Life in Japan blog (旧 サッカー評 by ぷりりん)

日本に暮らす昭和生まれの猫ぷりりんの、そこはかとない時事放談と日記です。政治経済から科学、サッカー、手芸まで

甘棠の愛-アテルイと坂上田村麻呂

2017年09月27日 03時51分13秒 | 神話・伝承・民話

六国史の日本後記に記された「河内国榲山」が阿弖利為の没した(802年没)場所の記録として最初のものだと考えています。

椙-杉村の山説

古事記(712年)と日本書紀(720年)の全文検索をしても出てきません。
椙は和製漢字です(大漢和辭典,大修館書店,昭和35年)。
大元の日本後記(840年頃)は別の漢字であった可能性が高いと思います。
説文解字によると榲は「杉」という意味があるので椙(スギ・杉)と書いても間違いではありません。

「植山」説

榲には草や樹勢の勢いという意味もあるので植も間違いでもないと思います。明和元年(1764)の日本後記の写本でも「植」と朱書きし「榲」を「植」と読もうとしていたようです。植の宋体は椙と似ているので、ここで写しに変化が出た可能性があります。

榲山(没山、棺山)

榲山=没山; 「沒也。」(説文)
なので、没-亡くなる山。

榲は榅なので
榲山=榅山=棺( )山でも意味は通りそうです。

 

阿弖流為ではなく阿弖利為

河内国で没したのは延暦八年六月続日本紀 40巻(797年)の「阿弖流為」ではなく「阿弖利為」です。彼らが同一人物なのか親族なのかはよくわかりませんでした。

弖と利と梨-阿弖利為の漢字にこめられた意味

榲は杜(説文解字)。杜は梨類を指しますが、梨は阿弖利為の「利」が木に乗る姿です。
杜は赤棠。弓幹を造るに最適な性質を持つようです。
弖は和製漢字ですが、弓でしょう。阿弖利為は最強の武具である弓を作る樹・赤棠にたとえられたような武芸者であったのかもしれません。もののけ姫のアシタカのようです。

草木疏】甘棠,今棠棃,子色白少酢,滑美。赤棠,子澀而酢,無味,木理堅韌,可作弓幹
陸璣·草木疏】赤棠,子澀而酢,無味。木理韌,可作弓幹

「杜、赤棠。……赤棠、木理靭かにして、又以て弓幹を作るべし。」 爾雅 釈木 (孫引き)
杜はアテルイのようです。陸奥梨は阿弖利為なのでしょうか。

甘棠の愛

杜は甘棠。詩経の「甘棠の愛」召公 のエピソードもこめられているのかもしれません。榲は杜で杜は甘棠ですし、榲には樹木の勢いよく茂るの意味もあります。今も人々から愛される阿弖利為の碑に合致します。斬るなも坂上田村麻呂の助命の気持とあうようです。

「こんもりと茂ったりんごの木
枝翦るな幹伐るな
召伯さまがやどらした木じや

こんもりと茂ったりんごの木
枝翦るな君伐るな
召伯さまが休ました木じや

こんもり茂ったりんごの木
枝翦るな花抜くな
召伯さまがいねました木じや」
『詩経』「国風・召南」(孫引)

雄徳山-男山と女山、牡山と牝山

牡曰棠。牝曰杜。樊光曰:赤者爲杜,白者爲棠。説文解字 なので
杜山=牝山杜山=赤山となるとも言えます。そこがアテルイ終焉の地?かもしれません。

河内国も共同管理していた牡山(現八幡市の男山・雄徳山)の烽火。

「牡山烽火。無所相當。非常之備。不可。宜山城河内兩國。相共量定便處置彼烽燧。」 日本後記,延暦十五年9月(796年)

男山・雄山の対となる女山・雌山が八幡市の男山にもあってもおかしくはないものの、中井家文書「石清水八幡宮全図」では西山や四人山などが描かれているのですが、複数ピークのうちどれが該当するのかわかりません。4つの郡、山城國久世郡・山城國縄喜郡・摂津国嶋上郡・河内国交野郡で囲まれているのですがどの地域がどこに所属というのも変化があったようで明確ではありません。

禁葬埋雄河内国交野雄徳山。採造御器之土也。」類聚国史,巻七十九大同三年正月(808)

大阪府=河内国に該当する男山の裾野や丘陵にも粘土層の土地があるのですが、そこがもしかすると牝山に該当し、阿弖流為阿弖利為没6年後の808年に交野の民草へそこへ埋葬することはならぬとのおたっしが出たのかもしれません。
1つは和気清麻呂にまつわる伝承の足立寺跡がある西山の裾野、継体天皇樟葉宮跡・桓武天皇郊祀壇跡との伝承がある交野天神社周辺で、戦前は交野神社(かたのじんじゃ)でした。牧野公園の伝阿弖流為碑の横の神社も片埜神社(かたのじんじゃ・延喜式では片野神社)です。
もうひとつは山城国との国境、戦前の牧野村飛び地です。牧野村は牧野公園の伝阿弖流為碑横の片埜神社・久須々美神社(両方の神社ともに交野郡に2つある式内社)があった坂村、渚村・禁野村・磯島村・小倉村・宇山村・養父村・上島村・下島村(全て河内国交野郡)が明治22年合併してできた村です。

延命の神・泰山府君(赤山明神)と阿弖利為

「樊光曰:赤者爲杜,白者爲棠。」説文解字
榲山=杜山、杜山は赤山ともいえます。823年、新羅の張保皋が中国山東省に建設した赤山法華院の赤山明神を想起させます。京都の赤山禅院をたてた円仁は張保皋の支援を受けて唐で学んでいます。

泰山府君は延命の神。ここも、アテルイの延命を含意させるものがあるように思います。

泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく・たいざん)の神であり、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。赤山禅院の由緒

没する烏、赤い烏-太陽の赤烏

-从困切。去聲。(唐韻)
榲山は"从困切"山。烏の没する山。榲山=杜山=赤山なら、没する赤い烏の山。赤烏とは金烏、太陽の中にいる三本足の烏、太陽の異名です。交代で扶桑の木の上へ昇る10日。木の上の利である梨(杜・榲)。日(太陽)である赤烏。弓で射落とされる9日(榲=从烏困切)。弓幹をつくる"赤棠=杜"。射落とす弓と射落とされる烏が榲という文字の中に隠されているように思います。中国神話の后 羿 の射日弓神話のようです。アテルイの碑の周囲は真木(牧)の郷と呼ばれていました。真木の上の日(太陽)と土地に眠るかつての日(古墳群)の地。

2人の王が同時に国を統治できないという意味をこめたのでしょうか。

「下有湯谷,湯谷上有扶桑,十日所浴。在黑齒北,居水中,有大木,九日居下枝,一日居上枝。」海外東經

天帝である帝夋 (嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた[1]。ところが帝堯の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる[2]。
1.袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 289-296頁
2.松村武雄 編 『中国神話伝説集』 社会思想社<現代教養文庫> 1976年 15頁wikipediaより

赤烏は陰陽師安陪晴明の著との伝説がある三国相伝陰陽膽轄 内伝金烏玉兎集にも書かれています。その書を見たいと希望した道満と晴明の対決(フィクション)。晴明を裏切り道満と不実の仲となった妻の名前は「梨子」でした。

2体並葬の宇山2号墳と刀の宇山1号墳

-从困切。 去聲。(唐韻)

榲-没する从烏-のように宇山2号墳では2体が埋葬されていたのが発掘されたようですが、偶然でしょうか?それとも坂上田村麻呂などがこのアテルイが没したより更に昔の埋葬とアテルイの顛末を混同させて、桓武天皇の遊興の地、渡来人も暮らす交野ヶ原で彼らの延命を謀ったのでしょうか?

宇山2号墳……6C中頃……木棺直葬 (1・2号遺骸)
宇山1号墳……7C初頭~前……横穴式木室 ……銀象嵌鍔付太刀、鉄鏃
西田敏秀 1994「北河内の後期古墳と終末期古墳」『平成4年度市民歴史講座 飛鳥・奈良時代の河内 と大和 講演記録集』、枚方市教育委員会・枚方市文化財研究調査会,from94頁,吉田知史,交野の古墳時代集落動態より孫引き

石清水八幡宮護国寺の六宇の宝殿と宇山

アテルイの碑と片埜神社がある坂村に隣接する宇山。石清水八幡宮の建物は六宇の宝殿(正殿三宇。外殿三宇)です。
六宇は天地と四方(東西南北)の意味もあります。六宇のある山は六宇の山といえるでしょうか。宇山、一宇は片埜神社のニックネームのようなものなのでしょうか。

始め、釈行教、南都大安寺に居す。曾つて貞観元年、宇佐の神祠に詣し一夏九句、昼は大乗経を説き、夜は密咒を誦す……教、漸く山城州、山崎に至る。其の夜、又、夢中、太神告げて曰く、師、我が居る所を見よと。覚めてこれを見れば則ち、東南、男山、鳩の峯の上、大光現ず。 186頁,黒川道祐著,宗政五十緒校丁,岩波文庫 雍州府志(上),岩波書店,2002年

結論

皇祖を祀る八幡宮、王権同志の衝突。中国日本新羅の神話、没する太陽の神話をかけて王権制覇の正統性を主張しながら相手を讃え、延命の可能性もうっすらと匂わせた-桓武天皇の遊び場で漢系・朝鮮半島系の渡来人も暮らす都から離れた郊外、交野ケ原の牧(真木)の郷・へ逃がした物語かもしれないと思いました。

処刑したというのは、公文書偽造かもしれません(笑)。

結論:きっと2人はボーイズラヴ甘棠の愛('◇')ゞ。

merry christmas mr lawrence (1983) - respect or love

「それは自分が今まで会ったなかで、一番立派な男の髪の毛である。その男は敵側で、もう死んでしまったが、それでもやはり大変立派な男で、自分は決してわすれない。こと切れたあの男の頭から、例の金髪を自分が截りとったのは、ただひたすら、あの男の後世の住処を与えんとしたがためである。戦争が終わった暁には、祖先の御魂を祭る御社に、その髪をもち帰り、奉納するつもりだ。……ロレンスは、すでに日本に帰国していたヨノイに、金髪を送ってやった。折返しヨノイの深い謝辞をしるした手紙が送られてきた。例の髪は神社の聖なる火に捧げた、と。手紙によれば神社は美しい場所にあり、秋祭りの日など、さながら全山、山火事のように真赤に燃えさかる楓の木の生い茂る急な丘陵のなかの、杉の木に囲まれた道をずっと潜りぬけた果てのところにある。雲に聳える高みから滝がほとばしり、下手の川と池に流れこみ、そのあたり、鯉と身のこなしの早い鱒が、いっぱいに泳いでいる。まわりの空気には、さまざまな樹木の馨が漾い、ゆたかな水に清められている。かのひとの御霊に、まことにふさわしい住処である、とあなたも分かってくださるだろう、とあり、ヨノイの自作の詩で結んであった。
春なりき。
弥高き祖霊畏こみ、
討ちいでぬ、仇なす敵を。
秋なれや。
帰り来にけり、祖霊前、我願う哉。
嘉納たまえ、わが敵もまた。」
242頁,由良君美・富山太佳夫訳,ローレンス・ヴァン・デル・ポスト,"種子と蒔く者",戦場のメリークリスマス〔影の獄にて〕映画版,思索社,1983

 

 



1 コメント

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アテルイ  (もののはじめのiina)
2019-08-06 10:08:21
『火怨・北の英雄 アテルイ伝』(吉川英治文学賞)原作者:高橋克彦が面白かったです。

9月に東北を旅するので、胆沢城に寄ってみたいです。

アテルイを捕らえた坂上田村麻呂が、京の都に清水寺 を建てました。

いまも將軍塚で鎧を着て京を護っているのですね。

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