がありそうだ…。愛の永続性を祈る心情の瑞々しさが胸を打つ表題作など、せつない五つの恋愛模様を収録。
出版社:祥伝社(祥伝社文庫)




いまさら言うことでもないけれど、この作家は本当にストーリーテリングが上手いと思う。
意外な展開があり、ユーモアがあり、読み手の感情を掻き立てるのも上手く、ともかく飽きさせない。
本作でもそんな中田永一(乙一)らしさが感じられた。


まず冒頭の『交換日記はじめました!』から心を持っていかれる。

交換日記を元にした、書簡体の小説かと思っていたものが、突然恋人同士以外の人が割り込んできて、どんどん変な方向へと進んでいく。
この展開に単純に驚かされた。その発想のおもしろさがまずすばらしい。

ラストの方には意外な展開も待っていて、ああそういうことか、とあっさりとだまされてしまう。ミステリとしても優秀だ。
後味がいい点もすばらしく、物事が長続きしない女性の前向きな姿がほっこり心に残る作品だった。


個人的には『三角形はこわさないでおく』が好きかもしれない。

はっきり言って、この作品はベタである。
タイトル通り、三角関係の話で、主人公は友人と同じ女の子を好きになる、という直球ど真ん中の、どうしようもないくらいの王道展開。
しかしそんな作品を、こんなにもせつなく読ませるのだから、この作者はすごい、と思う。

恋愛期特有の、甘酸っぱいときめきや、もやもやや、恋の予感を丁寧に描いて、胸に迫る。
それだけに甘く、せつなく、ドキドキし、主人公のことをすなおに応援したくなった。


そのほかの作品ももちろんおもしろい。

『ラクガキをめぐる冒険』
二転三転するストーリー展開と、ラストに至るまで細かなサプライズを配置するあたりはすばらしい。まさに一級の娯楽作品と呼ぶべき内容だった。


『うるさいおなか』
固めの文章と内容のギャップがおもしろい。
つっこみどころの多い内容だが、それを含めてのコメディタッチが楽しい作品だった。


『吉祥寺の朝日奈くん』
ちょっとラストは作為が強すぎる気もするが、僕と人妻との関係が読んでいて心地よい。
特に家出してきた真野を泊めるときの微妙な空気とかは結構好きである。


ともあれ、中田永一のレベルの高さを再認識できる短篇集であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

中村文則『掏摸』

2013-06-28 05:22:27 | 小説(国内男性作家)

東京を仕事場にする天才スリ師。ある日、彼は「最悪」の男と再会する。男の名は木崎―かつて仕事をともにした闇社会に生きる男。木崎は彼に、こう囁いた。「これから三つの仕事をこなせ。失敗すれば、お前を殺す。逃げれば、あの女と子供を殺す」運命とはなにか、他人の人生を支配するとはどういうことなのか。そして、社会から外れた人々の切なる祈りとは…。大江健三郎賞を受賞し、各国で翻訳されたベストセラーが文庫化。
出版社:河出書房新社(河出文庫)




『掏摸』は、実にスリリングでおもしろい作品だ。

くくりとしては純文学だけど、エンタテイメントと言っても通用する作品だと思う。
それもこれも全体に漂うノワールな雰囲気によるところが大だろう。


主人公は東京で働くスリ師である。
その腕前はさすがプロだけあり、一級だということがわかる。財布を掏るときの緊張感や、そのときの指の動きなどにはほとほと感心する。
それだけで物語の中に心を持ってかれた。特に張りつめた空気はたまらない。

そんな彼は闇社会に属していることもあり、きな臭いできごとに巻き込まれる。
その展開は、不穏な雰囲気に満ちており素直に楽しめる。この物語運びは見事だ。


さてそんなストーリーの中で、もっとも印象に残ったのは、何と言っても、木崎だろう。
彼の底知れない悪意こそが、本作をノワールだと感じた原因にほかならない。

石川と立花と一緒に押し込み強盗をするところには、読んでいてぞくぞくした。
人を人とも思わずに理不尽にもてあそんでいるかのようで、その冷血さは強いインパクトを残す。この造形はすばらしいとしか言いようがない。

そしてそんな徹底的な悪意に導かれて、「僕」は抜き差しならない状況に追い込まれる。
少年との関係が(おそらく「僕」は少年の中に、むかしの自分を見たから優しくしたのだろう)温かかっただけに、その落差に愕然とするしかない。


そのような「僕」の理不尽な状況を、木崎はヤーヴェとイスラエル人になぞらえている。
ヤーヴェを恐れるのは、力があったから、と木崎は言う。聖書を読んだときはそのことには気づかなかったが、確かにそんな側面はあるだろう。
そして木崎はヤーヴェ的な態度で「僕」に対して打って出る。

だがそのように力を持った存在に、一人の人間が翻弄されるのは、あまりに残酷なことだ。
貴族と使用人の話のように、そこには人間の自由意思は存在せず、その自由意志さえも、力のあるものに利用される。状況的にはかなりえぐい。
ラストの「僕」に対する木崎の行動はひどく、読んでいると痛ましくなる。
人は大きな災厄の前では、なすすべもないのではないか、とさえ思ってしまう。


それでも人は、災厄があろうとなかろう、何かと繋がろうとして、生に執着する。
その思いの中に、理不尽な運命から逃れる力が生まれるのかもしれない。
最後はスリとして生きた彼なりの、スリらしい必死の抵抗と見えて心に響く。

ともあれ、力強い作品であり、その黒い雰囲気には酔いしれた。
兄妹編の『王国』も読んでみたいとすなおに思える一品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの中村文則作品感想
 『銃』

夏目漱石『坊っちゃん』

2013-06-25 19:54:40 | 小説(国内男性作家)

松山中学在任当時の体験を背景とした初期の代表作。物理学校を卒業後ただちに四国の中学に数学教師として赴任した直情径行の青年“坊っちゃん"が、周囲の愚劣、無気力などに反撥し、職をなげうって東京に帰る。主人公の反俗精神に貫かれた奔放な行動は、滑稽と人情の巧みな交錯となって、漱石の作品中最も広く愛読されている。近代小説に勧善懲悪の主題を復活させた快作である。
出版社:新潮社(新潮文庫)




『坊っちゃん』はたいそうおもしろく、たいそう悲しい小説である。

初めて読んだのは高校のときだが、そのときはこんなに悲しい小説だとは気づかなかった。
名作とは再読するたびに味わいが変わるものらしい。


坊っちゃんは、本人も自覚しているように無鉄砲な人だ。おかげにせっかちでけんかっ早く、曲がったことが大嫌いで、とにかくまっすぐで、加えて口もずいぶん悪い。
そしてそれゆえに、愛すべき人なのである。

特に彼の毒舌はおもしろい。

初めて赴任した学校では、もらった辞令をいちいち人に見せろ、と言われて、それなら「職員室へ貼り付ける方がましだ」と心のうちで毒づき、生徒の模範になれ、と訓告されると、「そんな偉い人が月給四十円で遥々こんな田舎へくるもんか」と半分キレ気味にこぼす。

そしてうらなり君が延岡に左遷されると聞くと、延岡のことを以下のように述べている。
「名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。猿と人とが半々に住んでるような気がする。いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数寄だ」とのことらしい。心の中とは言え、言いたい放題のことを言っている。
その裏表ない言葉の数々に、僕は幾度か笑った。

それらの言葉でわかる通り、坊っちゃん典型的な江戸っ子だ。
その気風のよい、べらんめえ口調は読んでいると大層心地よい。


そしてそういった性質もあってか、彼は物事をとかく単純に考えたがる。
生徒に難しい問題を突き付けられると、わからないとすなおに答えるし、校長や教頭は、宿直をやらないものだと聞くと、月給をたくさん取っている上に宿直までやらないなんて不公平だと唱える。
実にまっすぐな言い分である。そのまっすぐさは非常にすがすがしい。

しかしあまりにまっすぐなだけに、読んでいると、ふしぎとせつなくもなってくるのだ。
それは彼のまっすぐさでは、とても社会でやっていくことはできないだろうと思うからだ。


彼は生徒たちから宿直のときにいたずらを受けるけれど、それはすべて、彼がからかい甲斐のある人だからだろう。
単純に行動するから、単純に見ていておもしろいのだと思う。

そして単純に考えたがるから、赤シャツたちにいいように利用されたりもする。
赤シャツと野だいこの計略もあり、坊っちゃんは気の合う山嵐と仲たがいしたり、急に下宿を追い出される羽目になったりする。


坊っちゃんと山嵐は要領のいい人ではない。
それだけに、二人は要領よく生きている人たちに、翻弄されているのだ。

たとえば、赤シャツが坊っちゃんに山嵐への不信を植え付けようと、船の上で思わせぶりな噂話をする場面。
赤シャツは、その直後坊っちゃんに対して、口止めをしようとする。
坊っちゃんは、山嵐は悪いやつだと思い込み、坊っちゃんらしいまっすぐな方法で、物事を解決しようとする。しかし赤シャツにひたすら釘を刺され、思いとどまることとなる。

この一連の流れが、赤シャツの策謀であることは、読んでいれば簡単にわかる。
しかし坊っちゃんにはわからない。あくまで正攻法で、物事を解決する坊っちゃんは、計略で人を陥れるという真似なんて考えもつかない人だからだ。
それだけに読んでいると、痛ましくある。


きっと坊っちゃんみたいな人では、なぜマドンナがうらなり君から赤シャツに心変りがしたかも、わからないのだろう。
うらなり君はいい人だが、多分に損をする人だ。
そんな人が女性から見て魅力的とも思えない。
誠意はないが口の上手い赤シャツの方がうわべだけ見るなら楽しいことは明らかだ。

もちろん僕は坊っちゃんのまっすぐさは好きだし、山嵐の廉直さも、うらなり君の押しの弱い、おっとりとしたところも好きだ。

しかし現実社会を生きるには、彼らはあまりに不器用でもある。
坊っちゃんは旗本の子孫で、山嵐は会津の出、幕末では負け組の側だ。
そしてこの小説の中でも、彼らは負け組に回らざるを得ない運命であるらしい。

それだけに読んでいると、やはり悲しくてならないのである。

彼らは最後に、赤シャツと野だいこをぶちのめすが、それも所詮自己満足でしかない。
赤シャツたちはその後も、その土地にとどまり、おいしい思いをするのだろう。
世の中は、坊っちゃんが感じる通りに不公平である。


そんな悲しみに満ちた、『坊っちゃん』の話の中で、数少ない救いは清にあるだろう。

坊っちゃんは、親から愛されずに育った人だ。そのため虚無的な側面もある。
だが、下女の清だけは坊っちゃんを愛してくれたし、最後に至るまで心配してくれた。
だから坊っちゃんもただ清のことだけは心配し続けている。

僕は、坊っちゃんのことが好きだが、世の中を渡るには、かなり損な性格と思う。
しかしそんな彼にも、愛する人はいて、坊っちゃんもその人のことを気にかけている。

坊っちゃんのまっすぐさは、多くの場合通じない。
けれど、少なくともこの世で一人だけは、そんな世に通じないまっすぐさを愛し、理解し続けてくれる人がいる。
その事実がこの小説に安らぎをもたらしてくれる。

それゆえに、ある種の悲しみはあるけれど、それはどこか明るい悲しみでもあるのだ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの夏目漱石作品感想
 『草枕』
 『こころ』
 『門』

阿部和重『ニッポニアニッポン』

2013-06-11 20:27:03 | 小説(国内男性作家)

17歳の鴇谷春生は、自らの名に「鴇」の文字があることからトキへのシンパシーを感じている。俺の人生に大逆転劇を起こす!―ネットで武装し、暗い部屋を飛び出して、国の特別天然記念物トキをめぐる革命計画のシナリオを手に、春生は佐渡トキ保護センターを目指した。日本という「国家」の抱える矛盾をあぶりだし、研ぎ澄まされた知的企みと白熱する物語のスリルに充ちた画期的長篇。
出版社:新潮社(新潮文庫)




『ニッポニアニッポン』を初めて読んだのは、もう十年弱近くも前のことだ。
そのときの僕は、これはとんでもない傑作ではないかと思い、うち震えたものである。

だが今回久しぶりに読み返してみたが、当時の僕が感じたほどの興奮を感じることはできなかった。
感性というものは否応なく移ろうものらしい。
しかし傑作とは思わないまでも、なかなかの佳品であり、力作であることは確かである。


主人公の鴇谷春生は、ひきこもり気味の独善的な少年である。
空気を読まずに、おしゃべりを続けて、周りの空気を乱すところがあるし、自制心は足りず、他人に攻撃されれば、暴力で仕返しする。根拠のない自尊心を持っていて、それをもとに他人を小馬鹿にし、ネットの中に閉じこもっては、視野狭窄的な考えに固執している。
(どうでもいいが、ネットの描写に時代を感じておもしろかった)

基本的に、自分を客観的に見ることのできない、自分の世界に閉じこもった人のようだ。
本木桜へのストーカー行為は典型だと思う。

こういうタイプの人は、たまにいるので、その描写の様に感服した。
キャラクター造形は見事である。


そんな彼は、自分の名字に鴇の字が入っていることから、トキに対して感情移入し、自分の考えを、トキに対して勝手に重ねるようになる。
この過程が、個人的にはおもしろかった。

この作品では、感情移入の相手は、トキだったけれど、それは別のもの、たとえばイデオロギーのようなものと置き換えても成立可能なのだろう。
ガジェットこそ現代的だが、見ようによってはとても普遍的だ。

この手のタイプの人にとって、トキであれ、イデオロギーであれ、何でもいいのである。
基本的に彼らは自分がしたいことの理由に、イデオロギーを利用しているだけでしかない。
まさに「春生はトキを出汁にして「人間の書いたシナリオ」をぶち壊したいだけ」でしかないといったところだ。

それは、適応できない社会に対しての、彼なりの反発とも見える。
その僕の解釈はともかく、彼は自分の狭い世界に没頭し、トキの密殺や解放といった視野狭窄的な行動へと突き進むことになる。


そんな視野の狭い、自分の世界に閉じこもった彼だけど、引き返すポイントはあった。
言うまでもなく、瀬川文緒との出会いにある。

そのとき春生は文緒に対して親切に行動した。もしもそのとき、彼女にもう少し心を開いていたら、ちがう結果になったのかもしれない。
だが彼はそうしなかったし、できなかった。
春生は文緒と桜を混同していたけれど、それは彼が自分の世界に閉じこもり過ぎていることを象徴しているのかもしれない。

価値観の修正は、他者との関係の中から生まれる。
しかし他者との関係を拒絶した春生は、あくまで自分の世界にとどまるばかりだ。


そして彼は自分の狭い価値観のまま、トキ保護センターを襲撃することになる。
しかしその果てに待っていたものは、ただの虚しさでしかなかった。
彼が成したことには何の意味もなく、彼に何ももたらしはしない。
「Nothing really matters」というラストのフレーズがあまりに悲しく響く。

それは、現実と彼の見たい世界との齟齬の結果でもあるのだろう。
そういった幼い妄執の崩壊の様が、非常に力強く、胸に突き刺さる。

むかしほどの感動はなかったが、それでもまぎれもない力作と感じた次第だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの阿部和重作品感想
 『インディヴィジュアル・プロジェクション』

三島由紀夫『仮面の告白』

2013-05-09 20:39:45 | 小説(国内男性作家)

「私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的証明である」女性に対して不能であることを発見した青年が、幼年時代からの自分の姿を丹念に追求するという設定のもとに.近代の宿命の象徴としての“否定に呪われたナルシシズム”を開示して見せた本書は、三島由紀夫の文学的出発をなすばかりでなく、その後の生涯と文学の全てを予見し包含した戦後文学の代表的名作である。
出版社:新潮社(新潮文庫)




僕がこの本を読んだのはまだ学生のころだ。
そのころの僕は、「私」のホモセクシャルな性嗜好に上手く馴染めかった記憶がある。
それは単純に、生まれてからずっと僕がヘテロであることが大きい。

だが三十過ぎになって、改めて読み返してみると、単純に性嗜好を告白した作品として片付けるには、もったいないと気づかされる。
それは、本作において同性愛は、作品の根幹ではあるけど、作品の主眼ではないからだ。

むしろ本作は、アイデンティティクライシスをペルソナをかぶることで乗り切ろうと苦闘する青年のお話だという印象を受けた。
そんな青年の葛藤を、三島特有の細緻な筆致で描いており、ただただ圧倒された。


主人公の「私」は三島を思わせる若い青年だ。

彼は幼いころから、女性よりも男性の体や、体臭などに興味を持つ男だった。そして死の姿に妙に惹かれる性癖を持ち合わせていた。
だから初めての自慰でも、オカズにするのは男性の裸体の絵であったりする。
それだけでなく同級生の近江に恋をしたり、とガチで同性愛的性癖に目覚めていく。


しかし彼は、子どものころから勘のいい子だった。
幼いながらも周囲が「一人の男の子であることを、言わず語らのうちに要求」していることを敏感に感じ取っているのである。

そして、男に性的欲求を覚える自分の性癖が異常であることにも気づいているのだ。
そのため彼は、正常に見えるよう、常にペルソナをかぶり、一人の男としての役割を演じるよう終始することとなる。
たとえば同級生といるときは、女が好きだとアピールするような発言を吐いて、何とか正常な自分を演じようとしている。
普通の男子の性欲や関心を知らない分、幾許かのずれはあるけれど、「正常」であろうという努力は真剣だ。

また恋する学生を演じて、女性の周りをうろついてみたり、実際に本気で、自分は女に恋をしているのだと思い込もうともしている。
だけど賢い彼は心のどこかで醒めた部分があるのだ。
だから、自分は「正常」に女に恋をしていると思い込んでみても、疑念が湧いてしまい、自分を完全にだましきることができないでいる。


それでも自分の「正常」を証明したい彼は、やがて親友の妹園子と親しくなることとなる。
そして、園子を愛さなければいけない、なんて風に思いつめて、女とつきあっていくのだ。
「なければならない」なんて言葉を使う時点で、ストレスの多い作業だろうことは容易に想像がつく。
それだけに、読んでいると、痛々しささえ感じられる。「私」も相当しんどいことだろう。

しかしどれだけ自分をごまかし、「正常」というペルソナをかぶり、女を愛する態度を示してみても、自分の同性愛という性癖までは否定できないのだ。


当時の時代背景を思うと、こういう性癖は隠さざるをえないのだろう。
そんな世間に対する窮屈さが、「私」の窮屈な心理にも現われていて、興味深い。

ともあれ、一人の青年の心の動きを丹念に描いていて、なかなか読ませる。
三島由紀夫の才筆っぷりを堪能できる一品であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの三島由紀夫作品感想
 『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』
 『春の雪 豊饒の海(一)』
 『奔馬 豊饒の海(二)』
 『暁の寺 豊饒の海(三)』
 『天人五衰 豊饒の海(四)』

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

2013-04-27 22:40:18 | 小説(国内男性作家)

良いニュースと悪いニュースがある。多崎つくるにとって駅をつくることは、心を世界につなぎとめておくための営みだった。あるポイントまでは…。
出版社:文藝春秋




マンネリズムに陥っているが、物語はおもしろい。
本作の感想をまとめるなら、そういうことになる。
そこはさすが、村上春樹で、読み終えた後には淡い感動すら覚えた。

引っかかる面もあるが、トータルではすてきな作品だった、と賞賛したい思いだ。


さてどうせ売れているので、遠慮せずにまずは気になった点から上げていこう。

本作の最大の欠点は、マンネリ化した物語と細部にある。

語り口はいつもの村上節で、それは心地よく、読みやすく、読み手を物語へと一気に引っ張っていく力にあふれていることはまちがいない。
ただ会話は例によって硬く、直訳っぽい口調もどこかもどかしい。

加えて登場するキャラクターにも、既視感を覚えるのだ。
主人公はいつもの村上春樹作品と似たような感じだし、クロは『ノルウェイの森』のミドリみたいで、灰田は『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田くんと近いものを感じる。

エピソードも、シロの性夢は、『ねじまき鳥クロニクル』の加納クレタそのまんまだし、いつもの春樹のように、いくつかの謎(灰田のその後、緑川は何者か、シロの事件の真相)は解決されないまま終わる。

そういった点に不満がないと言えば、嘘になる。
しかしそれを補って余りある何かが、本作にはあるのだと感じたこともまた事実なのだ。
それは、主人公多崎つくるにもたされた、癒しの雰囲気によるところが大きい。


主人公の多崎つくるは、自己評価の低い男である。

彼は高校時代、仲のいい友人たちがいた。
そこには一体感のようなものがあった、と彼自身回想しているし、ほかの仲間も回想しているように、その五人のグループで過ごした時間は、幸福なものだったのだろう。

しかしそんな幸福なさ中にあって、つくるは「自分は本当の意味でみんなに必要とされているのだろうか?」などと考えている。
五人のグループの中で、彼だけ色がないことを含めて、自分は個性というものがない、と考えている。

そこにあるのは、つくるの自己評価の低さと、それに伴う自己卑下である。
個人的には似たような感情を、今でもときどき抱くので、共感を覚えずにはいられなかった。


そしてつくるは、大学二年のときに、その親しかった友人から突如拒絶されることとなる。
それは彼にとっては、トラウマレベルで、「自分が他人にとって取るに足らない、つまらない人間だと感じることが多くなったかもしれない」とすら言っているほどだ。
元々自己評価の低かっただけに、相当きつかっただろうことは疑いえない。

そしてそういった自己卑下や自己否定は、たとえば沙羅のような他者、なぐさめられたところで変わるわけではないのだ。
他人に優しく肯定されたからと言って、どうこうなるような問題でもない。
それはあくまで当人の心の問題だ。

そしてそういった自己卑下の強さが、他人を強く求めることに、ブレーキをかけることにもなっている。
恋人の沙羅は、何となくそんなつくるの心性に気づいている節がある。
だから彼に、きちんと過去と折り合いをつけることを忠告しているのだ。

つくるは基本的にはいい人だと思う。
だけど、人に向けて差し出せるものを持ち合わせていない、と考える人間は、自分自身をどこかで大切にできないのだろう、という気もしなくはない。
結婚も視野に入れている相手ならば、そんなパートナーと添い遂げるのは勇気が要ることだろう。そんな風に思う。


そうして多崎つくるはむかしの友人を訪ねる、「巡礼」を始まることとなる。

そのときの友人たちとの会話は、本当にすばらしかった。
彼らはかつて、つくるを切り捨てたことに傷ついていたし、今でもつくるのことを好きでいてくれている。
つくるは、自分を卑下しているけれど、彼が思うように、つまらない人間だとしたら、彼らはそこまで明確な好意を、つくるには示してくれないだろう。
それが伝わるだけに、読んでいると、胸が熱くなってならない。

たとえばアオの、「おまえは、他のみんなの心を落ち着けてくれていた」「でも正直なところ、家族に対してだって、あのときのような混じりけのない自然な気もちは、なかなか持てない」って言う言葉などは、彼なりのまっすぐな思いが伝わり、胸に迫る。

またアカの、古い友人の前で自分の弱さを語るところは、つくるに対して胸襟を開いていることがわかり、静かに胸をうつ。
つくるがアカのことを、おまえ、と呼びかけるところなんかも忘れがたい。

もちろんフィンランドでのクロとの会話もすてきであった。
クロことエリは、むかし、つくるのことが好きだったこともあり、つくるを肯定し、温かくはげましてくれる。それが非常に温かい。
特に最後の言葉には淡い感動を覚えた。

自分の評価を決めるのは、決して自分ではない。それを決めるのはあくまで他者なのだ。
そんな当たり前のことに気づかせてくれる。


最後はぼかしたままになっているが、そんなつくるへの肯定の雰囲気があるからこそ、ラストもまた明るい予感が待っているのだろう、と純粋に信じることができた。
そしてそう思わせる麗しさが、本作にはあったと思う。
そしてその麗しさが、僕の心をいつまでも静かにゆさぶり続けるのである。

本作は、村上春樹のベストではないかもしれない。
それでもすばらしい作品であると心から賞賛したいと思う。


PS
特に関係ないが、名古屋生まれの名古屋育ちとしては、名古屋が主要な舞台となっている点にも共感を持って読むことができた。
特に名古屋の、せまく閉鎖的でぬるい社会のことがちゃんと言及されていて、ああわかるわ、と元名古屋人としては何度か思った。
名古屋を知っている人には、一層楽しい作品でもあるのだろう。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの村上春樹作品感想
 『アフターダーク』
 『1Q84 BOOK1,2』
 『1Q84 BOOK3』
 『海辺のカフカ』
 『神の子どもたちはみな踊る』
 『象の消滅』
 『東京奇譚集』
 『ねじまき鳥クロニクル』
 『ノルウェイの森』

 『遠い太鼓』
 『走ることについて語るときに僕の語ること』
 『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』
 『若い読者のための短編小説案内』
 『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』 (河合隼雄との共著)

川端康成『伊豆の踊子』

2013-04-25 22:38:28 | 小説(国内男性作家)

二十歳の旧制高校生である主人公が孤独に悩み、伊豆へのひとり旅に出かけるが、途中旅芸人の一団と出会い、一行中の踊子に心を惹かれてゆく。人生の汚濁から逃れようとする青春の潔癖な感傷は、清純無垢な踊子への想いをつのらせ、孤児根性で歪んだ主人公の心をあたたかくときほぐしてゆく。雪溶けのような清冽な抒情が漂う美しい青春の譜である。ほかに『禽獣』など3編を収録。
出版社:新潮社(新潮文庫)




『伊豆の踊子』は名作と呼ぶにふさわしい作品である。

最初に本作を読んだのは、高校生のころで、そのときはほんのり切ない話だな、としか思わなかった。
だが三十過ぎてから読み直すと、そのポテンシャルの高さに気づかされる。

その理由の一つは、情感に訴えるような抒情性にあることは言うまでもない。
だがそれ以上に今回目を引いたのは、構成力の上手さにあるのだ。


主人公は若き川端を思わせる学生である。
彼は、旅先で旅芸人の一行と出くわし、一人の踊子に目をつけることとなる。

この当時の旅芸人はどうも蔑視されていたらしく、旅芸人村に入るべからず、という立て札が立てられているように、差別意識は露骨だ。
そしてそれは、旅芸人の中には、娼婦の役割を果たす者もいたことが大きいだろう。
だから「私」も最初踊子を目にしたときは、「踊子を今夜は私の部屋に泊らせるのだ」なんて、下心丸出しのことを考えたりしている。

しかし実際に踊子と話してみると、この踊子が実にうぶなのである。
それを見て、「私」は「峠の婆さんに煽り立てられた空想がぽきんと折れ」てしまう。
この転換が個人的にはおもしろかった。


そしてそれ以降「私」は、性欲ではなく、純粋な意味合いで、どこか子供じみたところの残る踊子のことをいとおしく思うようになる。

高校生のころの僕は、それをプラトニックな恋愛感情と思っていた。
けれどどちらかと言えば、妹を慈しむ兄、もしくは姪っ子にかまう伯父に近いように感じる。
何にしろロリコンっぽくは見えるが、思いつめたもののない分、慈愛?の側面が出ており、それが少し心地よくもある。


そして「私」は幼さの残る踊子の、純粋な姿に接するにつれて、偏見や、旅に出る前に抱いていた憂鬱が洗い流されていくこととなる。

「私」は短く触れられてはいるが、自分は「孤児根性で歪んでいる」という自己評価を抱いていた。
だがそんな彼も、「世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなく有難いのだった」という程度にまで、虚心な感慨に至ることとなる。

その流れが抜群に上手く、その構成力の卓越さには感服するばかりだった。


もちろん見ようによっては、「私」の考えは、傲慢なものとも言えなくはない。
インテリの高等遊民が、苦労しながら生きている旅芸人に勝手に幻想を重ねているだけという見方もできるからだ。

しかしそれを抜きにしても、この清新さと癒しの爽やかさと、それを導き出すまでの物語の運び方のすばらしさは見事というほかない。
そしてそう思うからこそ僕は、『伊豆の踊子』は名作と呼ぶにふさわしい作品である、と心から思うのである。



そのほかの作品もそれなりに楽しめる。

『温泉宿』
温泉地に住まう娼婦や女中の人生模様が、どこか物悲しい。
ずっと処女を大事に守っていながら、つまらない男と一緒になるお雪。
死ぬときは面倒を見てきた子どもたちに見送られることを夢見ていたのに、結局捨てられるように葬られるお清、など。
状況に左右されて、理想通りにいかない女たちの姿は、冬に向かう風景と相まって、哀愁を感じた。


『抒情歌』
独特の死生観に満ちており、その変てこな雰囲気が忘れがたい。
死んだ愛人を植物に見立て、呼びかけているが、たぶんそれは自分の恨みつらみといった情念が、男を殺したのではないか、という恐れを回避するための手段では、なんて思ったりする。
それはともあれ、変わった考えの独白がおもしろかった。


『禽獣』
主人公の男の冷淡な感じが印象的。
犬の出産や、雲雀の子、菊戴に対する彼の態度は、愛情をもって接しているように見えながら、捨てるときは、一抹の後ろめたさもなく、ゴミのように捨てている。
そしてそういった態度は人間に対しても同じだ。
彼は別れたむかしの女に対して、ずいぶん皮肉で冷たい見方をしているが、同じ女を愛した別の男は、いまでも別れた女のことを絶賛している。
そこから、人としてのある種の欠陥が浮かび上がってくるようで、少し悲しくもあった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

そのほかの川端康成作品感想
 『古都』
 『眠れる美女』