5日のリサイタルでは、J.S.バッハのイタリア協奏曲で開始します。
J.S.バッハは、1685年3月21日生まれで、1750年7月28日に亡くなりました。
今年は、生誕340年記念の年です。
まぁ350年とかではなくちょっと中途半端と言えばそうですけど、同年生まれのヘンデルとD.スカルラッティも記念イヤーです。
J.S.バッハの家系は音楽家がたくさんいて、一番有名なのがJ.S.バッハなのですが、バロックから古典派の間に彼の息子たちもそこそこ名を残しているので、区別するため、「J.S.」を付けるのです。
この生地では、面倒なので、「バッハ」とのみ記載します。
昔、短大で音楽史を教えていたことがあって、たぶんあまり関心がない学生たちにもわかりやすく興味を持ってもらうために、おもしろい…と言うかへぇ~というような話を織り込んでいました。
最初の奥さんマリア・バルバラはバッハが35歳の時に亡くなるのですが、仕事で家を離れていた間に亡くなって、4人の子どもが残されていました。
翌年、ソプラノ歌手だったアンナ・マグダレーナと再婚するのですが、この2人との結婚で合計20人の子どもが生まれました。
早世した子供も結構いたようです。
人数までは調べていませんけど。
男の子は6人で、そのうち5人が音楽家になったとのこと。
アンナ・マグダレーナは自身がソプラノ歌手だったこともあって、バッハの楽譜の写譜をしたり、いろいろ協力していたそうです。
バッハは、仕事を求めてドイツ国内であちこちに行きますが、ワイマール、ケーテン、ライプツィヒの3か所が主な滞在地で、ライプツィヒが一番長く、最期を迎えた場所でもあります。
ライプツィヒでは毎週のようにカンタータを作曲していたという話は、バッハの多作を語る上ではなるほどと思われることです。
また、バッハは、けっこう怒りっぽかったようでもあります。
そのためあちこちでもめ事を起こした…ようですが、たぶん、こと音楽に関して妥協できなかったのかも…と。
20歳の時に、当時のオルガンの名手だったブクステフーデのオルガンを聴くために、アルンシュタットから北ドイツのリューベックの聖母マリア教会に赴いたのですが、4週間の休暇申請をしていたのに、戻ってきたのは4か月後だったとか。
それだけ魅力的なオルガン演奏だったわけです。
ブクステフーデもバッハを気に入り、自分の娘を嫁に…と勧められたそうですが、バッハよりかなり年上で、好みではなかったので断ったとかという逸話もあります。
バッハの作品数は、1100曲を超える数らしいですが、作品番号として用いられているのは、BWV(Bach Werke verzeichnis)で「バッハ作品目録」です。
バッハの人生20歳ごろからの活動として65歳まで、約45年間にこれだけの作品を生みさせるのは、すごいとしか言いようがありません。
ベートーヴェンがバッハを「小川(Bach)ではなく大海(Meer)」と呼んだのは、なかなか含蓄のある比喩と言われています。
どんな作曲家の作品であっても、それを弾いていると、よくこんな曲が作れるなぁと、尊敬と言うか感心と言うか崇敬と言うか、そんな感情がわいてきます。
バッハは生涯ドイツで暮らしたので、イタリアには行っていませんが、今回演奏する「イタリア協奏曲」は「イタリア趣味による協奏曲」が正式名で、イタリアの太陽や明るさを感じさせる曲となっていますが、「イタリア趣味」というのは、ヴィヴァルディに代表される協奏曲の様式がイタリア的…ということなのでしょう。
協奏曲をチェンバロだけで表現するというこのイタリア協奏曲は、ヴィヴァルディの協奏曲を研究した結果生まれたもので、ブランデンブルク奏曲なども同様です。